この世界は生き辛い1−自分はクソだし他人もクソ−
嫌な気持ちになりたい人だけ読んでください。
最近何だか非常に生き辛い。他人が何も気にしないことを気にしすぎているような気がする。
自分は他人と違うんだという言葉自体がイキっていそうでそもそも辛い。さらに言えば、こんな文章を書いて誰かの共感を得ようとしている自己承認欲求が嫌で仕方がない。
しかし書かずにはいられないのである。やらなくてはならないことをやらずダラダラして、気づけば夜中2時。これはいかんと思って床につくもどうしても眠れない。しまいには体中が痛みだし、耳鳴りも止まらなくなってしまった。
そんなわけでこうやって起き出して文章を書いているわけだが、はて、明日早起きしてやらなければいけないことをやれる可能性はもはやゼロ。
もうヤケクソで、人生で起こった嫌な出来事を全部書いてしまいたいのだが、それは何と小学一年生の時まで遡ることができてしまう。
当時の嫌だった気持ちを、何故か今でも鮮明に思い出せるのである。
今、小学生が迷子で泣いていたりしても、もちろん恥ずかしいなんて思いやしないのだが、過去自分が授業参観の日に親が見つけられなくて泣いてしまった(当時は本当に泣き虫だった)ことを思い出すと、苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
こんなことも、実は潜在的に自分が「子供でも泣くのは恥ずかしいことだ」なんて思っているんじゃないかと嫌な気持ちになる。僕はそんなこと思っている人が嫌いだからだ。別に泣いたっていいじゃない。でもそれなら、自分が子供の頃に泣いていた様子を思い出して嫌な気持ちになるのは、なぜなんだろうか・・・。
こういった潜在的な自分の感情に気づいたときが一番悲しいのである。外部に起こった嫌なこと一つ一つを見返す度に、自分の中に嫌なところを見つけてしまう。
つまり、究極的には自分が本当に嫌いなのである。何が起こっても自分が駄目だという気持ちになる。
しかし僕は、自分のことが大好きである。大抵の場合自分が一番得することをしようとするし、何か行動をするとき、その行動が正しい、自分は間違えていないと思わなければ何もできない。「自分のことを一番愛せるのは自分」という言葉にも納得している。
ここで問題なのは、僕がこんなに自分のことを嫌いなら、他人はどれだけ僕のことを嫌いだろうか、ということである。
いや、自分のことを好きと言ったり嫌いと言ったりなんなんだ、という人もいるかも知れないが、これはどう説明したらいいのか全く分からない。そもそも好きでなければ生きていけないとも思うけれど、自分が嫌になる時が多すぎる。我が身かわいさに生き長らえてしまっているような気もする。
他人に嫌われているだろうと思えば、当然他人のことを好きになるのはほぼ不可能である。勝手に「ああ、この人にも嫌われてるんだろうな」と思って一人萎えている。
この感情が、内々に留められていて、誰にも危害を加えないものであったらいいと思うのだが、そういうわけにもいかないのが人生である。(こんなことをいいながら、上手くやる術はあるはずなのにとずっと悶えている)
最近、といってももう1年近く前になるが、こんなことがあった。インスタをやっている人が、やっていない人に、「え〜!そんなのやってるの〜?」というように軽く嘲笑されていたのである。こんな場面に遭遇すると、謎の正義感を抱えた厄介警察である僕は手が(口が)出てしまう。
「自己承認欲求満たしたいからやるだろ!」
まさに何だコイツ、である。嘲笑されていた彼は、「いや、そういう目的じゃなくて普通に使ってるから。」
いや恥ずかしい。自分が、承認欲求を満たすためにSNSをやっていて、その事実に自己嫌悪しているために、自虐ネタとして何故か他人の気分を害してしまった。まさにクソである。何故か、自分が自分の行動を嫌いすぎて、全員が自分の行動を恥ずかしいと思っていると勘違いしているのだ。そして自虐ネタと思って普通に他者の気分を害する。完全に悪である。救いようがない。「自分はクソだし他人もクソ」というクソ論法を戒めなければならない。
この、他者と自分の区別がそもそもついていない、というのも僕の人生で大きな問題を生み続けているのだが、それはまた次回の話にしよう。
今回はこんなところである。僕は定期的に(1日2〜3回)嫌なことを思い出しては悶絶している。(この数字もなんか盛っているような気がして嫌なので、訂正して「1日1回は」にしておこうと思う。)こんな性格なのに(というのもおかしいが)、見栄っ張りで話盛り盛りマンなのが普通に意味が分からん
取り敢えず、身の丈に合った生き方をしたいとずっと思っている。3時まわってんじゃねえか、寝ろ。寝れん。辛い。
なんか羞恥心をどこかに置いてきた気がする。