Ⅵ-7
巨大な倉庫はその外見に違わず、内部は恐ろしい広さを誇っていた。
「倉庫の外見は、やはり偽装か」
古臭い外見に反して内部は真新しく随所で区切られて、まるで多目的ホールそのものだ。薄い壁に多くの部屋、軋む床のどれもが本来の多目的ホールに及ばないが、広さと複雑さだけは優っている。通路に監視カメラが設置されていないのが唯一の救いではあるが、それでも若干の不安が残る。
ここで起こるのは、出会い頭の遭遇戦だ。
迷路のような建物内部で偶然に鉢合わせた相手との殺し合い――それを数回、人数にして四人もの敵をクロは葬った。手にしたナイフはべっとりと血で濡れ、ブーツやズボンの裾は元の色が分からなくなるほど赤黒く染まっていた。
衣服が他人の血で染まる不快感は、何時の間にか気にならなくなっていた。
血の足跡や足音を極力消そうと使っていた自然乾燥の『加速』も今は使っていない。省エネを心掛けて戦わなければ、体力がいつまで持つかわからないのだ。敵に足跡を辿られるリスクと、辿られない代わりに『魔法権利』を使う為の気力体力を絞り出すリスク――クロは長く戦う為に、シロを助け出す為に前者を選んだ。
だが、シロは見つからない。
それどころか、敵とも遭遇しなくなった。蛻の殻だ。物音一つ聞こえない。放置され利用されていた筈の倉庫が、本来の静けさを取り戻している。元々AFの混乱に合わせて『魔法権利』で一角を封鎖して使っていた拠点だ。敵組織の関係者以外の往来など考えられない。倉庫の拠点化に必要な物資も、襲撃に使った武器の保管も、全ては人の消えた倉庫群で賄っていた。
「そういえば、壊れた小型発電機が幾つかあったな。重機もだ」
上空から侵入した紅緒と違い、地上から入り込んだクロは物陰に隠れる為に必然的に周辺環境を掴んでいた。どの方向にどういった建物があり、どの場所にどういう車が放置されているのか。慎重に進む合間を利用して、可能な限り頭に叩き込んでいた。
壊れた発電機も、他のがらくたと同じく捨てられていた。
「いや、待て。妙だ」
クロはケイジの言葉と自身の体験を掘り起こし、考察を始める。
発電機を用意すること自体は、不思議でもないのだ。AFに襲撃された直後でも発電所や主要な送電網は優先して軍が抑え守っていた。トラブル直後に停電し、作業員を派遣できずに復旧の目途は立たず――そんな事態が起こらないようにする為だ。当然ここも電気設備は生きているだろう。新たな発電機などなくても、発電所からの送電だけで十分に賄える。
だが送られてきた電気を使ってしまえば、その分の使用履歴は残る。電気は闇雲に流れてくる訳ではない。使えば送電元に伝わり、積荷もなく労働者もいない、無人の筈の倉庫で消費される一定量の電気を訝しむ者は出てくる。AFも動物も幽霊も、電気は使わない。使うのは人間だけだ。
クロが嗅ぎ取った違和感は、発電機の設置場所だ。
倉庫内の何処にもそれらしい場所は存在しなかった。定石通りならば全て見て回った一階か外に用意する。だがクロが見たのはほんの一角だが、外には発電機用の野外設備は見当たらなかった。綺麗に改装した内部を隠す為に古臭い外見を維持しているのだ。発電機を風曝し雨曝しという使い方は出来ない。万が一にも日本軍の偵察無人機に発見されたら、偽装も何もかも水泡に帰す。
「となると、やはり…………」
クロは慎重を捨て、自身の感覚と思考の正しさを証明する為に壁を全力で蹴り破る。トタンの薄壁はあっさりと破れ、白煙が流れ込む。完全に視界が奪われてしまうほどの量ではない。
「また地下か」
クロは一瞬だけ首を上げて空を見る。居るべき場所に紅緒はいない。獲物を見つけて飛んでいったのか、それとも撃ち落とされて地面に転がっているのかは分からない。
どちらにせよ、必要な時に頼りにならない奴だとクロは落胆する。
「地下……、地下だな……」
数秒。外に満ちた白煙が倉庫内部に入り込み、相対的に濃度が薄まるとクロは躊躇わずに三階の高さから飛び降りた。
