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母が私を捨てたのは、私が八才の誕生日を迎える十日ほど前のことだった。
私が孤児として厳しい世の中を一人で力強く歩まなければならなくなったのは、ひとえに家庭の困窮によるものだ。母は女手一つで姉と私を育てていたのだ。
父は私が生まれて四年か五年くらいまでは家にいた記憶があるのだが、ある日ふと融けるようにいなくなってしまった。王国改革の憂き目に遭って職を失ったらしい。夜遅くうつつを抜かすように度々家を出ては、ふらりと朝に帰って来ていたが、最後にはとうとう帰ってこなくなった。
父がいなくなった当初はよく炊き上がった米をそのまま食べていたものだが、それは段々と水で薄まり、最後にはほとんど水を飲んでいるようなものになった。味なんて全くせず、食っても一時間後には腹の虫が鳴った。
しかし母がどこからともなく金を持ってくると、また温かい米を食べられるようになった。金の出どころは分からないが、手元に紙幣を握りしめている母の顔はいつもやつれていた。私と姉の喜ぶ顔を見ると母も嬉しそうに笑ったが、目尻にできた皺を見るとどうしても母の老いていることを実感させられた。
常の空腹を紛らわすように私と姉はよく遊んだ。私と姉が駆けっこをするといつも姉の方が早かった。母はどちらも褒めてくれた。私と姉が計算問題をするといつも姉の方が多く解いた。母はどちらも褒めてくれた。私と姉が喧嘩をするといつも姉の方が強かった。母はどちらも叱りつけた。
私が七才の頃、改革を迎えた王国の政治は何がどうなっていたのかなど、頭の悪い私には分からなかった。ただ一つだけ重要なことは、その頃物価の値上げが始まったということだった。雑草で腹を満たすような生活を送っていた私たち家族に、王国は死刑を命じたようなものだった。少なくとも私にはそう思われ、ますますやるせなくなったものだ。
ともあれ今まで通りの生活を送ることは厳しいと判断した母は、姉だけを連れて私を見放す決心をしたのだ。この時に姉のみが連れていかれたのは、単なる年功序列か、才覚の有無か、はたまた顔の良さか。
私は遠い山奥へ置き去りにされた。母にしてみれば、なんとしてでも私の誕生日を迎えてしまう前に私を手放してしまいたかっただろう。
私は寂しくなどはなかった、と言えば強がりなのだろうが、その時は自由を満喫するような余裕があった。何しろ阿呆だったので、母に捨てられたことを自覚できていなかったのだ。だから山を駆け下りると、足の赴くままに走り続けた。ちょっとした冒険気分だ。
いろんなものを見てやるつもりで走った。まだ見ぬ各地を巡り、世界の果てまで行けば、きっとそこに空っぽの腹を満たせるような生活が待っているのだと信じていた。
しかしそんな希望は叶わなかった。少なくともこの時点では。歩き続ける体力すら備わっていなかった私に、世界の端など拝めるはずがなかった。近くの町にさえ行き着けば孤児の私を引き取ってくれる教会の一つでもあったのかもしれないが、町の輪郭すら見えぬ辺境の地で、私は倒れた。
日暮れの予感に東の空が暗く染まり始める頃だった。
こんな時になって、ようやく私は母が最期に言った「ごめんなさい」の意味を理解し始めたのだ。孤立無援の寂しさが胸に迫るように込み上げてきて、涙を浮かべるよりほかになかった。
意識を失う直前の私の目に映ったものは、整然と木々がそびえ立つ、孤独な森だった。
瞼を閉じて暗闇に閉じこもっていた私の鼻に、甘い香りが舞い込んだ。その香りに不快を感じさせるくどさはなく、ずっと嗅いでいても飽きないものだった。高貴な花が醸し出すような、心を解きほぐす優しさに私は虜になってしまった。あの時の香りは今でも忘れられない。
私が倒れ伏していたのは、見知らぬ家のベッドの上だった。床から天井まで木を組んで建てられた家だ。一組の机と椅子やクローゼット、そして私が体を横たえているベッドの他には家具らしいものもなく、すぐそばには外へ繋がるドアがある。人の生活に必要な何かが抜けている様子は、まるで借りたての宿の一室であった。
そしてその椅子には一人の女性が背を向けて座っていた。シルクでできた柔らかく薄い衣服に身を包んだ大人の女性だ。長く垂らした髪は桃色をしていた。一瞬だけその女性の背に薄く透明な羽が付いていたように見えたのだが、瞬きの内に消えてしまった。後から思えばそれは錯覚ではなかったのだろう。
