黒柳大悟
ここから先はルーン研究所と呼ばれる研究施設のようだ。
地下に広がる空間。
ここは地上の研究所とさほど変わらない広さがあるように思える。
地下の施設にしてはかなりの大規模だ。
どうやって空間を掘り広げたのだろうか?
そしてどうやって地盤を強化しているのだろうか?
色々と思うことはあるのだが、
それらに答えてくれそうな人の気配が一切感じられなかった。
…とはいえ、誰もいないということはないはずだ。
階段を下りた正面の受付らしき場所に向かってみる。
誰かいればいいと願いながら歩みを進めていたのだが、
今回はこちらが受付に向かうまでもなく一人の男性職員が歩み寄ってきた。
「ようこそ、ルーン研究所へ。君が、天城総魔君かな?」
「ああ。そうだ」
職員の問い掛けに頷いてから答えると、
職員は笑顔を浮かべながら右手を差し出してきた。
「初めまして、だな。こんな身なりだが、所長の黒柳大悟だ。覚えておいてくれると助かる」
出迎えてくれたのは、職員ではなく所長だったようだ。
黒柳と名乗った男性に対して、
こちらも握手を交わしながら名乗ることにする。
「天城総魔だ」
互いの自己紹介をしながら黒柳を眺めてみた。
薄暗い通路のせいで正確な事はわからないが、
およそ40歳くらいだろうか?
実年齢はもう少し若いと言われても驚かないが、
手入れもされずに寝癖のついた髪と放置されたあごひげのせいで少し老けて見えているようにも思える。
だがそんな容姿だからこそ男の性格を良く表しているとも思う。
仕事に熱を入れすぎる職人派なのだろう。
見るからに研究者という雰囲気を持つ黒柳は服装さえも雑で、
薄汚れた白衣を身に纏っている。
そのせいか上ですれ違った研究者達よりも更に近寄り難い人物に見えてしまっているのだが、
彼の話し方は先程の職員達と違って好感の持てる気さくな感じがした。
「君がここへ来た理由は美袋翔子君から聞いている。今年度の新入生らしいがルーンについて知りたい事があるそうだな?」
「ああ、そのために来た」
「うむ。まあ、色々と聞きたい事はあると思うが。とりあえずは一度、実物を見てもらった方が話が早いだろう」
こちらの目的を確認してから黒柳は背中を向けて歩き始める。
「着いてきてくれ。丁度これから彼の実験を行うところだ」
こちらの返事を待つこともなく、
早々に歩き出す黒柳に案内されるまま地下通路を歩んでいく。
地下についてもまだこれほどの距離があるのか。
無駄に広い地下通路がどこまで続いているのかが分からない。
距離だけを考えればとても地下に作られた空間とは思えない程の道のりを進み続けて、
先ほどの受付らしき場所から数百メートルの距離を進んだところで『実験室S』と書かれた扉の前に案内された。
「ここだ。中に入ろう」
扉を開けて室内に進む黒柳に案内されて実験室に入った瞬間。
「!?」
地下に用意されている室内を見てその広大さに少なからず驚いた。
奥行だけを見ても500メートルはあるだろう。
横幅も同程度の広さが感じられるのだが問題はそこではない。
床から天井までの距離がざっと30メートルほどあるように見えるからだ。
「とんでもない空間だな」
通路を歩いていた時からも違和感は感じていたのだが、
最低でも地表から50メートルは地下に位置するであろう地底にこれほど大きな実験場があるとは考えていなかった。
「よくこれだけの規模の空間が作れたものだな」
驚きを素直につぶやいてみると傍にいた黒柳が笑いながら教えてくれた。
「はっはっは!!さすがに用意したわけじゃない。この学園…というよりはこの街というべきだが、海に面するこの地域は飲料水の確保が難しくてな。海水に侵されていない真水を調達するのに地底湖の水を組み上げていたのだが、長い年月をかけて組み上げていく間に地底湖の水が枯渇して、地下に空洞が出来上がったのだ。その空洞を再利用したのがこの場所というわけだ」
なるほどな。
「つまり、この研究所は地底湖からの水を組み上げるための施設ということか」
