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新たなる始まりの日々

 俺の会社は少人数のデザイン事務所。


 朝の就業時間は九時なのに、出社一番乗りの俺はそれよりも三十分以上早く着いた。


 当然まだ誰も来ていないので、シンと静まり返る室内。

 窓の外の道路では車の往来と騒音が騒がしい。


 デスクに鞄を置いてバタバタしていると、時間はあっという間に過ぎていく。


 気付けば、九時まであと十分。


 自由な空気を醸し出すこの事務所、とりあえず時間までに着けば的な人達ばかりだ。


 それでいて仕事はきちんとこなすので、この事務所の代表は見て見ぬ振りをする。


 本当にそんな事でいいのか、俺にはわからないが。



 ☆ ☆ ☆



 事務所の扉の向こうが、ガヤガヤと騒がしい。


「おはよう」


 次々にやって来る同僚から挨拶を受け、俺も応じて返す。


 でも、いつもの朝なのにいつもと違う風景。

 それはそうだろう。

 皆の唖然とした顔を見れば一目瞭然。


 何故ならそこにいたのは俺だけではない。

 フローリングの床にブランケットを敷いて、その上に座る犬も一緒だったのだから。


「ワタルくん、どうしたの? その犬……」


「宇田川、何だそれ」


 反応は様々。

 でも興味を示しているのは確かなようだ。

 ただそれが、犬に対してなのか俺に対してなのか。


 その時の俺は犬にミルクを飲ませている最中。


 昨日より少しは元気な気がする。

 何故なら自分でミルクをなんとか飲む事が出来たから。

 夜の時点での、あの弱り方では厳しいかもしれないと思ったのだ。


 俺は昨日の出先での出来事とその後を簡単に説明した。


「酷いですよ。 こんなに年取った犬でも最後まで面倒見てあげるのが飼い主の役目なのに……」


 松林翼は一年目の事務員。

 情に厚くて涙もろい、眼鏡の奥の目が今にも泣きそうだ。


「仕方ないよ。 それだけの責任感が全ての飼い主に備わっているとは思えないもん」


 山田は昨日一緒に行動していたから事情を知っている。

 だからこそ、飼い主に対する憤りや悔しさも静かなのだ。


「それでどうすんだよ。 この犬飼うのか? 仕事忙しいのに面倒なんか見れねぇだろ」


 そう言うのは倉本真哉。

 俺と同い年の同僚で少々、口が悪い。

 でも根が真面目だから中途半端な行動が許せないのだ。


「シンヤ先輩、そんな言い方やめて下さい。 傍観者は口出しすべきじゃありませんよ」


 翼は倉本のこの口の悪さが気に入らないらしい。

 入社一年目が先輩にその口もどうかとは思うのだが。


「傍観者って何だ、事実だろ。 そんな片手間じゃ仕事も世話も出来ねぇんだぞ」


 ブランケットの上にクッションを置き、その上に犬を座らせてミルクを飲ませていた俺の側で言い合いを始めてしまった倉本と翼。


 四年目社員の岡崎渚はクッションの上で倒れてしまいそうな犬を支え、俺達の様子を静かに見ている。


「こいつさ、目が見えないんだよ」


 俺の発した一言に二人は言い合いを止め、黙ってしまった。


「山田は知ってるよな」


 目線を犬から山田へ移すと、頷いて答えた。


「昨日、先輩と一緒でしたから」


 犬は少しずつ、ミルクを舐めるというより食らい付くようにして皿の中に顔を突っ込んでいる。


 もしかしたら老犬な上、目が悪いというだけではないのかもしれない。


「倉本の言う事は正解だし、正論だと俺も思うよ。 でもさ、なんとかしてやりたいんだ」


 俺は昨日からずっと考えていた事を口にした。


「飼い主の元でどんな生活をしてきたのか、幸せだったのかわからない。 ただ確実に言えるのはこいつの命は残り少なくて、旅立ちの日が迫って来てるという事だけ。 そんな状態なのに飼い主は放棄したんだ。 そんなの許せないだろ? まぁ、だからと言って俺に何が出来るかなんてわからないけどさ、こうやって出会ったのは運命だった気もするんだよね。 だったら安らかに旅立って行けるようにその時までの手伝いをしたくて」


 犬の顔がミルク色になっている。


 ほぼ、鼻から口にかけて全てを皿に突っ込みながら飲むのだから仕方ない。


 そして、今の今まで一度も口を挟まなかった渚が俺の隣で言った。


「私もワタルくんを手伝いたい。 一人より二人の方が出来る事はあるはずよ」


「俺も手伝いますよ。 犬飼った経験あるし、知識もあります。 俺に出来る事あったら何でも言って下さい」


 山田が渚に続いて手を上げてくれた。


 そして翼も。


「もちろん俺も。 宇田川先輩の手が離せない時は誰かしらがこの子についてた方が安心でしょうから」


「ありがとう、助かるよ」


「ところで先輩、昨日は気付かなかったけど耳も悪いみたいですね。 よく聞こえてないっぽい」


「ワタルくん。 この子の名前は?」


「元々の名前はわからないんだ。 だから昨日の夜に考えた」


「何?」


「ソレイユ。 フランス語で太陽という意味らしい」


「柴にしてはハイカラ過ぎません?」


「本当は翼にしようかとも思ったんだ。 なんとなくそれっぽいだろ?」


「宇田川先輩、俺を飼う気ですか?」


「ふふ、ごめん。 でも見付けた時の太陽がすごい綺麗だったからさ」


「いいんじゃない? ソレイユ。 ワタルくんらしい」


 ソレイユがミルクを飲み終えると、俺は山田にさっそく尋ねた。

 俺は動物の世話をした事がないから何もかもが初めてで、わからない事ばかりなのだ。


「オムツの前と後ろがわからなくてさ。 これどっち? どうやったらいいの?」


 山田は朝、ホームセンターのペットコーナーに寄って必要な物を色々と買って来てくれた。


 何が必要なのかもわからないのだから頼むしかなかったのだ。


 買って来てくれたレジ袋の中にはオムツやウエットティッシュ、トイレシートや消臭スプレー、水やミルクを入れられる皿、その他諸々。こんなにいるのかと驚くくらいのたくさんの物が入っている。