滑らかな着地を終えたクロは、相手に気付かれることも厭わずに走り出す。その挙動からは一切の無駄が省かれ、どこまでも自然に、ロックした標的に向かって突き進むミサイルのように高所から発見した標的目掛けて最短距離で進んでいた。
標的の居場所は倉庫より海寄りのマンホール、そこが地上への出口らしい。
右手に肉厚のサバイバルナイフを握り、左手の消音機付の拳銃で相手に狙いを付けている。
敵がクロに気付くのと、クロが立ち止まり引き金を引くのは同時であった。
拳銃が吐き出した二発の鉛の塊は、振り向いた男の腹部に連続して命中する。防弾ベストは着けてはいたが振り向き際、正面から受けられなかった所為で十全の効果を発揮しない。
「きゃあああああああああああ!!!」
腸と大量の血液を撒き散らして倒れた仲間を見て、クロの標的――男たちの護衛対象が悲鳴を上げる。甲高い叫び声はとても耳障りで、途轍もない不快感に駆られた。
クロは苛立ちを募らせた。
「うるさいぞ」
故に、狙いを変えて少女を撃った。
気の抜けた消音機付の発砲音より早く、クロの狙いに気付いた護衛の一人が少女に覆い被さり銃弾を受ける。クロは構わずに男の背中に銃弾を撃ち込んでいく。ビチャ、ビチャと肉を打つ音が数回続いた後に拳銃は弾切れになり、男の命も掻き消えた。
マンホールから地上に這い出たばかりの相手に奇襲を仕掛けたクロは、詰将棋のような執拗さで畳みかけていく。
地上に残っているのは死体に抱き着かれた異国の少女と護衛が一人、マンホールから小銃と顔を出している護衛が一人。この場にいる敵は残り三人のみと判断したクロは、弾切れの拳銃を相手に向けて投げ、『加速』させた動きで相手の射線から逃れる。
クロの残影に向けて、制圧射撃が始まる。
護衛の二人は投げつけた拳銃程度では怯まない。
「くそっ!」
だが、射線が重なるとなれば話は別だ。
少女は、相手の組織にしてみれば絶対に失ってはならない権利者であるとのクロが立てた推察は、護衛の一人が命を以てクロに証明してみせた。よく訓練された身辺警護が雇い主を庇うように、少女に付けられた護衛の一人は命に代えてでも少女を守り通した。
なら少女を盾に攻め立てれば良い。
クロに対して牽制と守護を行えば、必ず相手の行動は鈍る。一瞬でも呆然自失の少女と射線を重ねれば、少なくともマンホールの護衛は満足に動けなくなる。撃って少女に当たりでもしたら、仲間の死が無駄になるのだ。
そうなれば取れる手段は最早なく、後は勝手に死地に飛び込んできてくれる。
「ジョゼ、お嬢を退かせろ!」
マンホールの男が叫び、ジョゼと呼ばれた護衛が応える。両手で小銃の狙いを付けていたジョゼが片手のみに持ち替えて、弾幕を維持しながら少女に手を伸ばす。
お嬢――アンヘルは自分の命を守った死体を押し退け、ジョゼの元に駆けてゆく。
「お嬢、こちらに!」
「ジョゼ! ジョ――――ッ!!」
一握りの希望に縋るアンヘルのすぐ横を回転する銀の刃が通り過ぎ、ジョゼの右目に突き刺さる。頭がびくんと跳ねる。引き金に指を掛けたまま、ナイフの勢いに負けて後ろに倒れて動かなくなる。
ジョゼの体が消えたことで、アンヘルと最後の護衛の目線が重なる。お互い瞼が痙攣する程に目を見開いていた。
「残念だったな」
アンヘルは簡単に殺された仲間を見て。
護衛の男はアンヘルの背後に立っているクロを見て。
唖然とするマンホールの護衛に、クロは拾った小銃の銃弾を浴びせる。肩までしか出ていない護衛は隠れる間もなく銃弾の雨に撃たれ、そのままマンフォールに落下していく。カカカカッと手足が梯子に引っ掛かる小気味よい音が聞こえ、それを打ち消す打肉音を最後に倉庫群に静寂が戻る。
「さて」
クロは護衛の右目に突き刺さったナイフを抜くと、態々少女の服で血を綺麗に拭う。
「シロがどこにいるか知らないか、アンヘルお嬢さん?」
クロは呆然自失の少女の肩を強く握り、無理矢理現実に引き戻す。アンヘルの目の前には血塗れのクロが、鈍く光るナイフと自分の肩を握り佇んでいる。次の瞬間にはナイフが腹部に突き立てられるかもしれないと想像したアンヘルは、無意識に歯が噛み合わず涙が止めどなく溢れてくる程に恐怖を感じてしまう。
