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この世界は生き辛い-自己同一性と他者嫌悪-

嫌な気持ちになりたい人だけ読んでください。

 開幕からなんだが、僕は世の中の大体のことが嫌いである。

 特に人間については顕著で、基本的に関わる全ての人間を嫌いになってきた。勿論自分も例外ではない。人間が嫌いだとこの世界は本当に生き辛いが、今回はなぜこんなことになってしまったのか理由を考えていきたい。

 まず、問題の第一としてあるのが、他人を完全に減点方式で考えているところにある。

 というか、少しでも嫌なところを見つけたとき、「あ、嫌だな」という気持ちを抑えることができない。少しも嫌なところのない人なんて当然存在しないので、結果的に全員嫌いになってしまう。

 世界には(といっても僕の周りだけを見てこんな大きな言葉を使うのも憚られるが)様々な人がいるので、実際本当に誰に対しても優しく、見返りを求めない行為を行ってくれる人に出会ったこともある。

 しかし、僕はそういう人と関わると心底嫌な気持ちになる。彼はこんなに優しくしてくれるのに、僕には彼にしてあげられることが一切ない。そして、こんな優しい彼は結局優しいが故に毎回損な役割を押し付けられているように見える。それが納得いかない。

 こう見ると、ほっとけ、というようなことにも思えるが、そう感じてしまうからもうどうしようもない。そもそも、その不満を解決する行動力と実行力を持たないせいで、勝手に悲しい気持ちになって勝手に萎えているのである。

 それでは、さらにこの原因を深掘りしていきたい。なぜ、こんな他者の行動一つ一つに後ろ向きにならなくてはならないのか。

 そこで、たどり着いた結論が、「他者と自分の区別がついていない」ということである。

 どこかで聞いたことがあるのだが、こんな例がある。(記憶が曖昧なので細部は不明)

 

 ある部屋の机の上に、クッキーのたくさん入った箱がある。

 Aさんが部屋に入ってきて、中から一つ食べて部屋を出ていった。

 今度はBさんが部屋に入ってきて、クッキーを棚の上にある箱の中に入れ替えた。そして部屋を出ていった。

 Aさんが再び部屋に入ってきて、クッキーを食べたいとき、最初に調べる箱はどれか?


というものである。この問題に、幼い子供は机の上の箱を調べる、と答えるらしい。

 この全ての話を知っている「自分」という存在と、「Aさん」という存在を区別できていないからである。

 本題に戻ろう。なぜこの例を出したのかと言えば、僕が、潜在的に他人を思い通りに動くものだと思ってしまっているからである。

 他人の行動が自分の思い描いたものと違ったとき、失望してしまう。他人が全部自分だったらいいのに、とさえ思ってしまう。

 自分と違う他、というものを受け入れられるようにならないと、この問題は解決しないように思われる。

 ここまで書くと、やはり僕は自分のことが大好きなんだという気もする。

 しかし、こんな風に思っている奴が周りにいたら、僕は間違いなくそいつを一瞬で嫌いになるだろう。こんなに他人のことを考えられない奴が社会にいていいはずがない。

 こういった原因から、自分の思い通りにいかない他者を嫌い続けてきたわけだが、結果的にそれは自分にも降りかかる。

 僕は、チャレンジする、ということが非常に重要だということを子供の頃から何千回何万回と聞いてきた。そして、確かにこの人生では色々やってきた。ゲームの大会に出てみたり、資格試験を受けてみたりした。

 しかし、今まで一度も成功したことがない。

 これは驚きの結果である。全てのことで、「勝ちたい」という思いだけ膨れ上がって、結果は一切伴わない。思い通りにいかない。

 結果を見て、自分の身の丈を知って、自分を嫌いになる。

 そして最近、自分の趣味が、「勝てない大会にちょっと練習して参加してボコボコにされてしばらくの間萎える」ということだということに気づいてしまった。

 なんて無駄なんだ。辛いだけである。

 「なんでもやってみた方がいい」が嘘であると胸を張って言える。(ただ恥ずかしいだけ)

 この成功体験のなさが、また自分の卑屈さを引き上げているようにも思えるが・・・。

 どんどん脱線して行ってしまいそうなので、まとめとして自己嫌悪について書いて終わろうと思う。

 他人の何かを嫌いになるというとき、それは他人の行動を見つめるときである。この行動を、自分に照らし合わせたとき、自分がそれに一切当てはまらないことはない。

 僕は差別主義的発言に過度に敏感である。世の中的には面倒くさい人間である。しかし話の腰を折る訳にもいかないので、日常では基本的にはそれをスルーすることになるのだが、耐え難い苦痛である。関係を維持するためとは言え、この会話で僕は差別を助長している存在かもしれない。

 さらに、それを差別的発言だと思う自分は、逆に過度に差別しているのではないかと不安になる。

 そもそも、なぜ僕は嫌々で人間と話しているのか。こんなんじゃ、相手も不快にさせるし自分も辛いし、良いことが何も無い。

 そしてまたこう感じてしまう自分を嫌いになる。

 これが、僕の抱える自己嫌悪である。

 自分の嫌いな他人を思い通りにできない自分が嫌いな他人を見て結局自分を嫌いになる。

 嫌いなものしか残らなくなってしまった。

 これらの感じたことを、表に出さないように何とか生きている。(精一杯の自分に対するフォロー)

 こんな人間だが、まだ惰性で生きていくことだけはできるらしい。

 それではまた次回があれば。

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― 新着の感想 ―
『嫌い、辛い』って気持ちを欠点として捉える必要はないんすよ。 ただ、あなたが敏感すぎるだけで、他人や自分を嫌いになる気持ちがあっても、それを抱えながら生きていくだけで立派なもんすよ。
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