オーライ
体育教師の首が歪む。
静かに左下へと、断面を確かに見せながら、より濃い絶望を与えるが如く。
血が噴き出すような事は無かった。代わりにと言わんばかりに血は紺のジャージを染め始め、その量は決して無視出来ないものとなる。
死んだ。死んだ。死んだのだ。俺達の目の前で、何時も怒鳴り声を響かせていた体育教師が、あんなにも呆気なく最後を迎えたのである。
鈍い音を立てて地面に落ちた頭は最後の慈悲とばかりに髪を見せるばかりで、最後の表情を見せない。
だが解ってしまうのだ。
教師の目は最早ガラスも同然。何も映さず、感情をそこに宿す事は無い。
死んだ人間に感情表現など出来ないのは解っていた筈だ。それでもこうして何かが間違っていると思うのは、それだけ俺の精神が現状を否定したがっているからなのだろう。
その頭を一つの足が踏み潰した。
赤い野菜が弾けたように辺りには頭部だった物が散らばり、俺の足元には隠されていたガラスの瞳が転がる。無機質を極めた様は正に作り物めいていて、けれども生物だったのだという事実が嘔吐を誘った。
口元を抑えながら、犯人へと視界を向ける。
体色は緑。二足歩行をしていながらも足首より先は人間の形とは明らかに離れている。
五本の指は無く、あるのは先端が銀に輝く爪のような構造物のみ。両腕は死神の鎌のようで、そこには体育教師の血が大量に付着していた。
顔は――例えるとするならばカマキリが近いか。
全体的に見ると昆虫に近い。無理矢理人型に当て嵌めたと考えるのがしっくりくる造形だ。
特撮の怪物にでも出れば一怪人として仕事が出来るだろう。最後には死ぬだろうが。
「……冗談じゃない」
逃避ぎみな内心の言葉は、現実をしかと認識すれば途端に陳腐と成り果てる。
目の前の怪物は明らかに人殺しを目的として動いていた。その戸惑いの無さから見るに、俺達の事を食料として見ているのではないかとも考えられる。
球体に近い眼球が動いているのは次の獲物を探す為か。小さな悲鳴をあげる生徒に瞬時に顔を動かすあたり、反射神経も並ではあるまい。
あの鎌の動作が見えなかったのだ。純粋な運動能力もあちらに分がある。
今居る場所は屋上。当然ながら逃げられるような道も無く、仮に飛び込んだとしてもその下には別の怪物が歩いている。
カマキリが一歩を踏み出した。
狙いを決めたのか、それとも適当に刈る事にしたのか。どちらにせよ、今の俺達に出来る事は限りなく零そのもの。
せめて拳銃の一つでもあればなんて思うも、俺は当たり前だが使い方を知らない。それに知っている奴が居たとして、それで確実に相手を仕留められる保証など無いではないか。
結論として、この場は詰みだ。俺達はこのまま虐殺され、そのまま奴の腹の中に収められるのだろう。
手持ちのバッグではまるで抵抗は出来ない。投げつけても一閃で無力化されるのであれば、最早何をしようともこの状況を打破出来るとは考えられなかった。
確実な死が待っている状況に、同級生の誰もが逃げ惑う。
そこに逃げ場など無くとも少しでも死から遠ざかりたいが為に柵の端にまで移動し、中には生き残る可能性に賭けて六階の高さから落下する者も居た。
その殆どが生きていたとしても移動が困難になる重傷を負うだろう。そして他にグラウンドや周辺を歩いている怪物に食われるに違いない。
神様なんて何処にも居ないと思わされる一瞬だった。
自分が何かしたのかと叫びたい衝動に駆られる。目の前の化け物に無慈悲に殺される理由があるのかと、そうなって当然だと言われるような理由があるのかと。
当たり前だが、それに答える者は居なかった。居たとしても、現在の状況を覆せなければ一緒だ。
「――ッ!?」
皆が逃げる。しかし、その中において一人だけ前を行く者が居た。
怯えながらも確り前を行く姿。破損した眼鏡が斜めに傾き、不安そうな顔と相まって情けなくも見える。
名前は藤堂英治。俺と同じく他者と積極的に交流をしない男だが、機械系が得意でそういった方面から頼られる人物だ。
性格は臆病だった筈で、断じてこの状況で前に出る男ではない。
それは他も同様で、彼が何をするのかと同級生も見ていた。
藤堂が抱きしめていたバッグから何かを取り出す。
それは極めて長方形に近い何かで、見た目は黒いだけ。絵柄も模様も、ましてや線の一つも無い箱のような形状は、されどこの場であるからか異様だった。
「ぼ、僕が時間を稼ぎます!だから皆は……逃げてください!!」