アンヘルは、とても質問に答えられる状態でなかった。
クロは目の前で震える少女を見兼ねて、ナイフをケースに収める。
そして少女の頬を平手で打つ。涙が飛び散り、短い悲鳴が零れる。酷い絵面だとは理解していたが、それでもクロは構わず詰め寄り、若干語気を強めて同じ問い掛けを投げる。
「シロは何処にいる? お前たちが攫った女だ。白い髪に白い肌、綺麗で若い女だ」
クロの気迫に押されたアンヘルは、口をがくがくと震わせて声を出せずにいた。アンヘルはクロが満足出来るだけの答えを持っていた。答えは持っていたが、その答えが言葉にならなかった。
クロの手の平が再び頬を打つ。
「言葉が通じないフリか? 俺が日本人でお前が外国人だから、喋らなければ言語の違いに問題があると思わせることが出来ると思ったのか? ニキから聞いた。ここまでの道すがら実践もしてきた。誰がどんな言語を口にしても、その言葉に意味が込められているなら相手に伝わる。統一された言語、あの長耳と会話する為の秘策。それもお前たちの差し金だ! 違うか?!」
「私……知らな……」
「いや、黙れ。今のは蛇足だ。どうでもいい。俺が知りたいのは、シロの居場所だけだ。答えろ。お前たちが上って来たマンホール、その奥に誰が残っていた? 白い女、シロはいたか? 答えろ!!」
「たぶ……博士と……」
博士、とアンヘルは口にした。それは『剥離』の権利者が言っていた変態博士――シロを操り人形に変え、慰み者にしてしまう権利者。
「そいつが、まだ地下にいるのか」
「で、出てきてないから……多分」
地下がどうなっているのかは想像出来ない。この華奢な少女を揺すっても、落とす情報は嵩が知れている。きっと説明の要領も悪く、構うだけ苛立ちが募るに違いない。そこに無駄な労力を費やすくらいなら、自分の直感を頼りに地下を彷徨った方がマシだ。
クロは空を見上げて、紅緒を探す。
標的の一人を大した抵抗もなく捕えることが出来たのに、その維持が出来ない。引き連れてシロを探すのは避けたい。敵方が危害を加えないと分かっている以上、守りながら戦う必要はない。だが子供――それも見るからに快活とは言えない愚鈍な少女を連れ歩くと致命的に足が遅くなる。地下が入り組み、そこで逃げられでもしたら本末転倒だ。余程のことが無い限り、シロに辿り着くまでは離すつもりはない。シロを取り返せなければ、今までの行動と激痛が全て無駄になる。
紅緒が居れば少女を預け、敵に奪還されない適当な場所に放置することも出来た。
だが、紅緒はいない。紅緒を待つ時間もない。今現在シロがどのような状況に置かれているかは察している。急がなければならないと思う反面、急いでも無駄なのではないかという不安にも襲われる。
「待てッ!!」
そしてマンホールに飛び込む時間も、今尽きた。
「…………」
最早アンヘルは気にしてはいられない。地下への入り口であるマンホールを挟んで反対側に、武闘家然とした男が現れたからだ。相手は今すぐ飛び掛かろうとせんばかりに怒りを張り詰め、それでもこちらの様子を窺っている。銃火器で武装はしていないが、それ以上に纏う雰囲気が今までの相手とは違う。紅緒が空に居ないのも理解がいった。返り討ちにされたのだ。権利者である奴に。
「来い」
クロの幸運は、アンヘルを手元に置いていたことである。嫌がるアンヘルの首根っこを掴まえ、空いた手にナイフをギラつかせ、人質を取った銀行強盗のような足取りで相手から距離を取る。
「ズィルバー! 助けて、ズィルバー!」
少女の悲痛の声に、ズィルバーと呼ばれた男は唇を噛む。少女に付けた護衛を一人で始末出来る手練れが、ナイフを片手に少女を人質に取っている。迂闊に動けば大切な少女に危害が、――けれど動かなければ取り戻せない。そんなジレンマから抜け出せずにいた。
クロもクロで、対処に悩んでいた。
あの場所に立たれては地下に降りられない。アンヘルを餌にマンホールから引き離してみたが、そこから先に続かない。まずアンヘルは絶対に手放してはいけない。今は交渉もしない。彼女の命は生命線だ。ここで相手に渡ったら自分に対する攻撃に一切の躊躇がなくなるだろうし、万が一に殺してしまったら、きっと自滅も厭わずに戦いを挑んでくる。今の自分のように、あの男もそんな目をしている。
