布石
《サイド:常盤沙織》
………。
彼の後ろ姿を見送る私の表情は緊張によって引きつっていたかもしれません。
これほど緊張するのは数年ぶりでしょうか。
虚勢…と言うか、必死に強がると頬が引つるということを初めて経験しました。
それくらい怖かったのだと思います。
きっと。
翔子もこんな気持ちだったのではないでしょうか?
真剣な表情で彼を見送ったあとで、
何度も何度も深呼吸を繰り返してみました。
少し気持ちを落ち着けるためです。
しばらく深呼吸を繰り返していると、肩の力が抜けたような気がしました。
まだまだ恐怖は消えませんが、
ひとまず緊張から抜け出すことは出来たように思います。
なので、これからの事を考えることにしました。
彼との試合に向けて色々と思うことはあるのですが、
ひとまずこれからどうするべきでしょうか?
次々と疑問が沸き起こりますが、出来ることは限られています。
焦っても仕方がありません。
冷静になるように自分で自分に言い聞かせながら大きく息を吐いてみます。
ただそれだけで、少し余裕が持てたような気がしました。
とりあえず試合は午後6時からです。
およそ1時間後ですね。
すでに彼との戦いは避けられません。
今日、断ったとしても明日になるだけだと思います。
仮に彼と戦わないと決めても、北条君や『あの人』が戦う事になるのは間違いありません。
彼が上を目指す限り、誰かが戦わなければいけないからです。
だとすれば、私も戦おうと思います。
翔子も頑張ったのですから。
私だけが逃げるわけにはいきません。
例え勝てないとしても、です。
戦うと決めた以上は精一杯の努力をしようと思います。
それが私の役目だと思うからです。
今の私に出来る事。
それは何でしょうか?
考えられることはいくつもありますが、
まずは彼の限界を調べあげることでしょうか。
翔子との試合によって彼の魔力が低下しているのは間違いありません。
それでも試合を強行すれば更なる魔力の低下が見込めます。
場合によっては彼の底を確認することができるのではないでしょうか?
ですが、私は彼とは違います。
今日はまだ試合をしていませんので、私は全力で戦えます。
その差は決定的です。
魔力の総量を考えれば勝ち目は十分にあると言えるのではないでしょうか?
もちろん、それだけで勝てるとは思いません。
ほぼ圧勝だったと言える翔子との試合を考慮すれば、
有利な点があったとしても決して楽な試合にはならないと思います。
まだまだ私が負ける可能性も十分にあるでしょう。
それでも今の彼が手負いであることは事実です。
いくら傷を完治させても疲労は残るでしょうし。
消費した魔力は戻りません。
少なくとも1時間程度で解決出来る事ではないはずです。
だから…そこをつくことが私の役目ではないでしょうか。
たとえ勝てないとしても、
彼を追い詰めることが出来れば良いんです。
そうすることで私の実力を示すことは出来ると思います。
なので、彼との試合において私に出来る事。
それは勝つ事ではなくて、調査ですね。
勝てなくてもいいとまでは言いませんが、
彼の実力を引き出す事が私の役目だと思います。
大事なのは彼の限界を調べる事です。
次に戦うはずの北条君やあの人の為に。
たった一つでもいいから彼の弱点を見つける事が出来れば、
私が試合を行うことにはきっと意味があるはずです。
「後ろ向きだけど、それが最善かしら」
もちろん試合を諦めるつもりはありません。
やるからには勝つつもりで挑みます。
ただ、負けたとしても悔いのないように。
翔子のように精一杯誇れるような試合をしたいと思います。
「大丈夫。まだ諦めるのは早いわ」
すでに彼の力は翔子との試合によって確認しています。
『霧の結界』
『天使の翼』
『ソウルイーター』
そのどれもが驚愕に価する力ですが、
知ってさえいれば事前に対策は考えられます。
ただそれら以上に翔子が恐れていた力がまだ残っているのも事実ですね。
翔子との試合では見せなかったもう一つの力である魔法。
いまだに未知数の能力ですが、
その切り札を引き出す事が出来れば…。
あるいはその切り札を上回る事が出来れば、
彼の限界を知り、彼に勝つ事が出来るかもしれません。
共和国においても使用者の限定される『魔法』
それは不安定な力です。
私や翔子でさえ完璧には扱えません。
ルーン発動時という特定の条件化であればある程度の魔法を使うことができますが、
それはつまり媒体がなければ使えないということでもあります。
魔術と魔法の違い。
それを一言で表すのなら基礎と応用と言えるでしょうか。
魔術は才能さえあれば誰でも使えます。
魔力という素質を持って生まれれば誰でも魔術師になれるからです。
ですが魔法は違います。
魔術を理解して使いこなせるようになった上で、
魔術そのものを自在に操れるようになることが重要なのです。
真に『魔力の法則』を行使出来る事。
それが魔法使いの条件と言われています。
誰でも扱えるように効果が統一された魔術とは根本的に違うのです。
魔術そのものを自在に操れるのが魔法なのです。
それはまさしく基礎と応用の差と言えるでしょう。
そのせいで術者次第によって魔法の効果は大きく変わってしまいます。
圧倒的な破壊力を生み出す事も出来れば、ゴミ一つ燃やせないという事もあるのです。
その力を理解して操れるようになるかどうかは術者次第です。
だからこそ、彼がどの程度の実力を持っているのか?
そこを調べることが最優先事項といえるでしょう。
ただ、それが私に出来るのかどうかという部分で疑問に思うのも事実ですが…。
それでもやらなければいけないことだと思います。
もしも調査が出来なかったとしたら、
私の実力では単に翔子の二の舞となってぶざまな敗北を晒すだけです。
その後の試合の行方は予測さえ出来ません。
ですが彼の実力を引き出せれば、
北条君達の戦いを有利な展開に持っていくことができるはずです。
それを思えば、彼との試合は十分にやってみる価値があるように思えます。
私は布石になればいいのです。
勝てなくても実力を引き出せればいいのです。
そう思い込んで試合に望む事にしました。
「一度、戻った方が良いかしら?」
試合前に理事長に報告するべきだと思います。
なので私も理事長室に向かうことにしました。
まだ、間に合うはずです。
翔子と北条君と別れてからすでに30分以上経過していますが、
きっとまだそこにいると思います。
理由というよりは直感というべきかもしれませんが、
翔子達がまだいると信じて、私も理事長室へと向かうことにしました。
…そうして数分後…。
たどり着いた理事長室には、予想通り翔子と北条君の二人がいました。




