千日紅
――私にとって、大切なものってなんだろう。
いつからだろうか、そんな疑問を抱くようになったのは。
誰もがすぐに答えられるその質問に……私はなぜか答えられなかった。
愛?好きな人は、まだいない。恋をすれば、少しはわかるのだろうか。
命?いまいちピンとこない。どれだけ健康に気を使っても死ぬときは一瞬だ。
夢?私に夢なんてない。少なくとも、いまのところは。
考えれば考えるほど、私はその答えから遠ざかっていくのを感じた。
一つ勘違いしないでほしいが……私がこんなことを考えるようになったのは、世の中に嫌気がさしたからでも、生きる意味を失ったからでもない。
ただ、私にはわからないのだ。わからないから、知りたいだけなのだ。
私の中で、一番と言えるものを。
私の中で、大切だと思えるものを。
私の名前は柏崎紫苑。今年で確か16になる。世間一般でいうところの女子高校生だ。だからといって、何か特別な存在というわけでもないが。
そんな一般人の私はいま、学校の図書館にいる。学生が図書館にいる理由なんて、そう多くない。大抵の場合、勉強か資料集めだったりするが……私の場合は違う。
放課後の帰りに、ふと本が読みたくなったのだ。
図書館の本棚を覗いてみると、そこには何冊もの本がズラリと並んでいた。私はその本を一つ一つ指差しながら、お目当ての本を探した。
すると、本棚の三段目にそれらしきものを発見する。
タイトル……作者名……これだ!
私はすかさず、その本を本棚から引き出した。
「『あなたにとって一番大切な物』か……。ふふ、楽しみ」
「お?紫苑じゃないか。どうしたんだ?」
「げ、兄貴……。なんでここに……」
この人は、柏崎蓮……私の兄だ。歳は私の二つ上で、18。
性格はいたって真面目で、よく同年輩の人達に頼られている姿を見かける。
まあ、私には関係のないことだ。
「なんでって……俺、図書委員だぞ?知らなかったのか?」
「あ……」
そうだった。兄はこの学校の図書委員……しかも、三年間ずっとだ。
図書館にいたら、見つかるのは当たり前か……。
想定外の事態に、私はとっさに本を抱きしめ胸の中に隠してしまった。
「へぇ、紫苑も読書とかするんだな」
「別に……兄貴には関係ないだろ」
そういって、私はそっぽを向く。兄はそんな私を気にせず、話を続ける。
「まあ、紫苑の趣味に口出しするつもりはないよ。それより、その本が読み終わったら感想を聞かせてくれないか?」
「……なんで?」
「読者アンケート。紫苑からならいい意見がもらえると思うからさ」
「……まあ、気が向いたら」
「そっか。じゃあその時はよろしくな」
そういって、兄は私に微笑みかけてくる。なんだかはずかしくなってきた私は、その場から一目散に逃げだした。兄のことは嫌いじゃないが、こうやって私のプライベートにまで入り込んでくるので、その……苦手だ。
私は逃げ出したその足で、図書館の受付へと向かった。
「あの、貸し出しお願いします」
そういって私は、抱きしめていた本を受付の人に差し出す。ここまで無我夢中で走ってきたせいか、胸がまだドキドキしている。
「あ、はい。では、ニ週間後に返却をお願いします」
「はい、ありがとうございます……」
手渡された本を受け取ると、私はそれを鞄にしまい図書館を後にした。
図書館で読むと、また兄にからかわれるかもしれない。
帰り道、私はどこにも寄ることなく自宅へ向かった。どこかファーストフード店に寄るという選択肢もあったが、やはり読書は一人で静かにしたい。
自宅へ戻ってきた私は、手洗いうがいを済ませると真っ先に自室へと向かった。
一刻も早く、あの本が読みたいからだ。
階段を駆け上がり二階にある自室に戻ると、私は鞄を机に置き例の本を取り出した。いまの私の悩みにぴったりな本……とても楽しみだ。
いますぐ読んでもいいが、どうせなら落ち着いて読みたい。そのためには、制服から着替えなければ。
私は、逸る気持ちを抑えながらクローゼットを開ける。そして、その中から適当に部屋着を選びそれに着替えた。よし、これで準備完了だ。
先ほど机の上に置いた本を手に取り、ベッドの壁にもたれかかる。
「どれどれ……」
頁をめくる。一枚一枚、丁寧に。先ほどまでの私がワクワクモードなら、いまの私はさながら鑑賞モードだ。はしゃぐでもなく、ただただ読書に集中する。
読書を始めてから、一時間ほど経っただろうか。
結論から言うと……いまいちこの本が何を伝えたいのかわからなかった。
この本によると、多くの人がこの『あなたにとって一番大切な物』をすでに持っているらしい。ただ、大抵の場合それがあまりにも身近にあるので気づいていないだけ……とのこと。
なんだか、ありがちな内容だなと思った。これならまだ、そんな物はないと言われるほうがマシだ。かすかでも希望があれば、人はそれに縋ってしまうのだから。
まあでも、仕方ないか。自分にとっての一番なんて、赤の他人に見つけられるはずがない。
予想通り。そして、期待外れだ。
「はぁ……」
私は読んでいた本をパタンと閉じ、ベッドに寝転がる。
無駄な時間を過ごしたな、と心の中で思う。
せっかく寄り道せず帰ってきたのに。
こんなことなら、サーティワンのワッフルコーンでも食べて帰ればよかった。
ベッドの上でぼーっとしていると、コンコンと扉を叩く音がしてきた。誰だろう?
