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桃色の森  作者: 三津
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 あれは夢だったのだろう、と私は森を歩きながら思った。

 森には道らしい道がなく、人が住んでいるような家も一つとして見かけなかった。耳を澄ましても聞こえてくるのは得体の知れない生物の息遣いばかりで、人の話し声などは耳に届いてこない。

 リンゴの生っている木を見ることもなかった。

 私は名残惜しい気持ちを胸の中で噛みしめつつ森の出口を探した。

 その後のことは何も考えていなかったが、いち早く森を出ることに専念した。妙に肌が寒気だって仕方がなかったからだ。森が苦手ということはなかったが、その森に一人でいると心細く、何か恐ろしいものに押しつぶされるような錯覚に陥ってしまうのだ。

 虫が、木が、姿の見えない何かが、みな私を凝視しているように思えた。私は帰路を急いだ。

 幾多の生物の視線に射られながら、私は直感していた。ここでは雑多な生物が個別に住んでいるのではない。森全体が一つの生き物のようになって、外から来た私を拒んでいるのだと。

 来た道は分からないというのに迷わなかったのは、森が私を一刻も早く追い出したかったためだろう。不自然に草木を割ったようにしてできた道筋が、私を外へ誘導していた。

 かくして私は森を抜けた。

 

 私が迷い込んでいた森は人里を避けるように、村や町からは離れた位置にあった。周囲には小高く連立する山々と広大な平野ばかりが広がっていた。

 私は途方に暮れた。どこへ行くという目的がなかったため、どこへも行けないでいた。

 自分の足がそう遠くまで赴けるようなものではないということも、その頃には嫌というほど理解できていた。

 

「帰りたいな……」


 そう呟いた私の脳裏に浮かんだのは、なぜか夢の中の家だった。

 気づけば広大な大地を目の前に踵を返し、私は自分を遠ざけようとする森の中へ入っていった。

 もう一度、ティーナと会いたい。そんな思いが私の頭を占めていた。

 あの夢だけが帰る場所を失った私の拠り所なのだ、と無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。

 

 辺り構わずうろつき回る私を、やはり森は歓迎しなかった。

 前よりずっと厳しい刺すような視線に私はさらされた。何者かの敵意は明確で、私はその場その場から逃げるように歩き回った。

 朝から夕暮れまで森中を探した。

 食料などはもちろんなかったので、森を流れる川の水で腹を満たした。しかしそうしている間にも木々の枝が私に向かって伸びてくるような気がして、恐ろしくなった私はすぐに川から立ち去った。ろくに休憩もできないでいた。

 そしてとうとう日のあるうちに見つけることは叶わなかった。夢は所詮夢であったらしい、と諦めがついて、いよいよ路頭に迷ってしまった。帰る当てはどこにも残っていなかった。

 しかしそんな私の目線の先に、一つの人影が見えた。人影が近づいてくるとはっきりしてくるのは、その人が中年の男だということだ。私は少なからず落胆したと思う。

 がに股歩きで目の前にまで来た男は、不審な目を私に向けた。

 

「君は一人なのかい?」


 私が控えめに頷くと、男は質問を続けた。

 

「こんな遠いところまで……。親には内緒で来たのかい?」


 これにも一応頷いた。複雑な事情を、あまり他人に話したくはなかった。すると男はニヤッと口の端を吊り上げて黄色い歯を見せた。

 

「そうかそうか。君も幼いのに好き者だねえ。あれだろ? 君も妖精の噂を聞いてやってきたクチだろ?」


 私には男の言っている意味がよく分からず、今度は首を傾げた。そんな私を見ると、男は潮が引くように表情を失くしていった。

 

「なんだい。違うのか」


 私への興味が失せたようで、男は背を向けるとがに股歩きで私から離れていった。そのまま歩き去るのかと思えば、思い出したかのように振り返り、立ち尽くしている私に向けて言った。

 

「妖精の寝床を見つけたら、ワシにも教えてくれや」


 そうして今度こそ男は立ち去った。

 あの男に付いていけば、町には戻れたのかもしれない。しかし私は男に付いていこうとは微塵も考えなかった。

 風貌や態度が粗末だったからではない。何よりも粗末と感じたのは男の心だった。私はそんな曖昧な部分に、漠然とした嫌悪感を覚えてしまったのだ。

 人間の性格は顔に表れるという。男の顔は、良心を持った人間のする顔ではなかった。

 その心に私は、父の面影を見たような気がしたのだ。

 

 辺りは暗闇に包まれて、ほとんど何も見えない状態で私はさまよった。またも私の足は限界を迎えていた。

 暗闇の中でも、例の視線だけはしっかりと感じ取っていた。まるで私が疲れ果てるのを狙っているかのようだった。

 ついに私は膝をついた。体は自分のものとは思えないほど重い。それを持ち上げるだけの気力も体力も、一度膝をついてしまった私には残っていなかった。

 その時、森は私に牙をむいた。

 風が吹いたわけでもないのに、木々が揺れてざわめいた。すると私の足元からも無数の物音が聞こえた。足元の暗闇に目を凝らすと、そこには大量の黒光りが見えた。聞こえていたのは虫の足音だった。何百もの虫が足から這い上がり、徐々に私の全身を埋め尽くしていったのだ。

