待ち望んでいた声
《サイド:米倉宗一郎》
3月下旬。
正午を過ぎたころにジェノスの南部にある小さな診療所へと訪れた。
…ふむ。
…相変わらず賑やかなことだな。
慌ただしく走り去っていく二人の男性に一瞬だけ視線を向けてみたのだが、
無理に追いかける理由はないからな。
ひとまず今は診療所の内部へと歩みを進めていくことにする。
「まあ、これで落ち着いて話ができるだろう。」
先程すれ違った二人は知り合いであり、
俺にとっては保護すべき対象に含まれるそれなりに重要な男達ではあるのだが、
彼等には彼等の事情があるだろうからな。
慌てて走り去っていった理由もすでに見当がついていることもあって、
わざわざ呼び止めようとは思わなかった。
…それよりも、だ。
彼等がいないのは好都合だと考えながら診療所に入ってみると。
「…あっ!お待ちしていました!」
看護婦の一人が俺に気づいて慌てて駆け寄ってきてくれた。
「美由紀さんは現在3階の個室でお待ちになられています。」
「3階か。それならいつもの部屋だな?」
「あ、はい、そうです。ご案内しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。」
もうここに来るのにも慣れてきたからな。
「一人でも道順は分かる。」
すでに何度も通っている場所だからな。
今さら道案内を受ける必要はないだろう。
「俺のことは気にするな。それよりも仕事を続けてくれれば良い。」
「あ、はい。すみません。ありがとうございます。」
「いやいや、礼を言いたいのは俺のほうだ。」
再びジェノスの知事になったとはいえ、
小さな診療所のなかで職権を乱用する気はさらさらないからな。
必要以上に気を使われると他の患者に対しても申し訳ない気持ちになることもあって、
看護婦の申し入れを断ってから自らの判断で診療所の奥へ向かうことにした。
「あまり長居はできないから用件を済ませたら早々に出ていくつもりだ。だから気にせずに仕事を続けてくれ。」
「は、はいっ。」
「うむ。」
仕事に戻るように告げてから診療所を進んでいくと。
どこか離れた場所から待ち望んでいた声が幾つも聞こえ始めた。
…ふふっ。
…悪くはないな。
何度経験してもこの瞬間だけは喜びを押さえきれない気持ちになってくる。
「こうして聞こえてくる声のうちのどれかが…。」
俺達が待ち望んでいた希望の一つのはずだ。
「だが、まずは…。」
希望の確認の前に娘に会うべきだと考えて、
2階を通りすぎてから3階まで歩みを進めて目的の部屋へと近付いていく。
「こうしてここに来るのも今日で最後かもしれないな。」
二度と来る必要がないというわけではないのだが、
必要以上に何度も来る場所でもないからな。
おそらく今日が最後だと思う。
…まあ、そんなことはどうでもいいことだな。
今後のことはそれほど重要ではなく、
現在の状況確認こそが最優先事項と言えるからだ。
「さて…。」
目的の部屋を見つけて扉の前で足を止めてみたのだが。
加速していく心臓の鼓動が可笑しく感じてしまうほど緊張していて、
自分でも驚くほど体の震えが抑えきれなかった。
「ずっと忘れていた感覚だが、がらにもなく緊張してしまうものだな。」
もう20年以上昔になるだろうか。
一度だけ感じたことのある感覚を思い出して、
何も変わらない自分自身に対して苦笑してしまう。
…思えば、あの日もこうして震えていたな。
今となっては遠い日の思い出だが。
…これが幸福というものなのかもしれないな。
この瞬間を迎えるために。
そのために人は長い人生を生きているのだと考えてから、
室内にいるはずの娘に扉越しに話しかけてみることにしたのだ。
「美由紀。少し遅くなったが、様子を見に来たのだが…入っても良いか?」
「ええ、どうぞ。」
迷うことなく答えてくれた娘の返事が聞こえたことで、
軽く深呼吸をしながら扉の取っ手に手を伸ばすことにした。
「お邪魔する。」
あまり失礼のないように気を遣いながら部屋の中へと歩みを進めると、
長い髪を軽く結ってベッドに腰かけている五十鈴菜々子が笑顔で出迎えてくれた。
「わざわざ、ありがとうございます。」
…いやいや。
「わざわざということもないだろう?娘の様子を見に来ただけだ。そんなに気を遣う必要はない。」
例え書類上の親子関係とはいえ、
俺にとって五十鈴菜々子はまぎれもなく娘であり、
今は亡き米倉美由紀の名前を与えてでも大切にしようと考えている。
だからこそ気を遣われるよりも頼られる存在でありたかった。
「それはそうと、体調はどうだ?」
「ええ、今はだいぶ落ち着いてます。昨夜は痛みがひどくて立ち上がることさえ出来ませんでしたけど。一晩休んで、ずいぶん楽になりました。」
…そうか。
「それはなによりだな。」
「ありがとうございます。私がこうしていられるのも全てお父さんのおかげです。」
…ははははっ。
「それはどうか分からないが、俺は俺にできることをしたまでだ。それに娘の幸せを願うのが親の役目だと思っているからな。」