「はーい……って、兄貴かよ」
「俺で悪かったな。それよりさ、明日お祭りに行かないか?」
「お祭り……?」
カレンダーを見てみる。明日は7月21日……。そうか、もうそんな時期なのか。
小さい頃はよくお祭りにも行ってたけど、ここ最近は行かなくなったから気づかなかった。
「なんで私なんか誘ってんだよ。友達とでもいけばいいだろ」
「確かにな。でも、お前最近元気ないだろ?そういうときは、お祭りにでも行って楽しんだほうがいいって。それとも、俺と行くのは嫌か?」
「……別に、そういうわけじゃないけど」
「よし、決まりだな」
「はあ?まだ行くって決めたわけじゃ……って、いないし」
まったく……いつもながら兄は強引だ。妹にだって拒否権があることを知っているのだろうか。まあ仮に知ってたとしても、兄の態度は変わらなさそうだが。
結局、兄の誘いは断れなかった。断る理由が見つからなかったのだ。いままで駆け引きなんて考えたこともなかったが、案外私は押しに弱いのかもしれない。
お祭り当日。兄は用事があるとかで、お祭りの近くにある公園で待ち会わせすることになった。
浴衣……はさすがに恥ずかしかったので、動きやすい私服を着てきた。だいたい、なぜ兄のために浴衣を着なくちゃいけないのだ。私は別に、兄のことなんか……。
そんなことを考えていると、こちらへ駆け寄ってくる兄の姿を見つけた。
時間は……ぴったりか。相変わらず真面目だな。
「ごめん、待ったか?」
「時間ぴったりだし、別に待ってない」
「そ、そうか……。それじゃ、行こうか」
そういって兄は手を差し出してきたが、私はそれを拒むように腕を組む。
この歳になって、そんな恥ずかしいことができるか。
お祭りの会場へ入ると、中は人混みでいっぱいだった。年に一度とはいえ、よくもまあこんなに人が集まるものだ。これだけ数がいると、兄とはぐれてしまうかもしれない。そう思った私は、つい兄の右腕に抱き着いてしまった。
ま、まあ手はつないでないし、これくらい……。
そんなことを考えていると、射的の屋台があるのを見つけた。
射的なんて子供の遊び……そう思ってスルーしようとしたが、景品にクマのぬいぐるみがあることに気づく。
「かわいい……」
……はっ!?しまった、つい声が……。は、はずかしい……。
「射的、やるか?」
「え?う、うん……」
声を出してしまった以上、やらないとは言えない。
私は屋台の人にお金を払い、玩具の銃を貸してもらった。
銃にコルク栓を詰め、景品に狙いを定める。狙うはもちろん、あのぬいぐるみだ。
一発目。ぬいぐるみの頭上をすり抜ける。
二発目。隣のお菓子の景品に当たる。
三発目。外れ……。
……駄目だ。全然当たらない。弾も残り一発しかない……。私の射的の腕じゃ、あのぬいぐるみは無理か……。そう思った時、兄が隣から現れた。
「それ、貸してみ?」
そういって、兄は私に手を差し出してきた。正直当てられる自信がなかったので、私は言われるがまま銃を手渡した。
兄の射的の腕がどれほどのものか知らないが、さすがに一発じゃ当たらないだろう。そう思っていたが……。
スポン、という音を立ててクマのぬいぐるみは、倒されていた。
「うっそ……」
信じられないが、兄は一発でクマのぬいぐるみを取ってしまったのだ。
「ほら、やるよ」
「え……?」
そういって、兄はぬいぐるみを私にくれた。取ったのは私じゃないのに。
私は兄から渡されたぬいぐるみを、抱きかかえるように受け取った。
「俺が持っててもしょうがないからな。それに、紫苑のほうが似合うし」
「兄貴……その……」
「ん、どうした?」
「な、なんでもない!」
しまった……。本当は、ありがとうって言おうと思ってたのに……。
その後も色々な屋台を巡ったが、そのことが気掛かりで純粋に楽しめなくなってしまった。
何やってんだろ、私……。
「紫苑、楽しいか?」
兄は私を見ながら、そう訊ねてきた。
楽しそうにしている兄に、本当のことは言えない。
「……まあまあかな」
「ふーん?……お、そろそろ花火が始まるな。眺めのいい場所に行こう」
「あ、ちょっと……」
そういって、兄は私の手を引く。少し恥ずかしかったが、つないでみるとそうでもなかった。
景色のいい道路につくと、待っていたかのように花火の打ち上げが始まった。
眩いほどの閃光が、夜空に映る。
その花火を見て……私もあんな風に輝けたらなと思ってしまう。
