潮の香り
小刻みに揺れながらジェノスを目指して走り続ける馬車。
優奈との全ての話を終えてからも静かな街道を走る馬車は全速力で南を目指している。
そうしてすでに日も沈み終えて茜色の空が夜の色に変わり始めた午後7時頃に。
「まもなく到着しますっ!!」
馬車を走らせる兵士の声が荷台にいる俺達に届いた。
…ついにジェノスか。
ようやくジェノスの姿を視認できる距離にまで近付いたことで、
時折吹き抜ける風の匂いの中に潮の香りが含まれているのが実感できるようになってきた。
「やっと…っ。やっとジェノスに帰れるんですね…。」
「ああ、懐かしい匂いだな。」
「はいっ♪ジェノスの匂いです。一ヶ月前と何も変わらない海の匂いですっ。」
潮の香りと自然の匂い。
それらはどこにでもあるように思えるが、
何故か故郷の匂いだけは別格に思えてしまう。
…自分でも驚くほど懐かしさを感じてしまうな。
これほどまでにジェノスの匂いを懐かしいと感じたことは今まで一度もなかった。
…これが郷愁か?
故郷を懐かしむ想いが自然と溢れ出してくる。
今まではそれほどジェノスに思い入れはないと思っていたはずなのに。
それなのに。
…目が熱くなってしまうな。
自分でも抑え切れない涙がこぼれ落ちそうな気がした。
…港町ジェノスか。
改めて眺める町並みはとても懐かしくて、とても大切なモノに思えてしまう。
…あれから一月か。
過去を懐かしく思う想いがとめどなく溢れ出してくる。
少しでも油断すれば涙をこぼしてしまいそうなほど強く心を締め付けられる気持ちを感じていると。
「やっと…帰れるんですね…っ。」
すでに優奈は大粒の涙を流しながら徐々に近付くジェノスの町並みを一心に眺め続けていた。
「お父さん…っ。お母さん…っ。」
………。
会いたくても会えなかった両親を想っているのだろう。
これからもまた別れの道を選ぶことになる優奈の心は、
秘宝の力や特殊な能力を使わなくても一目で分かる。
「やっと…やっと帰れるよ…。」
懐かしさや愛しさ。
寂しさや切なさ。
そんな悲しみを心に抱く優奈はジェノスの町並みを眺めながら静かに泣いていた。
「優奈…。」
「え…?あ…っ。す、すみません…っ。」
声をかけた瞬間に慌てて涙を拭う優奈だが。
「だ、大丈夫です…っ。」
返す言葉とは裏腹に溢れ出す涙は止まらないようだ。
何度も何度も目元を拭って涙を隠そうとしている。
「ぜ、全然悲しくなんてないです…よ?やっと…やっとジェノスに帰れるのに…っ。それなのに悲しいなんて…っ。そんなこと…ない…ですからっ。」
必死に感情を落ち着けるために、
自分自身に言い聞かせようとする優奈だが。
例えどんな言葉を並べたとしても自分の心は偽ることはできないだろう。
「悲しくなんてないのに…。泣きたいわけじゃないのに…。どうしても涙が止まらないんです…っ。」
…だろうな。
自然と込み上げる涙は意思の力では止められないからだ。
「自分でも、止められないんです…。」
ジェノスから目を背けたくらいでは涙は止まらない。
漂う潮の香りと徐々に近付く町の喧騒が心を激しく揺さぶり続けるからだ。
「ご、ごめんなさい…っ。」
…いや、無理をする必要はない。
必死に涙を拭い続ける優奈だが、
謝る必要はどこにもないと思う。
「泣きたい時には泣けばいい。それも新たな一歩を踏み出すためには必要なことだ。」
「…は、はい。すみません…。」
俺の言葉を素直に受け入れてくれたのだろう。
「ごめん、なさい…っ。」
涙を拭う手を止めた優奈は、
ジェノスに着くまでの僅かな時間の間だけ俺に抱き着きながら声を押さえて泣き続けていた。