血の繋がりなどなくても娘として受け入れると決めた瞬間から、
五十鈴菜々子の幸せが俺の生き甲斐になっている。
「良く頑張ったな。」
「はいっ。」
これまでの努力を称えたことで、
菜々子は穏やかな微笑みを返してくれた。
「今はとても…幸せです。」
…そうか。
…それなら良いんだ。
一度は世界を憎み。
全ての滅亡を望んでいた菜々子だが、
あの頃の黒く淀んだ感情はすでに完全に消えているようだった。
「ようやく…手に入れることができたんです。」
…ああ、そうだな。
失っていた希望を。
奪われた未来を。
ようやく取り戻したのだ。
「やっと…やっと私も手に入れたんです。」
…ああ。
心の底から二度と手放したくないと思える大切な希望についに手が届いたのだ。
「こんなに…こんなにも生きていることが嬉しいと感じたのは…初めてです。」
…ははっ。
「悪くない…いや、良い結果だな。」
微笑みを浮かべながらもそっと零す菜々子の喜びの涙を見た瞬間に、
天城君の残した呪いが良い方向に向かったことをしみじみと実感することが出来た。
「こうなることを天城君も望んでいたのだろうな。」
「…ええ、そうですね。」
感謝の気持ちを抱く俺と同じように、
菜々子も穏やかに微笑んでくれていた。
「あの時は彼を恨みました。私を地獄に縛り付けたことを…。私を死なせてくれなかったことを…。とても憎んでいました。」
だがその想いは1年の時を経て憎悪から警戒に変わり、
自らの腕で希望を抱いた瞬間に感謝の想いへと変化したようだ。
「こんなにも穏やかな気持ちになれるなんて…自分でも思っていませんでした。」
…だろうな。
それでも今の菜々子は確実に1年前とは違う状況にいる。
現在の菜々子には死ねない理由ができてしまったからだ。
「私はもう死を望みません。死んで諦めることよりも…もっと大事なことができましたから。」
…ああ、そうだな。
生きて希望を守り抜く。
その役目を認識した瞬間から菜々子の人生は大きく変化したのだ。
「私はもう…死ぬわけにはいかないんです。」
…うむ。
天城君が予言していた通りに菜々子の死を封じられた。
「だから…これからは精一杯生きようと思います。」
過去の悪夢は忘れられないとしても、
未来への希望はまだまだ残っているからな。
「私はまだ…死ねません。」
…ああ、そうだ。
自らの意思を示す菜々子に希望を託すかのように。
「授乳のお時間ですよ~。」
先程の看護婦が2階から希望を連れて室内へと入ってきてくれたのだ。
「二人ともお腹が空いて仕方がないようですので、お母さんとしてちゃんとお腹を満たしてあげてくださいね~。」
陽気に話しかける看護婦が『二人の子供』のうちの一方を差し出してくる。
「抱き方はもう覚えましたか?」
「ええ、大丈夫です。」
ひそかに練習していたのだろう。
菜々子に不安はないようだった。
「任せてください。」
母として誇らしく答えてから生まれたばかりの赤子をしっかりと抱き締めたことで、
先程まで元気良く泣いていたはずの赤子が少しずつ穏やかになっていく。
「…はぅ…ぁ…ぅ…。」
「あらあら、ちゃんとお母さんが分かるんですね~。」
順番待ちしているもう一人の赤子は全力で泣き叫んでいるのだが、
先に母に抱かれた赤子はどこか嬉しそうに見えた。
「…ふふっ。良い子ね。」
いとおしさを噛み締めてしっかりと子供を抱く。
そんな菜々子の幸せそうな表情を見守ってから赤子の授乳に背を向けようとしたのだが。
「あ…。そのままで良いですよ。」
「い、いや、だが…。」
「ちゃんと見ていてください。私と…この子達を。」
「あ、ああ…。」
菜々子は俺を引き留めてから、
胸元を隠すことなく子供に授乳を始めてしまった。
………。
娘が授乳を行う姿を見るのはさすがに照れ臭いと感じるのだが、
引き留められてしまったことで目のやり場に困りながらもその場にとどまるしかなかった。
…うーむ。
…どうにも居心地が悪いな。
どうにかして外に出られないかと考えていると。
「抱いてみますか?」
様子を見ていた看護婦がもう一方の赤子を差し出してきた。
「可愛いですよ?」
「あ、ああ…。そうだな。」
異論はない。
異論はないのだが、
どうにも不安を感じてしまう。
「ちゃんと首を支えてあげてくださいね。」
「…あ、ああ、分かってる。」
育児の経験は十分にあり、
実の娘を抱き締めた回数は数えきれないほどだ。
…それなのに。
「緊張してしまうな。」
どれほどの経験があっても、
それだけで全てが解決できるわけではないからな。
生まれたばかりの命を預かるということがどれほど重大な責任を伴うかを知っているからこそ必要以上に緊張もしてしまう。
「こ、こんな感じだったかな…?」
菜々子のように自然な形で抱くことができずに少しぎこちない動きで赤子を抱いてしまった。
そんな俺の姿を菜々子と看護婦が微笑ましく見守るなかで。
「…ぎゃー!ぎゃー!おぎゃー!」
…う、うおっ!?