「綺麗だな……」
「なあ、兄貴……」
「ん?どうした紫苑」
「さっきは、ありがとな」
花火のおかげかわからないが、私はようやく自分の本音をさらけ出せた。
その言葉を聞いて、兄は頬を緩ませている。
「紫苑を喜ばせたかったからかな……絶対に当ててやると思ってやったら、取れたんだ」
「そうだったんだ……」
「来てよかっただろ?お祭り」
「……」
そこまで兄が心配してくれてたなんて……。私は、駄目な妹だなと思う。
いっそのこと、全部話してしまおうか。兄なら、受け止めてくれるかもしれない。
それにもし駄目でも……振り出しに戻るだけなのだから。
「……兄貴。私の話、聞いてくれるか……?」
「……ああ。なんでも聞いてやるさ」
「私さ……将来の夢、ないんだ」
「……」
「いや、もっと言うとさ……一番欲しいものとかが、ないんだ。
普通の女の子なら、彼氏が欲しいとか、バッグがほしいとか……何かしらあるだろ?でも、私にはそれがないんだよ。
おかしいよな、そんなの。うん……自分でもわかってる。でも本当に見つからないんだ。いくら考えても、何かに挑戦しても……」
兄の顔を見てみる。すると、兄はとても真剣な表情で話を聞いていてくれた。
こんな、よくわからない妹を……まっすぐ、見てくれていた。
「ごめんな、変なこと言っちゃって……。やっぱりさっきのは、聞かなかったことに――」
「別にいいんじゃないか?それで」
「え……?」
「自分にとっての一番が見つからない。そんなこと、全然おかしなことじゃないよ」
「でも……そんなことに悩んでるなんて、おかしいだろ?」
「誰にだって悩みの一つや二つ、あるものだろ?それにさ、ないならこれから見つければいい」
「そう、かな……?私にも、見つけられるかな……?」
「ああ、きっと見つかる!そのためなら、何でも手伝うよ。紫苑の一番が見つかるその日まで……ずっとな」
「ほんと……?」
「本当だ。男に二言はない!」
「……兄貴のくせに、かっこいいじゃんか」
「なんだ?泣いてるのか、紫苑?」
「な、泣いてない!泣いてないってば!」
そうだ。兄の言う通り、これから見つければいい。
どれだけ時間がかかるか、わからないけど……これからは、一人じゃないんだ。
兄と二人なら、きっと……!
そう思った、数日後の出来事だった。
兄が事故で亡くなったのは。
「一緒に探してくれるんじゃなかったのかよ……馬鹿兄貴」
冷たくなってしまった兄にそう呼びかける。しかし、返ってきたのは静寂だけ。
そんな兄の姿を見ていると、急に胸が苦しくなった。
痛くて、痛くて、苦しくて……。病気にでもかかったのかと思うくらい辛かった。
原因はなんだろう。いままでこんなに苦しくなったことなんてなかったのに。
……ああ、そうか。
やっとわかった……。
私にとって、一番大切なもの。
身近にありすぎて、気づけないもの。
それは…………兄だったんだ。
なんでいままで気づかなかったんだろう。
兄以上に私のことを考え、接してくれた人間はいなかったのに。
悲しい時は、一緒に悲しんでくれた。
楽しい時は、一緒に楽しんでくれた。
でも、もうそんな兄はいない。
私は、ひとりぼっちだ。
胸が、苦しい。いまにも張り裂けそうだ。
……いや、張り裂けたほうが楽かもしれない。そうすれば、兄と同じ場所に――
……ないな。絶対ない。
兄は、毎日を必死に生きていた。死にたいなんて、一度も考えたことなかった。
そんな人の隣に、並べるはずがない。こんな、空虚な人間が。
生きていても、死んでいても一人。
それが、私にはふさわしい。
馬鹿か、私は。
なぜ努力しない。
なぜ挑まない。
兄の隣に並びたいなら、なんでもしろよ。
かつて兄が、お前にしてくれたように。
何もしないで諦めるなんて、お前は本当にあの人の妹か?
頑張って頑張って頑張って……それでも駄目だったら、諦めろ。
それが、最後まで気づけなかったお前に……私に残された、唯一の道だ。
「兄貴……。私、頑張ってみるよ。何を頑張るか、まだ決めてないけど……頑張って、生きてみせる。そしたらさ。一度だけ、一度だけでいいから……よくやったって、褒めてくれよ」
答えは、返ってこない。でも、そんなことはどうでもいい。
答えてくれないなら、何度でも答えてくれるまで聞いてやる。
答えたくなるその時まで……待っててくれ、兄貴。