「まあ、昔はそうだったという話だ」
「今は違うのか?」
「ああ、今は違う。昔は街としての規模が小さかったことや、生活水準が低かったことで水の調達に苦労していたようだが、今では土地の改良や治水工事が完備されているからな。昔のように地底湖を探り当てて、力技で水を組み上げる努力は必要のない時代になった」
「だから、かつての坑道を研究所として再生したということか」
「そういうことだ。だからここも大昔は地底湖の一つだったということになる。今では枯れた空洞に壁を敷き詰めて実験場と呼んでいるだけだがな」
だからこそ地下深くに研究所が存在し、
途方もないほど広大な空間が実験場として使用されているということのようだ。
「ここと同じような部屋は他にもいくつもあるよ。それこそアリの巣のように地上の他の部署からも地底に伸びている地下通路が複数存在するからな」
「アリの巣か、確かにそうだな」
ルーン研究所からだけでも複数の元地底湖に繋がっているのだろう。
地上の各部署からも他の元地底湖につながっているとすればそれは人が人工的に作り上げたアリの巣と何ら変わらないと思う。
「まあ、あまりそういう表現を好まない者達もいるから、他言はしないようにな」
「ああ、分かっている」
アリと同列に扱われることに嫌悪感を抱くものがいたとしてもそれは当然の感情だろう。
「余計なことは言わないように心がけるつもりだ」
「はっはっは。そうしてもらえるとありがたい。そして思っていたよりも話が通じるようで安心した」
「思っていたより、か」
「ああ、すまない。悪気はないんだ。ただ美袋翔子君からは気難しい人物だと聞いていたものでな」
「…間違いではないな」
自分でも社交的ではないと思っている。
だから翔子がどう判断して何を言おうとも反論できない。
「あまり他人と関わるのは得意ではないんでな」
「ははははっ!!まあ、見た感じそのようだが、だからと言って拒絶しているわけではないのだろう?」
「ああ」
「だったら問題はない。誰だって知らない人間と関わるのは苦手なものだ。そこで面倒だと言って逃げてしまえばそれまでだが、前に進むことで見えるものがある。苦手なものを苦手だと割り切る前に徹底的に失敗すればいい。その結果として残ったものが次の一歩への道標だ」
「失敗して残るもの、か」
「失敗は終わりではない。よく言うだろう?負けること、挫けることが終わりではない。諦めることが終わりだとな」
「諦めずに続けろ、か。確かにそうだな」
「ああ、そういうものだ。それは対人関係に限らず、魔術師としての実力もそうだ」
「そのための研究か?」
「俺の場合はそうだな。目的があって研究を続けている。日々失敗だらけで試行錯誤の繰り返しだが、それでも諦めようと思ったことは一度もない」
「いい覚悟だな」
「ああ、自分でもそう思う。職員達には笑われてしまうがな。はっはっはっは!!」
自らの価値観。
その思いを言葉にして、黒柳は盛大に笑い出した。
「ということで、君も自分の目的のために頑張ることだ。そのために出来ることならば協力しよう」
目的を持って努力を続けること。
そのための協力を約束してくれた黒柳は数歩だけ歩みを進めてからゆっくりと室内を見回した。
「すでに準備は整っているようだな」
状況確認を行う黒柳の言葉を聞きながら俺も室内を見回してみる。
最初に感じた感想は一つ。
まさしく実験場だということだ。
元地底湖を改築した広大な室内は魔術の強力な明かりによって眩しいほどに照らされている。
先程までの薄暗い通路を思えば、
こちらは太陽の下にいるかのような明るさだ。
遠くまではっきりと見渡せる室内の各所には数多くの器材が並べられていて、
20名を越える職員達が慌ただしく走り回っている。
そしてさらによく見ると部屋の中央には室内を二分するかのようにガラス張りがされているようだ。
実験場が仕切られているのだろうか?
現在、こちら側には職員や俺達がいるのだが、
奥側には見た事の無い青年が一人だけ立っている。
誰だろうか?