受け取った赤子が今まで以上に激しい勢いで泣き叫び始めてしまったのだ。
「こ、これは…っ。」
「ふふっ。」
明らかに赤子が嫌がっていると感じて即座に菜々子に視線を向けてみたのだが、
菜々子は楽しそうに微笑んでいた。
「嫌われてしまいましたね。」
「あ、ああ…。どうやらそうみたいだな…。」
手元で泣き叫ぶ赤子は良く見ると男の子らしく、
俺から逃げ出すかのように両手を振り回して暴れている。
…難しいものだな。
赤子をあやすのは難しく、
かつて美由紀を抱いたときも激しく泣かれたことを思い出してがっくりとうなだれてしまう。
「どうもこういうのは苦手なようだな…。」
決して嫌いではないのだが、
どうすれば良いのかが分からないために途方にくれてしまうのだ。
「代わってくれないか?」
再び看護婦に赤子を託そうとしたのだが。
「それじゃあ、この子を預かってくれませんか?」
菜々子はある程度の授乳を終えた手元の赤子を差し出してきた。
「この子はおとなしいから大丈夫だと思います。」
…うっ。
「そ、そうなのか?」
どちらにしても激しく泣き出されるのではないかという不安が募るなかで、
ゆっくりと赤子を取り替えてみると。
「ぁ~…。ぅ~。」
菜々子の宣言通り、
授乳が済んだ赤子は泣き叫ぶ様子がなかった。
…ふむ。
「こっちは女の子か?」
「ええ、そうです。男の子がお兄ちゃんで女の子は妹になります…と、言っても双子なので大差はありませんけど。」
…双子か。
「そのわりにはそれほど似ているようには見えないな。性別の差か?」
「いえいえ、違いますよ~。」
男女で違いが出るのかと考えたのだが、
どうやらそういうことではないらしい。
「もっと根本的に違いがあるんです。」
看護婦が即座に俺の考えを否定してきた。
「この子達は二卵性双生児…というと、難しく聞こえるかもしれませんが、一卵性の場合は瓜二つ…になる可能性が高いのですが、二卵性の場合は単純に二人の子供ができたと考えてもらって良いと思います。双子でも二卵性だと全然違うんですよ~。」
…ふむ。
…それはつまり。
「可能性として、市村と浦谷の両方の子供…という可能性が高い…ということですね。」
俺の考えを察してくれたのか。
菜々子が説明してくれた。
…なるほどな。
俺もその可能性が高いだろうと即座に納得できた。
…そこまで手回し出来るかどうかは不明だが、天城君ならそこまで仕組んでいても不思議ではないからな。
どちらか一方ではなくて両方の希望を残す。
その結末まで計画していたとしてもおかしくはないと思うからだ。
…まあ、実際のところは分からないがな。
生命の誕生にまで影響を及ぼすことができるのかどうか?
