一度だけのわがまま
「…しまっ!?」
僕は油断していたのです。
気をつけなければいけないと考えていながらも実際には敵の存在から目を背けていたのです。
だけど愛里ちゃんは気づいていました。
僕は気づかなかったのに。
愛里ちゃんは気づいていたのです。
最期の力を振り絞って弓を構える兵士の姿に気づいていたのです。
「死ね…バケモノ共…」
最後の力を振り絞って矢を放つ兵士の手から一本の矢が放たれました。
その動きはとてもゆっくりだったように思います。
それでも僕に反応できる時間はありませんでした。
「…させませんっ!」
愛里ちゃんは僕を庇って、自らの体で…冷たい矢を受け止めました。
『ドスッ…!』と嫌な音が聞こえたのです。
…と、同時に。
「ぁ、ぅ…っ」
愛里ちゃんの小さな悲鳴が聞こえました。
「あ、愛里ちゃんっ!?」
死の間際に兵士が放った矢は…
「そ、そんなっ!?」
不幸にも愛里ちゃんの胸に突き刺さっていました。
「愛里ちゃん!?」
激しく動揺する僕に、愛里ちゃんは背中から倒れ込んできます。
「愛里ちゃんっ!!」
胸を貫いて背中から突き抜ける矢は真っ赤な血で染まっていました。
「これは…まさかっ?」
認めたくはありません。
ですが認めなくてはいけません。
愛里ちゃんの胸元に突き刺さる矢。
これはどう考えても人体の急所を突き抜けているはずです。
それはすなわち…心臓が損傷を受けたということです。
「あ、愛里ちゃん…っ」
「ぁ…あはっ」
傷ついた愛里ちゃんの体を受け止めながら呼び掛ける僕に、
愛里ちゃんは精一杯の笑顔を向けてくれました。
「と、徹…さん…は、ご無事…ですか?」
「は、はいっ。僕は大丈夫ですっ!!ですが愛里ちゃんが…っ!」
心臓が傷ついてしまっているのです。
急いで治療しなければ出血が拡大していまいます。
「すぐに治療をっ!」
愛里ちゃんの体を貫く矢を引き抜くために、血まみれの鉄の矢を両手で握り締めました。
…ですが。
矢を握る僕の手を、愛里ちゃんがそっと捕まえました。
そして僕の行動を遮ったのです。
「待…って、下さぃ…。」
薄れて行く意識を精一杯堪えながら話し掛けてくれました。
「今、抜いてしまえば…もう血が、止まらなく、なります。だから、その前に、徹さんに、伝え…」
僕に抱きしめられながら、
愛里ちゃんは最期の想いを言葉にしようとしていました。
「徹…さんが、無事で良かった、です…。徹さんが、無事なら…薫ちゃんも、きっと、喜んでくれるから…。だから、徹さんは…生きて、下さい…。」
「な、何を…何を言ってるのですか!まだ大丈夫です!魔術で回復すれば、まだ…っ!」
まだ治療できるはずです!
そう思う僕の言葉を聞いて、愛里ちゃんは瞳を閉じました。
「…いえ。もう…それ、だけの…魔力が、残っていません…。さっきの、魔術…が、最後です。それは、徹さんも…同じです、よね?」
くっ!!
愛里ちゃんの問い掛けを否定できませんでした。
確かに今の僕達には魔力が残っていないからです。
愛里ちゃんの魔力は僕の治療に使ってしまいましたし、
僕の魔力は敵の撃退に消費してしまったのです。
せめてもう少し時間に余裕があれば魔力が回復して魔術が使えたかもしれませんが、
僅か10分程度の移動時間だけではたった1回の魔術が限界でした。
もう少し時間があれば…。
あるいは魔術を使っていなければ…。
そう思う気持ちのせいで唇を噛み締めたくなります。
ですが、それすらいいわけです。
戦っていなければ二人共殺されていたでしょう。
いえ、それ以前の問題もあります。
そもそも愛里ちゃんの治療を成功させるためには最上級に位置する回復魔術が必要なのです。
それほどの大魔術を使えるだけの魔力は残っていませんでした。
だから仮に僕が魔力を温存していたとしても愛里ちゃんの治療は行えなかったでしょう。
それだけの魔力が僕達には残っていなかったのです。
「愛里ちゃん…っ!」
魔術医師として多くのことを学んできたはずなのに。
それなのに今この状況では何も出来ないのです。
自分自身の無力さに悔しささえ感じながら静かに涙を流しました。
「すみません…っ」
僕には何も出来ないのです。
僕を庇ってくれた愛里ちゃんを助けることができないのです。
絶望を感じて震える手。
そんな僕の手を、愛里ちゃんは優しく包み込んだまま幸せそうに微笑んでくれました。
「…泣かないで、下さい…。私は…満足、なんです。何の、お役にも、立てません、でしたけれど…。それでも、徹さんを守ることが、出来たから…。だから、私は…幸せです」
精一杯の気持ちを言葉にする愛里ちゃんの体から徐々に力が失われて、
呼吸も弱々しくなっているようでした。
「愛里ちゃんっ!!!」
何も出来ない自分に憎しみさえ感じながら、
僕は愛里ちゃんの体を強く…強く抱きしめました。
そして。
ただただ謝り続けました。
今の僕にはそれしか出来なかったからです。
「ごめん!ごめんっ!」
何度も謝ることしか出来ませんでした。
ですがそんな僕の腕に抱きしめられながらも、
愛里ちゃんは自分の『気持ち』を教えてくれました。
「…徹さんの手、とても暖かい…です。こうして、抱きしめてもらえるだけで、私は幸せです。だから…最期に、伝えても、いいですか?徹さん。私は、ずっと…ずっと、徹さんのことが…好きでした…。」
…えっ?