見覚えのない人物だ。
少なくともこれまでに出会った誰かではない。
面識もなく名前すら知らない人物だが、
それでも分かることはある。
魔力の次元が違うということだ。
自分よりも強力な魔力を持っていることは一目瞭然だった。
あれは…間違いなく翔子よりも上だな。
これまで出会ってきた中では翔子が最も強敵だと思っていたのだが、
その翔子よりも遥かに上を行く魔力が感じられる。
この実験の主役はあの男なのだろう。
これから何が行われるのか知らないが、
間違いなく青年を主体とした実験が進められていくのだと思う。
少し、興味が出てきたな。
翔子よりも格上の生徒となれば3人しか考えられない。
学園4位の翔子の上にはたった3人しかいないのだ。
青年が何位なのかは分からないが、
魔力の総量という点においてここまで実力に差があるとは正直思っていなかった。
まさか、ここまで差があるとは…。
翔子を超える程度の魔力ではまだ学園の頂点に立てないことは知っていたが、
今の自分と比べてみても互いの魔力の総量に10倍以上の差があるように感じられる。
どう考えても今はまだ勝てそうにない。
現時点で言えば足元にも及ばないだろう。
これから先いくつの試合を乗り越えてから青年の元へたどり着けるようになるか分からないが、
10倍以上もの実力差を埋めなければ青年の前に立ちはだかることさえできないということだ。
これが1桁台の強さか。
2万人以上もの生徒を乗り越えて131番という成績にまで到達したものの。
翔子を含む1桁台の生徒達にはまだまだ届かないのだと強く実感させられた。
こうなると翔子の評価も上げるべきだと思う。
翔子に対してはそれなりに近づけたと考えていたのだが、
それすらも思い込みだったのかもしれない。
考えてみれば翔子に関して何も知らないからな。
これまでの発言からおおよその推測を立てているとは言え、
戦闘に関する情報は何一つ得ていない。
それなのに翔子の実力を言動だけで評価するわけにはいかないだろう。
今はまだ翔子にも勝てないと考えておくべきだ。
ただそこにいるだけの青年の姿を見ているだけで自分の考えの甘さが痛感できた。
まだ何もしていないはずの青年。
その青年から感じられる圧迫感が本能的に危険を訴えている。
実際に対面しているわけではないのに、
これから試合を行うわけではないのに、
それなのに決して乗り越えられないと思う壁を感じさせるからだ。
これが格の違いというものなのだろうか。
ただ成績を上げているだけでは決して届かない実力差があるのが分かった。
学園の頂点を目指してここまで来たが、まだまだ先は長そうだ。
自分よりも遥かな高みにいる青年の様子をしっかりと見据えつつ、
最上位の生徒達の評価を改めることにする。
今の自分ではまだ手の届かない存在だと理解したからだ。
そしてその結果として目指すべき目標がはっきりと定められた。
上には上がいるということだ。
そのことが分かったからこそ目的がはっきりした。
これまで戦ってきた生徒達では感じることのできなかった全力での戦い。
それが実現できる相手が存在していることが判明したからな。
勝敗が読めないからこそ戦う意味がある。
負ける可能性があるからこそ、全力で戦う価値があるだろう。
強くなるためには勝てる相手とばかり戦っていては意味がない。
本当の意味で強くなるためには、
命をかけるくらいの激戦を経験しなければいけないからな。
そうでなければ、ここに来た意味がない。
自分を屈服させるほどの相手と戦って勝利を勝ち取らなければ、
わざわざ異国の地にまで来た意味がないからな。
それこそ地を這うような思いをしてまで今日まで生きてきた意味がない。
目指すべき場所は見えた。
あとは、全てをねじ伏せるだけだ。
たった一つの願いのために。
その願いを叶えるためだけに。
全てを喰らってみせる。
翔子の力も青年の力も全てを喰らって勝ち上がる。
そしてこの国において最強の地位を勝ち得た時。
その瞬間からついに始まる。
幼かった総魔に襲い掛かった地獄の日々をさらなる地獄で塗り替える戦いが、
その瞬間から始まる。
この学園は単なる通過点でしかない。
例え目の前にいる存在がどれほど強大な存在だとしても、
その程度の事で屈するつもりは一切ない。
視線の先にいる青年は確かに強敵だが、
自分が目標としている『存在』はそんな青年でさえも太刀打ちできないほどの圧倒的強者なのだから。
それを思えば青年との実力差など大した問題にはならない。
強敵であることは認めるがただそれだけだ。
恐れるほどの存在ではない。
今はまだ勝てないことは認めるが一生勝てないわけではない。
少しずつ実力差を埋めてたどり着けばいい。
焦ることはない。
時間は沢山あるからな。
少しずつ確実に強くなればいい。
そんなふうに考えている間に、
実験室の様子を確認していた黒柳が職員達に話しかけていく。