『馬鹿なこと言うんじゃねぇ!死ぬぞ!!』
「死にませんッ……これさえあれば僕は――無敵だぁ!!」
黒い箱を腹に押し当てた藤堂は叫ぶ。
その意味は解らず、恐らく彼の数少ない友人もそれは一緒だっただろう。
しかし、俺はそこに困惑するよりも箱が変形していた事に困惑していたのだ。箱の両端から明らかに仕舞い切れない長さの金属質のベルトが出現する。
背中部分で繋ぎ合わさったそれに対して藤堂は箱に対して何かをしていた。
<SET>
途端に鳴り響く合成音声。
低音の男の音声に、いよいよ周囲は解らないと混迷を極める。――いや、その言い方は違うか。
解らない者達の中で、俺を含めて解る者が居た。
しかしそれは実在しない物として認識していたし、現代の技術ではとてもではないが完成させられないシステムの筈だ。仮に出来ていたとして、それを彼という一般人が持っている訳が無い。
あれは子供の時代に多くの人間がテレビで見たものと形状が酷似し過ぎている。
一体何故。そう思う前に、彼は勇気を振り絞るように声を張り上げた。
「CHANGEッッッ!!」
音が鳴る。その音に合わせ、彼の身体が徐々に黒い金属質の塊に覆われていく。
最初は腕。次に胴体。下腹部へと広がり、足に到達。
最後に頭部も覆われ、さながらそれは一つの岩と同じになった。それに反応したカマキリは両腕の刃で塊に切りつけるが、金属同士の不快な音を立てるだけで両断には成功していない。
つまるところ、あれの物質は怪物の刃以上の硬度を誇るということ。そして最後に岩が爆発し、中からは一体の人型が姿を現した。
全体的な印象としては武士甲冑。身軽さを感じない無骨一辺倒の姿は大地の如き安心感がある。
腰には二本の刀の姿。これが武器かと考える間も無く、藤堂は武器を両方とも抜いた。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
魂からの絶叫。自分を奮い立たせる為にも、そして相手を此方に集中させる為にも行ったソレに、カマキリも唸るような声を発しながら高速で接近する。
一瞬で最高速に達するカマキリの鎌は常人には見えない。それは体育教師の首が飛んだ事で理解していたし、身体が細い故に速度に特化しているのだろうとは思っていた。
それでも殆ど一秒も必要とせずに相手の懐に入る様は脅威そのものだ。それに懐に入られれば余程上手く扱わない限り相手の攻撃に当たるだろう。
「うわッ、うわぁ!」
正しくおっかなびっくり。
間近にまで接近されたのだ。離れようと足を後ろに動かすのは自然で、されどそれをカマキリは許さない。
全力を込めたであろう鎌の一撃は藤堂の胸に命中し、盛大な火花を発生させた。
彼の身体は浮き、そしてそのまま少し後ろに飛ばされる。情けなくも転がった彼は急いで立ち上がろうとするが、その前にカマキリは相手に再度接近した。
あの甲冑姿では直ぐに立ち上がるのは難しいだろう。まさか柔らかい素材で出来ている訳ではないのだ。
甲冑以外の部分もラバースーツのような素材で覆われている為に、恐らく今の藤堂はパワードスーツを着ているような状態であると察する事が出来る。
であれば甲冑の重さでも立ち上がれるだろうが、それでも最初から速度に致命的な差が生まれていた。
カマキリは転がっている藤堂に向かって鎌を振る。
頭部を狙った一撃は辛うじて首を傾ける事で回避するも、その後の相手の蹴りで更に彼は後方に吹き飛ばされた。これ以上下がれば、カマキリは他の生徒も視界に入れる事になる。
もう引く事は不可能だ。それを彼自身も解っているのだろう。呻き声をあげながらも二本の刀を杖にして立ち上がり、構える。
それはかなり様になっていないのだろうが、一度も喧嘩をした事が無ければ当然だ。
俺だって喧嘩をしたのは一度か二度。それも大体の場合において敗北している。
「おわぁぁ!!」
――――故に必然として、彼が敗北するのは明白だった。
懸命に攻撃を仕掛ける彼を嘲笑うようにカマキリは得物を振る。一時的に刀とは鍔迫り合いとなるが、それもカマキリの力に完全に押し負けてしまった。
胸元を見せるように両腕を吹き飛ばされた彼に対して鎌は連続で全身を切り付けた。こうなればもう嬲られ放題になるのは避けきれず、耐久力が無くなったのか最後に弾き飛ばされた藤堂は元の姿に戻った。
同時に例の箱も吹き飛ぶ。大きく空を舞った箱は最終的には俺の足元に転がった。