僕が…好き?
「僕を?」
「…はい。」
………。
愛里ちゃんの告白。
今まで考えたこともなかった愛里ちゃんの想いを知って、
僕は心が壊れそうなほどの絶望を感じてしまいました。
「…そう、だったのですね。」
だから、だったのでしょう。
今回の潜入作戦を行うことが決まった時から不自然だと思っていたことはありました。
普段の愛里ちゃんなら決して父親である学園長に逆らうようなことはしないはずなのです。
僕や薫以上の優等生で、
争いを望まず、
穏やかで大人しい女の子だからです。
それなのに。
今回に限って愛里ちゃんは学園長の指示に逆らって自ら戦場に赴く決断をしました。
その突然の判断を僕も必死に押し止めようとしましたが、
愛里ちゃんは頑なに自らの意思を押し通して
強引とも言える勢いで作戦への参加に志願していました。
その行動に対して僕も驚きを感じていたのですが、
町や薫を守るためという『表向きの理由』によって僕も動向を認めることになったのです。
…ですが。
それは正しくなかったのです。
本当は…
本当の愛里ちゃんの気持ちは他の誰のためでもなくて、
おそらく最初から僕を守ることだけを考えていたのでしょう。
例え自らの命を犠牲にしてでも、僕を守ろうと考えていたんだと思います。
それなのに。
今の僕は愛里ちゃんに恩を返すことさえできないのです。
医師としての知識と技術を持ちながらも、
愛里ちゃんの命をつなぎ止めることが出来ないのです。
助けたくても助けられない現実。
戦場で散っていく命の儚さを授業で学ぶことはありましたが、
実際にその立場に立ってみると
いかに自分が無力であるかを嫌というほど思い知らされてしまいました。
「愛里ちゃん…。」
何も出来ずに嘆くことしか出来ません。
ただただ涙を流すことしか出来なかったのです。
そんな僕に対して愛里ちゃんは笑顔をみせてくれました。
「…泣かないで、下さい。私は…笑ってる徹さんが、好きだから…。だから…泣かないで、下さい」
僕が好きだと言ってくれた愛里ちゃん。
その想いを伝えてくれた愛里ちゃんに僕は何が出来るでしょうか?
「…徹、さん…。もしも、嫌じゃなかったら。一つだけ…お願い、しても、良いですか ?」
「ええ、僕に出来ることなら…何でもします。」
「ありがとう、ございます」
僕の返事を聞いた愛里ちゃんは幸せそうに笑ってくれました。
そして。
たった一度だけの願いを、僕に求めてくれたんです。
「最期に…一度だけで良いんです。一度だけ…キスを、して貰えませんか?」
キス?
愛里ちゃんと?
「ダメ…ですか?」
困ったように微笑む愛里ちゃんですが、
愛里ちゃんの願いを断ることなんて僕には出来ません。
命懸けで好きだと言ってくれた愛里ちゃんの願いを断ることなんて出来るはずがありません。
だから僕は、力一杯、愛里ちゃんの体を強く抱きしめました。
「…ごめん、愛里ちゃん。僕には何も出来ないけれど…だけど…」
せめて愛里ちゃんの想いには応えたいと思うから、
愛里ちゃんと唇を重ねました。
「………。」
ホンの数秒程度の僅かな時間だったと思います。
唇が触れる程度の優しいキスでしかありません。
ですが。
それでも愛里ちゃんは満足そうに微笑んでくれました。
「ありがとう…ございます。徹、さん」
「愛里…ちゃん?」
呼びかけてみても返事はありませんでした。
そっと閉じられた目はピクリともしません。
「愛里ちゃんっ!!!」
何度呼びかけても。
どれほど強く抱きしめても。
愛里ちゃんはもう目覚めませんでした。
たった一言だけ僕にお礼の言葉を呟いて…
感謝の想いだけを残して…
愛里ちゃんは短い人生を終えてしまったのです。
「う、うあああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!」
深夜の王都で、僕の叫び声だけがただただ虚しく響き渡りました。