 体中を這い回る無数の感触に鳥肌が立った。

 私は助けを求めて叫んだ。しかしその声は先の見えない闇の中に吸い込まれるばかりだった。

 もう死ぬのだと思った。このまま森に食われて、木々の養分となるのだと。そしてそれは仕方のないことだとも思った。この世界の中で、私に救いはなかったのだから。

 そんな折に、夢で嗅いだ懐かしい香りが鼻先に漂った。


「コラー! やめなさーい!」


 それは幼い少女のような声だった。その声が響くと、木々はざわめきをやめ、全身を這い回る虫の感触はいつの間にかなくなっていたのだ。

 

「まったく。こんなに小さな子から養分をとっても仕方がないでしょう?」


 暗闇には一つの小さな光が灯っていた。日光のように眩しいものではなく、蛍のように儚げなものだ。舌足らずな言葉の主は、どうやらその光であるようだった。

 目を眇めて見ると、光の中には人の形があった。しかし人と決定的に違うのは、その背に薄く透明な羽があること、そして人の何十分の一程の大きさであることだった。

 私はその桃色の髪に見覚えがあった。

 

「ティーナおねえ……ちゃん?」


 それは確かにティーナだった。顔や服装が同じであるだけではない。何よりも、彼女から漂ってくる香りを私は覚えていた。

 しかしその姿は私の知るティーナのものではなかった。体は私の手のひらにでも乗りそうな程小さく、背には羽があり、耳は尖っている。

 ティーナの姿は、言い伝えに聞く妖精の姿そのものだった。


「アナタ……ね。どうしてまだこの森にいるの? 帰りなさいって言ったでしょ」


 前に見た大人の雰囲気は影を潜め、幼女の口調でティーナは呆れ返っていた。

 

「あんまりうろうろしてると、森がアナタを食べちゃうんだから」


 私は疲労で乱れた息を整えるようにして答えた。


「会いに、来た。お姉ちゃんに」


「どうしてよ。そこまでして会いに来る用事なんてないでしょう?」


「わかんない。けど……」


 用事はなかったが、ティーナに会うこと自体が理由だった。ただ当時の私にはその理由が判然とせず、曖昧に口ごもってしまったのだ。

 ティーナは私の胸中に気づいてか、突き放すように顔を背けた。


「ダメよ……。それじゃあ、逃がした意味がないじゃない。さ、出口まで案内してあげる。だからアナタは家に帰りなさい」


「帰る家、ない」


 私が現状を打ち明けてしまった時、ティーナは固まっていた。そして何かを頭に巡らせている時のように、目は虚空を捉えていた。

 色々を考えてしばらくの後に、彼女は呟いた。

 

「助けるんじゃなかった……」


 彼女が陥落した瞬間だった。

 彼女が私の体の周りを旋回する。彼女が飛んだところから光る粒子が舞い降りて、それを身に浴びた私は足の疲労が取れていくのを感じた。妖精が持つ不思議な力だ。

 彼女はおもむろに背を向けて行こうとする。そして私に言った。

 

「ついてきて」


 私は嘘のように軽くなった体を持ち上げ、ティーナの飛ぶ後を追いかけていった。

 

 先を飛ぶティーナの後を歩いて数分。私は以前に木の家から出てきた、生え並ぶ植物の場所へ来ていた。しかしそこは前に見た時とは様子が違っていた。

 植物の間に分け目ができており、その先にはトンネルが続いていたのだ。

 私はティーナに連れられるままにトンネルを歩いた。

 予想以上に長いトンネルの中、ふと気づくとティーナは妖精の姿ではなくなっていた。以前見た成熟した女性の姿に戻っていたのだ。

 私が首を捻ると、ティーナはクスクスと笑っていた。

 

 トンネルを抜けた先には光が広がっていた。時間が夜だということは度外視してもいいのかもしれない。何しろそこは、緑に囲まれた妖精の国だったのだから。

 そこはまるで別世界だった。

 大気には黄金色の光が漂って、その世界をくまなく照らしている。秋の夕暮れのような金色の空は寂しいようで、眺める者を感傷に浸らせる美に満ちている。

 生えている植物は、大きさも形も私の知らないものばかりだ。私の体より巨大な薄紫の花は、軽く私を見下ろしていた。

 ある一本の木には様々な果実を実らせている。私はその中にリンゴを発見した。

 そこは一つの世界であり、同時に世界は彼女の家だった。だから、彼女の他には誰一人として存在していなかったのだ。

 水辺に抱かれるような形で立つ孤島には木の家が建っていた。水上に渡されている橋を辿って、私たちは家に向かった。彼女の、彼女だけの寝室に。

 

