僅かな心の動き
………。
ここにはいない誰かと想いを通じ合わせてから開始線へ向かう乃絵瑠。
その話し相手が誰だったのかなんて考えるまでもないわよね。
だけどそれが誰なのかはあえて考えないようにする。
今ここでその人物の名前を思い浮かべてしまったら、
乃絵瑠が私の思考に気付いてしまうから。
だから徹底して思考を止めることで乃絵瑠の能力を回避ながら会場全域を見渡すことにしたのよ。
………。
………。
………。
東西南北の全て。
1階と2階。
そして3階にいたるまでの全域を眺めてみる。
だれど肝心の人物の姿はどこにも見えなかったわ。
………。
魔力の波動さえも感知できず。
存在そのものさえ一切把握できなかったのよ。
………。
長野紗耶香の姿は発見出来るのに。
『あの女』の姿だけは見付けられない。
………。
確実に会場にいるはずなのに。
それなのに見付からないという状況。
その異様な事態によって私自身の実力もまだまだ足りていないと感じてしまったわ。
なのに。
乃絵瑠だけはあの女の気配を感じて心からの安堵感を表情に示しているのよ。
………。
私には見せない幸せそうな笑顔。
その安らかな笑顔が何故か私の心を締め付ける。
…この感情は何?
私には見せない笑顔をあの女にだけ見せているから?
その決定的な事実に嫉妬さえ感じてしまうのよ。
…ふふっ。
自分の心が制御できない。
そんな僅かな心の動きに気付かれてしまったのかもしれないわね。
「………。」
乃絵瑠が私に振り返ったのよ。
「………。」
何かを言い足そうな表情で私を見詰める乃絵瑠だけど。
その表情には先程の笑顔はなくて、
純粋に私を心配しているような雰囲気が漂っていたわ。
…ふふっ。
…乃絵瑠が私を心配してくれているの?
「………。」
私の思考に対して少し困ったような表情を見せる乃絵瑠の仕種が何故か私を哀れんでいるようにさえ思えてしまう。
…ふふっ。
…心配してくれなくても大丈夫よ。
…大した問題はないわ。
乃絵瑠に気にしてもらうようなことじゃないのよ。
あくまでもこれは私の個人的な感情であって、
乃絵瑠にどうにか出来るような問題じゃないわ。
…少しだけ気になることがあっただけよ。
そんなふうに考えてみると。
「………。」
乃絵瑠は戸惑いを感じさせる表情を浮かべたまま私に背中を向けてマリア・パラスに振り返ったわ。
…そう、それで良いのよ。
乃絵瑠が私に背中を向けたあとで、
気持ちを安定させるために再び思考を止めようとすると。
「………。」
乃絵瑠は後ろ手で何かの合図を送ってきたわ。
…?
…あれは?
あの合図には覚えがあるのよ。
かつてカリーナの学園に竜の牙の戦闘員が襲い掛かってきた時に
乃絵瑠と二人で撃退を行うために即席で幾つかの合図を決めていたから。
…あれはその中の一つのはず。
乃絵瑠が私に向けた合図。
今はまだ私だけにしか分からないその内容は。
…最後まで共に戦う。
乃絵瑠の意志を示す手話だったのよ。
…ふふっ。
…私に気を遣っているの?
…だとしたら余計なお世話よ。
乃絵瑠の心遣いに苦笑しながら乃絵瑠の気持ちを拒絶すると。
乃絵瑠は再び後ろ手で『ごめんね』と合図を送ってきたわ。




