歳を重ねるほどに
…ふぅ。
あれから4時間が経過しただろうか。
午前6時を過ぎて夜が明け始める頃になってから、
黒柳は欠伸を堪えるような仕種を見せながらのんびりとした動きで控室に戻ってきた。
「…待たせてすまない。」
眠気をごまかすために無理に笑顔を浮かべる黒柳だが、
その目は明らかに一日の疲れを表している。
「辛そうだな。」
「う~む…。さすがに疲労が隠しきれない状況にまで達しているかもしれないな。」
…だろうな。
黒柳の疲労を感じとって一言だけ問い掛けてみると素直に限界を認めていた。
「仕事がどうこうというわけではないのだが、やはり歳による限界はあるのかもしれないな。数年前ならこの程度の徹夜はどうということもなかったのだが、さすがに歳を重ねるほどに体力が低下していくのを嫌でも思い知らされてしまうな…。自分ではまだまだ若いと思っていても現実は否定できないものだ…。」
………。
…年齢か。
「確かに人が人である以上、老いから逃れる方法はないだろうな。」
「ははっ、そのようだな。あまり認めたくはないが、俺も歳をとったということだ。」
「今年で何歳になるんだ?」
「あと半年ほどで41になる。」
「それならまだまだ現役だろう?」
「…一応はな。だが体力勝負とも言えるこの仕事ではすでに引退間近の年齢かもしれん。まあ、幸いにも俺のあとを継げる後継者は数名いるからな。俺が第一線から退いたところで大きな問題はないはずだ。」
…黒柳が引退?
「現役を退くのはまだ早いんじゃないか?」
「…どうだろうな。一人の研究者としては死ぬまで現役でいたいと思うが、所長という役職からはそろそろ身を引いても良い頃合いだと思っているところだ。」
「疲れたのか?今の仕事に。」
「いやいや、そういうわけじゃない。ただ俺のような人間よりももっと相応しい人間がいるんじゃないかと考えているだけだ。」
…俺のような、か。
「黒柳もなんらかの過去を悔やんでいるのか?」
「俺は決して善人ではないからな。きみと同様か…あるいはきみ以上に裏社会を生き抜いてきた偽善者だ。決して表には出せない罪も幾つか犯している。暗殺や略奪や謀略が日常的なほどに…な。」
…ああ、そうか。
やはり黒柳にも口外出来ない過去があるらしい。
「ここで働く以前は何をしていたんだ?」
「…そうだな。あまり大きな声で言えることではないが、一言で言えば密偵だな。共和国の暗部を担う一員として3年ほど活動していた時期がある。」
「その頃にアストリア王国で諜報活動をしていたのか?」
「ああ。きみはすでに知っているようだが、神崎慶一郎や朱鷺田秀明と共に諜報員として活動していた時期でもある。」
「何故、密偵を引退した?」
「…自分の限界を知ったからだ。」
「竜の牙に敗れたことか?」
「ああ、そうだ。俺達は竜の牙に対して何も出来なかった。共和国の精鋭と呼ぶべき部隊で竜の牙に戦いを挑んだ結果が惨敗だ。多くの仲間を失い、多くの大切な命を失ったことで俺は戦闘に向いていないことを実感した。」
「その結果を考慮して出した答えが研究者としての道か?」
「ああ…。戦いから逃げ出したと言われれば返す言葉もないが、俺は別の方法で共和国の力になる道を選んだ。それが共和国の技術力の強化になる。」
「黒柳は技術力を…。そして神崎は医療を…か。」
「ああ、そうだ。だが朱鷺田秀明は第一線から退かずに戦い続ける道を選んだ。」
…ああ、そうだな。
「朱鷺田秀明はどうだった?頼りになる男だったか?」
「ああ、今まで出会った中で数少ない信頼のおける実力者だった。」
朱鷺田がいなければアストリアでの戦いを終わらせることは出来なかっただろうからな。
「ははっ。きみにそう言ってもらえれば、あいつも本望だろう。」
「…だと良いんだが。」
「きっとそうだと俺は思う。少なくとも俺なら喜んできみに全てを托すことが出来るからな。」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、期待に応えられそうにはない。」
「はははっ!まあ、ここへの所属を強制するつもりはないから気にしないでくれ。きみになら所長の座を譲ってもおしくはないが、きみはここでおさまる器ではないだろう?きみにはきみの立つべき世界がある。そのためにきみはきみの道を進めば良い。」
「…すまない。」
「良いんだ。気にするな。それにきみが心配せずともここには西園寺君がいるからな。例え俺が引退したとしても何の心配もない。」
…そうか。
それなら良いんだが。
「随分と西園寺つばめを褒めるんだな。」
「まあ態度には問題があるが、実力は確かだからな。それに誠実で真面目な部分も評価できる。少々頭が固い部分があるが、それもまた愛嬌だろう。」
…なるほど。
西園寺つばめを評価する黒柳の表情には笑みが浮かんでいるのが見えた。
「信頼してるんだな。」
「当然だ。向こうがどう思っているかは知らないが、俺はいつだって西園寺君に期待しているつもりだ。」
「期待か…。まあそういう表現もあるかもしれないな。」
「ん?それはどういう意味だ?」
「いや、特に深い意味はない。」
黒柳が西園寺つばめの気持ちにここまで気付かない鈍感さには少々苦笑したくなるが、
他人の気持ちに気付かない鈍感さは俺も人事ではないからな。
…俺も翔子の想いに気付けずにいたんだ。
黒柳のことは笑えない。
少なくとも俺にその権利はないだろう。
「まあ、それはいい。」
二人の関係に口出しするつもりはないからな。
それは二人が自分達でお互いの気持ちを確かめ合えば良いことだ。
「それよりも話を進めよう。」
ここへ来たのはルーン研究所所長の後継者や黒柳と西園寺つばめの恋愛関係に関して話し合うためじゃない。
「休息は十分にとれた。次は俺達の話を進めよう。」
僅か数時間でも睡眠をとることが出来た。
次は昨夜の話を進めるべきだろう。
「実験結果の分析を始めよう。」
「ああ、そうだな。きみもこれから色々と忙しいだろうからな。手早く終わらせよう。」
残り僅かな時間を無駄にしないためにも、
まだ眠そうな黒柳に催促してみると。
黒柳は藤沢瑠美の部署から持ち出してきた書類の束を室内のテーブルの上に広げてから、
先程の実験による調査の分析を開始した。