 そして犬を飼った事のある人間ならではの考えで、折り畳めるケージも用意してくれた。


 これがあれば仕事中はケージに入れて寝かせる事が出来そうだ。


 山田の手付きはさすがで、いとも簡単にオムツを替えていく。


 オムツの向きや替え方を教わるのは俺だけでなく、渚と翼も一緒。


「多分、二~三時間毎にオムツ確認した方がいいです。 オムツの外から手を当てて触ってみたらわかるから」


 ミルクを飲んでオムツも替えて安心したのか、ソレイユはゴロンと横になって開いているのかいないのかわからない目を開けている。



 ☆ ☆ ☆



 それからの俺はどこに行くにも斜めに掛けたソレイユ専用バッグを持ち歩くようになった。


 いつも仕事が終わって帰って来れば、リビングの一角にブランケットを敷いたソレイユ専用コーナーに寝かせる。


 最初は覚束無い手付きだったオムツ交換も、数回もすれば手慣れたもの。


 かたいドッグフードは食べられないので、柔らかい缶詰食や流動食を買い揃えた。

 高齢犬は歯も弱くなっている可能性があるし、実際のところ手入れもあまりされていないようだ。


 ソレイユは放っておくと、横たわったまま動けないでいる。

 リビングで身体を支えて歩かせる事もあるが、足腰が相当弱っているらしく、動かそうとしても自分だけではなかなか動けないのだ。



 ☆ ☆ ☆



 あれから一週間、あっという間だ。


 ソレイユは飼い主が恋しいだろうか。

 俺に飼われている認識はあるだろうか。


「ソレイユ」と呼んでも、おそらく以前と違う名前だろう。

 それは誰の名前なのか、と思っているかもしれない。

 目も耳も悪いのだから反応が無くて当たり前なのだが。


 事務所内での仕事の時はフローリングの床にブランケットを敷いて寝かせている。

 そこに誰もいない時は折り畳み式のケージを広げて中に入れるようになった。

 万が一、誰かが入って来た時に驚かれたり、悪戯されたりしないようにする為。


 手の空いた時間には誰かしらが必ずソレイユの様子を見に行く。


 だからオムツ交換は皆、手慣れたものになってきた。


 倉本はオムツ交換はしないが、それでもソレイユを気に掛けてくれているのがわかる。

 実は彼は動物が嫌いなのではない。苦手で触れない、手が出せないだけなのだ。


 今までの俺は当然ながら一日の大半を自分の為だけに使っていた。


 朝は起きたらミネラルウォーターを飲み、PCを開き、手帳を開いてスケジュールをチェック。

 夜はたまに飲みに出掛け、帰って来ればシャワーを浴びる。

 PCを開いて、手帳に翌日の連絡事項を書き込む事も忘れない。

 寝る前の一杯も欠かさない。

 時には思い付きで誰かを伴ってホテルに泊まる事も。


 それらは全て、自分の欲求と本能に従っての流れだ。

 誰かの為、何かの為に時間を使うなんてほとんどなかったし、考えた事もない。


 それがソレイユが来てからは、ソレイユ中心の生活だ。


 まず夜中はソレイユのオムツ交換に少なくとも二度起きる。

 びっしょり濡れる時もあれば、俺が起きなくてソレイユの鳴き声で起こされて慌ててオムツを確認すると大小しっかり……、なんて時も。


 そんな時はソレイユの頭を撫でて……。


「ソレイユ、いっぱい出たなぁ。 オムツ替えたらスッキリしただろ」


 朝は起きると、ソレイユの様子を見に行く。

 オムツを替えて少し身体を動かし、それから食事の用意だ。

 少しでも元気になってもらいたくて、栄養のある缶詰や犬専用のミルクを混ぜて食べやすくする。


 これらは山田が教えてくれたやり方。

 高齢犬はとにかく目を配らなければいけない。

 それだけではない。

 ソレイユにとって、俺は本来の飼い主ではないのだ。

 拾ったとはいえ、知らない他人と思っているかもしれない。


 でも、それでもいい。


 ソレイユを飼い始めてわかった事がある。

 犬を飼う大変さと命を育てる尊さ。


 きっと元気な犬ならそうでもないのだろうが、老犬の介護がこんなにも大変だとは思わなかった。


 わからない事ばかりなので、犬の飼い方の本を買ってみたりネットで調べたり。


 それでもやっぱり一番大事なのは、ソレイユへの愛情。


 ソレイユはきっと俺の事なんてわからないだろう。

 捨てられた事も拾われた事も、今だにわかっていないかもしれない。

 もしかしたら、ちょっとだけ優しくて頼りない人間と思っているかも。


 それでも最近のソレイユは段ボール箱に入っていた時より元気な気がするのは俺の身勝手な思い込みだろうか。




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