 ベッドに座らされた私は、家族に見捨てられた、という事実のみを口にした。いろいろと説明不足なところもあったのだろうが、私にはそれを伝えるだけで精一杯だった。

 彼女は私に聞きたいことがあったのかもしれない。またそうすれば、面倒を抱え込む必要などなかったのかもしれない。だが、彼女がリンゴと一緒に差し出した言葉は一つだけだった。

 

「じゃあ、私と一緒にここで暮らしましょうか」


 私はリンゴを受け取りながら控えめに、しかしはっきりと頷いた。ここへきて初めて自身の願いを自覚できたのだと思う。

 その日、私とティーナは家族になった。

 

 

 

 光漂う妖精の国にも夜はあるようだった。

 深い桃色に暮れた空には星々が浮かび、夜毎に幻想的な光景を醸し出す。一日の終わりにはそんな空の下で、私はティーナの腕に抱かれながら眠るのだ。彼女と過ごす夢のような時間を振り返りながら。

 

 ある日は木々や花々と遊んだ。

 ティーナは植物と心を通わせており、彼女の前ならば普段は物言わぬ木も喜びに葉を擦らせ、閉じた花も笑むように咲き誇った。

 私は大きな花の厚い葉に乗り、次々と飛び移っていった。私を見下ろしていた花弁の辺りまで来ると、今度は目の前に伸びる木の枝にぶら下がる。

 木は掴まれた枝を一気に振り回して、私を高所にせり出した崖へと連れていった。

 崖に立つと、美しい妖精の国を一望できた。その世界は二人で住むには広かったが、遠くには茂ったツタの壁が世界を仕切るように取り囲んでおり、どこか閉鎖的に思えた。

 壁の外には別の国がある、と教えてもらったことがあるが、壁を乗り越えることは不可能なのだと漠然と思った。

 下の方ではティーナが私を見守っていた。

 私は孤独を感じ、急激にティーナの元へと帰りたくなった。

 枝に運ばれてティーナの前に下りる。すると彼女は小さな冒険から帰ってきた私の頭を撫でた。

 

「お帰りなさい」


 その一言に私の顔は綻んだ。一時の孤独に縮まっていた私の心は、それだけで解きほぐされてしまったのだ。

 嬉しくなった私はティーナの腕を引っ張って、彼女を私の冒険へと連れていった。慈愛に満ちた彼女の表情が少しだけ慌てたようになるのが、私にはおかしかった。

 

 ある日はティーナが振舞う料理を食べた。

 彼女は料理というものをほとんどしたことがないようだった。家の側には多様な果実の生る木があり、それをもいで食べるだけで事足りたからだ。

 果実はどれをとっても美味で、さらには千切ったそばから生えてくるのだから、私に不満はなかった。しかし彼女は料理にこだわり、作って食べさせることに躍起になった。

 ティーナはどこからか調達した調理器具で、果実を刻んだり焼いたりした。妖精である彼女は料理という人間の文明をほとんど知らず、調理の様子は見よう見まねの試行錯誤だった。丸い果実に包丁を入れる姿は危なっかしく、手に傷を作らないか心配でしょうがなかった。

 そうして不器用なりに作り上げた料理は、全体的に黒ずんでいた。ブドウやオレンジの水分は飛んでおり、バナナはドロドロにとろけて形を崩していた。フルーツの炒め物とは、後にも先にも見たことはなかった。

 ティーナが伏し目がちに差し出した料理を頬張る。あらゆる甘味と酸味が混ざり混ざったその料理はおいしいとは言えなかったが、少なくとも水で薄まった米よりは温かいものだった。

 ティーナは料理の研究に没頭し始めて、いろいろな調理法を自己流で編み出していった。中には奇天烈なものもあったが、それも彼女なりの必死な試行の証だった。

 どの料理にも彼女の愛情が詰まっていた。私にはそれだけで、かつてないほどに腹が満たされたのだ。

 

 ある日は川へ出かけた。

 周囲の光を反射する川の水はどこまでも澄んでいて、触れればどんな汚れも消えた。

 私とティーナは数日に一度、その川で水浴びをした。

 水はひやりと冷たいが、全身を沈めると不思議な温かさが体を柔らかく包み込んだ。

 この水はどこから来て、どこへ流れ出すのだろう。そんな世界の謎に迫る素朴な疑問が頭をよぎったこともあったが、ティーナを見ると全て吹き飛んでしまった。

 水を浴びて濡れた彼女の素肌はきらめき、私をいつまでも見蕩れさせた。

 上げた腕の指先から水を滴らせる彼女の横顔は、目に鮮明に焼き付いている。

 

 ティーナと過ごす日々には、私の全く知らない体験が満ちていた。生活の端々には、孤立して行くあてのない私を抱きとめる彼女の愛情があった。

 その世界は私とティーナの二人きりだったが、私はそれで構わなかった。妖精の国は外の世界とは分断されていたが、私は外の世界へ戻る気はなかった。

 全てそのままで暮らしてゆくのだと思っていた。

 

 

 

 幸福な日常に最後をもたらすのは、劇的な生活の変化ではない。ある感情の芽生えであった。

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