それは天城君本人にしかわからない。
…まあ、事実がどうかに関係なく、どちらも美由紀の子供に違いはない。
どちらかが父親という可能性も。
両方共に父親であるという可能性も。
そのどちらであっても母親が菜々子なのは間違いないからだ。
「この子達の父親が誰かなど、詮索すること事態が野暮というものだろう。」
事実がどうかなど知る必要もなければ詮索する意味さえないと思う。
「この子達が幸せに育つことができればそれでいいのだからな。」
「ええ、そうですね。」
俺の考えに賛同するかのように微笑みながら頷く。
そんな菜々子の思いは、
おそらく浦谷と市村も同じなのだろう。
彼等は生まれてきた子供達のために大急ぎで二人分の子供服を買いに走っていったのだから。
「…どちらでも良いんです。」
両腕で抱く大切な命をいとおしく想いながら、
菜々子も子供達の未来を思い描いている。
「幸せに…そして元気に育ってくれればそれだけで十分なんです。父親が誰かなんて…どうでも良いんです。」
自分が経験してきた絶望など知らずに幸せな人生を生きてくれれば、
それ以上に望むことは何もないと呟いていた。
「この子達には幸せになってほしいです。だから…だからもう二度と悲劇は繰り返しません。」
…ああ、そうだな。
もう誰かを恨んで世界の滅亡を願おうとは思わないでほしい。
地獄の終焉を求めて全てを消し去ろうなどとは思わないでほしい。
「兵器の研究はほぼ終わりつつあります。だから…これからは…。」
世界の平和のために。
子供達の未来のために。
自分にできる努力をしてみようと考えているようだった。
「これからは共和国のために頑張ってみようと思います。ここは…この町は…私にとってとても居心地の良い町だから…だから私も…この町を守りたいと思います。」
…そうか。
そう言ってもらえれば、
俺も菜々子を保護した甲斐があるというものだ。
「この町を…そしてこの国を…私も守ろうと思います。」
兵器の攻撃などによって滅ぶことは許さない。
もちろん戦争や争いによって悲しみが広がることも認めない。
「そのために私は…これからも生きようと思います。」
生まれてきた子供達のために。
守るべき命のために。
「生きて…いたいです。」
愛すべき男達と共に。
そして大切な子供達と共に。
生きていくことを宣言してくれた。
…良い考えだな。
「そう言ってくれる日をずっと待っていたのだ。」
菜々子の過去を思い出したあの日からずっと、
菜々子が生きたいと言ってくれることを待ち望んでいた。
「すまない。俺のせいで何度も苦しい思いをさせてしまったな。」
「…いえ、お父さんのせいではありません。ただ、少しだけ運が悪かったんです。今は…そう思うようにしています。」
………。
『運が悪かった』
ただその言葉だけで解決できる人生ではないのだが。
それでも菜々子は前を向いていきるために、
過去の悪夢をその言葉に集約していた。
「例え過去に何があったとしても今の幸せを否定することはできません。だから…だから私は…。」
絶望以外の幸せな思い出もあったことを思い出してくれたようだ。
「お父さんと出会えたこと、そしてお父さんに受け入れてもらえたこと。その幸せな思い出があることも…決して忘れません。」
…は、ははっ。
俺と出会い、
俺に守られた日々があったことを幸せだと言ってくれたのだ。
「絶望だけじゃなかったんです。そのことを…思い出せたんです。」
…そうか。
…それなら良いんだ。
絶望に彩られた過去の思い出の中にも、
決して忘れられない幸せな思い出はあったようだ。
「ありがとうございます。」
「い、いや…。」
俺がいたこと。
そして自分を受け入れてくれたこと。
その全てに感謝してくれた菜々子だが。
「…俺にはこの程度のことしかできないからな。」
苦笑いを見せてから手元の赤子に視線を落としてしまう。
…俺は娘の幸せを願うことくらいしかできない男だ。
それでもこれで良かったんだと思う。
実の娘を死なせてしまった悲しみは今も心のなかに残っているが、
例え血の繋がりはなくとも菜々子を娘だと思う心があるからこそ生まれてきた子供達をいとおしく思えたのだ。
…今こうしてここで感じられる幸せは本物だ。
だからこそ思う。
「この子達は俺の孫だ。」
この子達も俺の家族なのだ。
「美由紀。これからもずっと、俺がお前達を守ろう。」
菜々子だけではなく。
生まれてきた子供達も俺の家族として受け入れて大切な娘と孫を守ることを誓いたい。
「俺達は家族だ。だから何かあったらいつでも俺を頼れ。俺はお前の父として、そしてこの子達の祖父として、いつでもお前達の力になろう。」
「…は、はいっ。」
俺の思いを聞いて喜びの涙を流す菜々子。
そんな娘の姿をしっかりと見つめてから。
「出産、おめでとう。」
祝福の言葉を贈ることにした。
生存者(72)《米倉美由紀。旧姓、五十鈴菜々子》
二人の子供を出産後。
半年の育児休暇を経て再び研究者として復帰する。
その後さらに半年の時を経て兵器の対抗策を確立し、
共和国の発展のためにさらなる研究に没頭する。
生存者(73)《米倉宗一郎》
菜々子の出産後も一家の長として家族を大切にしつつ、
共和国を守るために龍馬の参謀として活躍する。
それから数年後。
大陸統一同盟の話し合いが本格的にまとまりだした頃に現役を退いて、
残りの余生を家族と共に静かに過ごすことにした。




