過去の経歴
《サイド:天城総魔》
「良い学園だな」
素直にそう思える。
大陸の辺境と呼ばれる共和国の中でも最南端に位置する港町の学園ということで古びたボロボロの校舎や荒れ果てた校庭を予想していたのだが、
予想とは違い、見た目は綺麗な学園だった。
国全体が資金難で苦しんでいるという噂話を聞いていたためにある程度の問題はあると考えていたものの。
実際に訪れた学園は十分すぎるほど手入れの行き届いた清潔感の感じられる様相だ。
とても辺境の弱小国家とは思えない荘厳な雰囲気が感じられる。
「思っていたよりも良い環境だな」
決して豪華絢爛というわけではないが、
質素な中でも出来る限りのことはしたという努力も感じられた。
校門から校舎までの通りだけでもこの状況なら、
おそらく学園全体も清掃に抜かりはないだろう。
だとすれば食堂や寮も不快な思いをせずに済むかも知れない。
これから学園生活を迎えるにあたって環境という意味では十分すぎるほど期待できそうに思える。
さすがは共和国最大規模の学園というべきだろうか?
敷地の面積や校舎の規模、
それに人口密度などの様々な条件面が異なるために最大と言い切れない面はあると思うが、
これまで見てきた学園の中で最も大きな学園なのは間違いない。
校門から校舎までの距離だけを見ても相当離れている。
軽く1キロはあるかもしれない。
初めて歩く学園の内部。
春の暖かな日差しを浴びつつ、
周囲の景色を見渡しながら数え切れないほど多くの生徒達が行き交う歩道をゆっくりと進んで行く。
現在、俺がいる場所は校門と校舎を一直線に繋ぐ桜並木道だ。
見た目だけで言えば学園というよりも観光地と呼んだ方が正しいのではないかと思えるほど丁寧に手入れされた並木道なのだが、
今は4月にふさわしい桜の花が満開に咲き乱れていて、
時折吹く風に揺られた薄桃色の花びらが静かに地面に舞い散っている。
その光景はただただ平穏で心休まる風景だと思う。
特に予定さえなければ何時間でも見ていられる気がする。
「こういう雰囲気は悪くないな」
穏やかな天候に心地よさを感じながら並木道を通り過ぎる。
そしてたどり着いた校舎を見上げてみる。
一体、どれほどの大きさなのだろうか?
近くで見ると凄まじい大きさだ。
目の前にそびえ建つ校舎は圧巻の一言に尽きる。
一国の城にも匹敵するほど巨大な建物はまるで要塞のようであり、
見る者全てに畏怖を与えるかのような威圧的な存在感さえ放っているように思えた。
「これが学園の校舎か」
初めて訪れた校舎を眺める。
校舎そのものに思うことは何もないものの。
圧倒的な巨大さには驚きを感じてしまう。
「よくこれだけの規模の校舎を建てられたものだな」
その努力は素直にすごいと思える。
一体、どれほどの費用を費やして校舎を完成させたのだろうか?
そしてどれほどの年月をかけて学園を完成させたのだろうか?
目の前にそびえ立つ校舎を見ているだけで先人達の苦労が垣間見える気がする。
…とはいえ。
過去の経緯に興味があるわけではないからな。
まずはこれからのことを考えるべきだろう。
少し、現状を考えてみることにした。
俺の名前は天城総魔。
年齢はおそらく19歳だと思う。
はっきりしない理由は自分の生年月日を知らないからだ。
覚えていないというよりも知る前に分からなくなったと言うべきだろう。
幼い頃に両親を亡くして孤児になってしまったために自分自身に関することをほとんど何も知らないでいる。
だから血液型も分からない。
調べたことがないから不明のままだ。
肝心な部分としてどうして孤児になったのか?という過去の経歴だが。
あまり説明したくない事情によって抹消済みという扱いになってしまっている。
もちろん抹消済みといっても特別な理由があって意図的に隠したわけではない。
結果的に消えただけだ。
元々この国の生まれではないために過去を証明することが出来なかったということもある。
戸籍も何も存在していない状況だからな。
そんな人物が身元を証明する方法は何もない。
だから情報が消えてしまったのだ。
状況によっては不審人物と思われても仕方がないかも知れない。
だが、この国では身元不明の人物というのはわりと普通にいるらしい。
共和国は各国からの難民が数多く集まって形成されているからな。
当然、身分を証明できるような何かを所持している者の方が少数のようだ。
その状況で過去の経歴を気にしていたらキリがないだろう。
気にするだけ時間の無駄だ。
だからこそ、過去をごまかすのはそれほど難しい作業ではないとも言える。
身元不明の人物など数えきれないほど多く存在しているらしいからな。
自分から情報を提供しない限り、
過去を詮索される可能性はまずないだろう。
この国に知り合いでもいない限り、
他国から移住してきた者達の過去を証明できるのは自分達だけだからな。
だからこそ。
どこかの教会で聖職者であった者も、
どこかの村落で殺人の罪を犯した者でさえも、
等しく過去を隠し通せてしまう。
それが共和国の実情であり、
そういう内部事情があることで俺の過去はごく自然に消滅することになった。
誰も俺を知らないし、誰も何も証言できないからな。
自ら話さない限り情報が漏れることは決してないはずだ。
当然、誰かが何かを調べようとしても調べようがないということになる。
だから俺の過去は完全に消え去った。
それでも学園側は俺の入学試験の結果に対して思うところがあるらしく、
密かに俺の身辺調査を行っていたようだ。
直接対面したわけではないものの。
昨日まで泊まっていた宿や様子見で顔を出した魔術師ギルド等で見知らぬ人物達が密かに尾行していることには気がついていた。
ただ、尾行に気づいていてもあえて気にしないようにしていた。
尾行されている理由は現在も不明のままだが下手にかかわるのは面倒だからな。
そして何より調べられて困ることもないからだ。
だからつけられていることには気づいていたものの、
あえて放置して無視し続けていた。
どうでもいいと思っていたのが本心だが、
その結果がどうだったのかはもちろん知らない。
もしかしたら尾行に気づかない程度の実力だとは思われたかもしれない。
まあ、それはそれでいいと思う。
実際にどうかは分からないが、
現在、学園内での監視は控えめになっているからな。
学園に入ってから監視の目が緩んだのは間違いない。
…とは言え。
完全に監視がなくなったわけではないようだ。
今も何者かの視線が感じとれる。
はっきりとは分からないが、おそらく単独だろう。
視線の主は一人だけだと思う。
町中とは違って学園内の方が監視しやすいために余分な人員を削減しているのだろうか?
