1.目覚めて、森の中
春眠暁を覚えず。
近年はこれ単体で用いられることが多いため忘れている人もいるかもしれないが、本来これは孟浩然の作った春暁という漢詩の冒頭一節にすぎない。
全体だと確か......
春の明け方は気持ちが良く、思わず寝過ごしてしまう。
ところどころから鳥の鳴き声が聞こえる。
そういえば昨晩は大雨だったな。
花は散ってしまったのだろうか。
大体こんな内容だったはず。
まあ本当にうろ覚えでしかない。高校時代に漢文の時間を他教科の内職に費やしていたので、俺の知識は全くもってあてになるまい。そもそも春暁を授業で扱ったのか、それともスマホで適当に調べたことがあるから覚えていたのか、それすらも定かではないのだ。
だが、これが予期する目覚めではなかったことだけは確かなことだった。
目を開け、困惑した。
青々と茂る藪の向こうには所狭しと木々が立ち並んでいるのが見える。それらの枝葉が天蓋の役割をしているのか辺りは暗めであり、木漏れ日の暖かさを強調している。あまりにも典型的で、ここがどこかと言われれば森の中というほかないのだが、かといってこの光景に見覚えがあるわけでもない。少なくとも、近所にこのような場所があった記憶はない。
一帯はどこを見ても藪だらけで、目につくものといえば左隣に鎮座するこの石碑ぐらいだ。石碑といっても1メートル強の背丈の石が置かれているだけで、何が書いてあるかはここからでは見えない。前面は向こうを向いているらしい。まあ、明らかに自然発生したものではないので、山の中腹とかによく置かれているあれだろう。
いい加減に結論付けた後藪ごしに色々と観察していると、見えにくい位置に獣道を発見した。割と手前にあるので、藪に隠れてしまっていて本当に見えにくい。
では藪の上から見てみようと立ち上がろうとして、あるいは両の手をもって目の前の藪をかきわけてみようと思って……
この時点で初めて、それらが不可能だということに気が付いた。
驚いた。
そもそも意識がはっきりしたまま体の感覚を失うなどという金縛りじみた経験をしたことがなかったのもあるが、まさか体が動かせないなんてことになっているとは思うまい。知っている限り全ての動作を試してみたがなしのつぶて。首の筋肉を一切使わずに360度見まわすことならできた。だからなんやねん。
本当にそれ以外の動作が一切できない。瞬きすらできないとは。不思議と目は乾かないようで、その点は安心した。
一切の自由がない状態。まったく知らない場所で、それも結構深いところにある森林に、独りで放置されている。自分はなぜここにいるのか、なぜ生きているのか、ここはどこなのか、なぜ身動き一つとれないのか。
様々なことが頭の中で錯綜する中、思考の雑音を断ち切ったのは、ひとつの足音だった。
靴底で土をしっかりと踏みつける音。
山登りに詳しいわけではないが、慣れている人の足音だと直感で理解した。
音はだんだんと大きくなってきた。
ゆっくりと、しかし着実に近づいてきた音の正体が、今やってくる。
さて、どんな人がやってくるんだろうか。
ここは無難に登山家とかだろう。しかもここらへん明らかに辺鄙だから、くる人は相当な通と見たね。
果たして、ステレオタイプな山男を予想していた俺の前に現れたのは、ひとりの少女だった。そんなことある?
長袖Tシャツに長丈のズボンを身に着け、全身がこげ茶色。頭には白い布を頭巾にしてかぶっており、ズボンの上からはこれまた白い前掛けのようなものも着用している。どこを見ても土で汚れている、まあ芋っぽい見た目の女子だった。
今の日本、こんな見てくれの若者は相当少ないと思うのだが、兄弟が多いとかでおさがりしかもらえなかったとか、そんなところだろう。お年頃だろうに、かわいそうにねぇ。
勝手ながらそんなことを考えてるうちに、その子はもうすぐそこまで接近してきていた。すぐに彼女は何かを見つけたような素振りを見せると、件の石碑の前まで走ってくる。そのまま急停止するとすぐに、その場で跪いて祈り始めた。
見れば少女は何かを唱え、石碑に祈りをささげている。この石碑、宗教的なサムシングだったらしい。というか、本当に石碑だったんだなコレ。
しばらくして少女は立ち上がった。祈りが終わったのであろう、軽く膝の土ぼこりを払って歩いて行こうとする。なぜか、お祈りが終わった直後にしてはネガティブな表情を見せているが。
なんにせよ、俺にとっては第一村人。
軽く状況を教えてもらおうと、まぁダメ元ながらだが、声をかけようとして……
「おーい」
声が出た。
瞬間、疾走。
ぎゃあぁあ、と甲高い叫び声が遅れて聞こえてくる。
土ぼこりを巻き上げながら、少女は去っていった。
冷静に考えると、ここで声を出すことができたのは俺にとって大きな発見だ。
そうではあるのだが、声をかけただけで女子が逃げていくという、前世でも体験したことのないイベントの前に俺は途方に暮れるほかなかった。
こうして、俺は何の追加情報も得られずに再び独りとなってしまった。とほほ。
「独り独りって、さっきから何言ってるのさ。ここに僕がいるじゃんか」
突然、声が返ってきた。
件の少女が戻ってきたわけではない。つまりこの声は他の誰かから発せられたもの。
深い藪の中だ、人が隠れていても不思議ではない。普通はそう思うだろう。
だが、俺には分かった。
判ってしまった。
声の発生源と対象をつなぐ矢印のイメージで、明確に発話者が誰か伝わってくる。
その正体は、目の前の石だった。
「喋る石って、マジで存在するのな」
まあ、目の前のはアズライトでもなんでもなく普通の石ころだけども。
そう言うと、石碑が怒ってしまった。石呼ばわりされたことが気に入らないらしい。仕方ないだろう、どう見ても石だし。というか石碑が怒るって表現は一体なんだ。こりゃ俺は相当末期だな。
ともかく。
せっかく俺以外の人間、まあ人語を解してるから一応人間、が現れたのだから、いろいろ聞いてみよう。
そう思って左を見ると......
「人間?」
そいつは不思議そうにしていた。
待て、つっかかるところはそこではない。ここがどこかとか、なんで俺は動けないのかとか、お前さんには聞きたいことがたくさんあってだな……
え。
「いや、僕もびっくりしてたんだよ、相当」
......ああ、そうか。
俺の体が無事なわけがない。
「こんな体験、僕の人生でも初めてさ」
それに、辺りは植物だらけの環境。その中で自分の体がどこにも見当たらないのは……
すでに俺は死んでいて、幽霊になってしまったから。
「だって、小さな草が僕と会話しているんだもの」
いや草。そうはならんやろ。
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