状況は理解できていなかったが、私の心は不思議と安らいでいた。ふとするとそのままもうひと眠りしてしまいそうな軽い気怠さの中、私は薄い目をぼんやりと保っていた。彼女の、鏡を見ながら髪を束ねる仕草から目を離せないでいたのだ。
私が身じろぎしてベッドのシーツを擦る音を立てると、彼女は振り返った。
「あら、お目覚めね」
彼女は落ち着いた微笑を浮かべてベッドに寄ると、私の額にそっと手のひらを当てた。母の水仕事でカサついた手とは違った、柔らかい手のひらだった。
そして彼女が私の側に来たとき、風に乗って香る甘い匂いに包まれるような感覚がして、部屋を満たす香りの元はこの人なのだと確信した。
彼女はティーナと名乗った。
ティーナはベッドの端に腰掛けると、私の調子を気遣うように声をかけた。
私は大丈夫と答えようとしたが、そうするより前に私の細った腹が呻きを上げた。
ティーナは、照れくさくなって顔を赤らめる私を見て、クスクスと人差し指を口もとにあてて笑った。
「少しだけ待っていてね」
そう言い残して彼女は家を出ていった。彼女がいなくなった後の部屋は静かすぎて、小さく開いた窓の隙間から流れ込む、彼女の草を踏む音ばかりが聞こえた。それ以外は全くの静寂だった。
腹が限界まで減っていた私は、不躾ながらも首を回して部屋の中に食べ物を探した。しかし炊事の道具一つもない部屋には、米も野菜も見当たらなかった。小綺麗で生活感がないのは、どうやら部屋に食関係の物がないことが理由らしい。
諦めて天井のランプを眺めることにしたが、間もなく彼女は帰ってきた。手には艶々とした表面の赤色が眩しいリンゴが握られていた。
ティーナにリンゴを手渡されると、私は彼女の声も待たず噛り付いた。二口、三口を一息に口の中に入れて咀嚼する。その度に果汁があふれ出て、果実の自然な甘味と僅かばかりの酸味が口に広がった。食道を果実が通過する感覚を久方ぶりに堪能した。
ティーナは私の膝元に木の器を差し込みながら、幼子を諭すような調子で言った。
「そんなに焦って食べないの。喉に詰まらせるわよ」
口を止めるのは難しかった。私はここ数日の間、味のしない水で薄まった米しか口にしていなかったのだ。腹の空きはもちろんのこと、舌も味に飢えていた。
しかし、食べ急いで口いっぱいにリンゴを頬張った私は、ティーナの予言通りに喉を詰まらせてしまった。
青い顔をして胸元を叩く私の背を、彼女は可笑しそうに笑いながら撫でた。
そんな微笑ましい空気の中でぽつりと言った。
「アナタ、それを食べたら、きっと帰りなさいね。ここはアナタのような子供が来る場所じゃないのだから……」
私は黙り込んで手の内にあるリンゴを食べることに集中した。
帰る場所なんてない、とは図々しいような気がして言えなかった。
私はリンゴを余すところなく平らげると腰を上げた。リンゴのおかげか、不思議と腹の底から元気がみなぎっていて絶好調と言えた。
「ありがとう。ティーナお姉ちゃん」
私は姉を呼ぶときと同じようにティーナを呼んだ。ティーナは上品に照れ笑いをしていた。
「大人になったらまたいらっしゃいな。ここで待っててあげる。たっぷりとおもてなしをしてあげるから。それまではここのこと、誰にも言っちゃだめよ?」
ティーナは唇に人差し指を当てて片目をつぶった。
色気より食い気の子供ではあったが、可愛らしい注意の仕草にどぎまぎとしてしまった私は、そそくさと家を出た。
木の扉を開いて出た場所は高々と木々が生えた森の中だった。周囲は一面同じような緑色が埋め尽くしており、とても人が住めるような土地ではないように思えた。
私はティーナがどうしてこんなところに住んでいるのか疑問に思い始めていた。彼女に質問をしようと振り返ったのだが、そこにさっきまで休んでいたような木の家は見当たらなかった。私の背後にはただ生え並ぶ植物ばかりがあった。
「あれ?」
私は素っ頓狂な声を一人であげ、せわしなく首を回していた。
頭上を見上げると、枝葉の隙間から早朝の光が差し始めていた。
構想が浮かんだ当初は5000字くらいの短編にしようかなと思っていましたが、色々あって2万字を越えまして、連載形式としました。疲れたけど満足しましたね!
もう一つの連載はこれから続きを書くつもりです。一か月くらい空いて書こうとしたことが曖昧になっていますが、まあ捻り出します。