あるいは別の理由があるのかもしれないが現時点では分からない。
何が目的で監視しているのかは知らないが、
町で隠れていた者達に比べれば少しは実力がありそうに思える。
今までとは格が違う気がするからな。
違和感を隠しきれていなかった町中の尾行者とは実力に差があるだろう。
今現在。
どこかに潜んで俺を監視している人物がいることは、
かなり注意深く周囲を警戒し続けていなければ気づけなかったと思う。
それほど分かりにくい相手だ。
見られているという嫌な雰囲気は感じるのに気配までは掴めないからな。
どこに隠れているのかがわからないでいる。
その程度の実力はあるようだ。
ただ、同時に思うこともある。
どちらにしても尾行相手に気づかれるようでは大した人物ではないということだ。
今までよりも優秀な人物なのは間違いない。
だからと言って恐れるべき相手かと問われればそうでもない。
尾行している人物の正体が不明とはいえ、
それは遠く離れた場所に隠れているからでしかないからな。
もしも向こうから接近してきた場合。
気づけない可能性ははっきり言って『ない』と断言できる。
相手の尾行能力がそれなりに高いために今はまだはっきりとした居場所や姿を特定できていないものの。
監視している人物がいることは間違いないからな。
こちらからは確認しづらい状況だが見られているという感覚はしっかりと感じ取れている。
だからこそ相手が接近してきた場合に即座に対応できる自信がある。
向こうがどういうつもりで行動しているのかは知らないが、
ひとまず接触するつもりがないのならこのまま無視しておいても問題はない気がする。
どうだろうか?
判断に悩む部分ではあるものの。
現状で考えられる可能性としては俺の情報を得るために監視しているのかもしれない。
だが、こそこそと隠れて行動している程度で調べることなどできはしないとも思う。
互いの距離が離れすぎているからな。
俺が何かを喋ったとしても聞き取ることはできないだろう。
少なくとも過去に繋がるような情報は些細な断片でさえも手に入れることができないと言い切れる。
人に言えない理由があって過去を隠した訳ではない。
ただ一つの『事件』と幾つもの偶然が重なった事で過去の記録を全て失ってしまったからな。
今更、俺の過去を調べることなど出来はしない。
かつての事件をきっかけとして、過去を失ってしまったことでほぼ強制的に一人きりで生きることになってしまった。
まだ5歳程度だった幼少の頃に孤児となってから、
十数年の月日をたった一人で必死に生きてきた。
誰にも必要とされず、
誰の手も借りずにたった一人で生きてきたのだ。
だからこそ誰も俺の存在を知らないと思う。
闇に身を潜めて孤独に生きてきたからな。
もちろん普通の子供なら一人の力では何もできずに餓死してしまうだろう。
5歳の子供にできることなどたかが知れているからな。
だが、幸か不幸か俺には魔術師としての才能があった。
ごく一般の普通の子供ではなかったようだ。
そのおかげで生きる上で必要な問題は独力で解決できていたと思う。
孤児になった同時期に運良く魔術師として覚醒したことで。
炎を生み出して寒さを凌ぎ、
水を生み出して渇きを潤し、
時には風の力で木の実を落とし、
時には土の力で獲物を捕らえて飢えることなく生きてきたからだ。
ある程度成長してからは別の方法で直接的な資金を調達したりもしてきたのだが、
その辺りの情報が漏れることがないことも十分理解している。
あまり公にできないことをしてきた自覚はあるからな。
盗賊を襲い、窃盗や強奪など、犯罪に等しいことをしてきた。
さすがに一般人を襲ったことはないが、
盗まれたものを盗んだ以上、やっていることは同じだろう。
とはいえ、過ぎたことを考えても仕方がない。
今さら過去は変えられないからな。
過ぎた時間の流れは決して元には戻らない。
過去を過去として捨て去って、
今はこれから先の未来を考えて生きていくしかないだろう。
「ずいぶんと時間をかけたが、まずはここから始めよう」
過去を割りきって、
校舎の目前へと歩みを進めることにした。