耳打ち
《サイド:深海優奈》
御堂先輩が名簿を提出したことで、これから試合が始まります。
…という状況で。
今日初めて理事長さんが私達に歩み寄ってきました。
「おはよう、みんな。調子はどう?」
笑顔で歩み寄って来た理事長さんに先輩達も笑顔で挨拶を返しています。
「「「理事長、おはようございます」」」
御堂先輩と沙織先輩と翔子先輩が挨拶をしたあとで、
北条先輩は軽く挨拶していました。
「よう!」
………。
理事長に対してその挨拶でいいのでしょうか?
私には真似できそうにないです。
「あ、あの…。おはようございます」
先輩達より少し遅れて挨拶をした私の頭を理事長さんが撫でてくれました。
そのあとで、理事長さんは真っ直ぐに総魔さんに歩み寄ります。
「おはよう。気分はどうかしら?」
調子とか体調ではなくて『気分』と尋ねていました。
総魔さんはその問い掛けに表情一つ変えません。
「問題ない」
いつものように答えています。
「良い心掛けね」
微笑みを見せた理事長さんは、
総魔さんの隣に立ってからこっそりと耳打ちしました。
「………」
何の話でしょうか?
理事長さんが何を言ったのか私には聞こえません。
…ですが。
おそらく『あの人達』のことだと思います。
今日来るはずの『あの人達』
多分、理事長さんはそのことを伝えに来たんだと思います。
そう考えた私の推測を証明するかのように、
理事長さんの言葉を聞いた総魔さんの表情が微かに変化したように見えました。
「…あとはあなたに任せるわ。」
何らかの判断を託してから、
理事長さんは総魔さんから離れました。
「………」
無言の総魔さんは、今、何を考えているのでしょうか?
私には到底想像も出来ないことですが。
何か一つでも良いので、
総魔さんのお役に立つことが出来ないかなと思います。
「願わくば…いえ、何でもないわ」
総魔さんと向かい合う理事長さんは何も説明してくれません。
そしてそれ以上何も語らないまま、
総魔さんに背中を向けてしまいました。
「さあ、みんな!いよいよ準決勝よっ!ささっと勝って!年間制覇を目指すわよっ!!」
大きな声で話す理事長さんに多くの人が視線を向けています。
この注目はちょっぴり恥ずかしいですね。
ですが人目を気にする私を気にせずに、
理事長さんは御堂先輩に話しかけていました。
「頼むわよ。あなたには期待してるんだからね」
『期待』という言葉は試合に対してなのでしょうか?
それともこれからの出来事に対してなのでしょうか?
私には分かりません。
ですが理事長さんは先輩達一人一人に視線を向けてから、
最後に私を見つめて微笑んでくれました。
「あなた達に『勝利の栄光』を。そして『幸福な日々』を。私は願っているわ」
純粋な祈りの言葉を残してから、
理事長さんは来た道を戻ってしまいます。
勝利の栄光と幸福な日々。
その言葉にどれ程の意味と想いが込められているのかを実感したような気がしました。
理事長さんはこれから始まってしまう『戦争』に参加するはずです。
そして命をかけた戦いに挑むことになるはずです。
それなのに。
自分が死ぬかもしれない状況でも、
私達の幸せを願ってくれる理事長さんの優しさを感じずにはいられませんでした。
そのせいで泣いてしまいそうになってしまいましたが、
今は感情を押さえ込んで総魔さんに振り返ることにしました。
「私も…私も願っています。総魔さん…。」
震えるほどの小さな声で祈りを込めました。
そんな私の声が総魔さんに届いたかどうかは分かりません。
ですがそれでも。
総魔さんは微笑みを浮かべてから私に背中を向けました。
そして。
そのまま何も言わずに試合場に向かってしまいました。
まるでこの試合が『最後』かのように。
総魔さんは試合場に向かってしまったんです。