紅緒を討てる程の手練れだ。
カーマインと之江を仕留めたのも、この男に違いない。
あの男――ズィルバーとの戦いを避ける方法は幾つか頭に浮かんでいた。戦闘を巧みに回避して地下に降りる算段もついた。アンヘルのお蔭で取れる選択肢は多い。後は最後に、良心の箍を外すだけだ。
「それ以上近づくな」
クロはズィルバーから、そしてマンホールから離れながらそう告げる。
「アンヘルを離せ! その子に罪はない」
「断る」
「金でも何でも、可能な限り条件は飲む。だから――――」
「多くを望むな。交渉出来る相手だと思っているのか? すぐに殺さないだけでも、お前は俺に感謝しなければならない程だ。感謝の言葉が分からないのか? なら首元に刃を突き付けられたアンヘルに言わせてやろうか?」
「……っ!!」
クロは自身の抱える弱みを理解していた。弱み――即ちシロが未だに相手の手中にあるということを知られると、アンヘルを手に入れたことで得たアドバンテージが全て無駄になる。クロがアンヘルの首根っこを掴まえているように、相手にシロを引き摺り出して非道を行う機会を与えてはならない。人質交換――など言えば聞こえがいいが、現物が見えていない交換の約束ほど当てにならない物もない。シロが交換の弾にされる可能性がある以上、迂闊なことは伝えてはならない。余計な危険は排除するべきだ。
今この場に、対等な取引など必要ない。
有利なのはこちらだ。無理を吹っ掛ける権利も、無理を押し通した後に約束を反故にする権利も、持っているのはこちらだけだ。
「きっとお前も、俺たちを誤解している」
まずは嘘を吐く。
「餞別に教えてやる、正体を」
「正体……、あんた、日本人だろ。日本軍じゃないのか?」
「日本人なら全員軍人か? サムライニンジャカミカゼの時代じゃない。現代はもっと多様性に溢れ、雑多な戦場にどんな化け物が潜んでいるか分からない。軍が貴重な権利者を敵集団の中に送り込むと思うか? 誤解はそこだ。俺と紅緒は、軍人じゃない」
「あの少女も……ならば、何者だ?」
紅緒の名前を出した瞬間、ズィルバーが苦い顔をする。相当手古摺ったに違いないが、今この場所に立っているのはズィルバーで、紅緒はいない。つまりはそういうことなのだろう。
「『捕食者』だ。権利者を抱える集団同士のいざこざを横合いから殴り付けて、弱った権利者弱い権利者全部纏めて掻っ攫い、『魔法権利』を奪い取る、そんな組織の一員だ。抵抗出来ない女子供の『魔法権利』を犯した後に無理矢理奪うのが大好きなサド野郎もいる。日本軍側は俺たちの姿を見て、早々に撤収した。賢明だ。無知で愚かなお前たちと違って」
当然『捕食者』なんて組織は存在しない。だがクロの出任せは、ズィルバーの顔色を変えるには充分であった。顔を青く赤く変え、それでも頭を抑えられて動けない悔しさに震えていた。目的や組織ははったりでも、クロが相手のお姫様を握っている事実だけは揺るがないのだ。
「そ、そんな危険な輩の噂は聞いたことがない!」
「この光景を見て理解しろ。権利者以外はすべて殺し、権利者は連れ去って仲間と分配する。俺たちが去った荒らし場に、生者は残らない。口がなければ噂も広がらん」
「……っ」
何事にも節度は大事だ。追い込み過ぎて自棄になられては、逆に自分の首を絞めることになる。相手を脅し、煽り、妥協点を餌に釣り上げる。戦わずして相手の戦力を削ぐ――それがクロが定めた着地点だ。
クロはアンカー効果を最大限に利用する。予測や判断が難しい事態に遭遇した時に、初期値に判断が影響してしまう現象だ。
ここでズィルバーにとっての初期値はアンヘルがこちらの手にあることだ。その初期値から差し引きして――何を犠牲にすればアンヘルを取り戻せるのかを教えることで、
相手の判断を鈍らせ、より有利な条件を引き出すのだ。
「だが、俺も馬鹿じゃない。条件次第でこいつを返してもいい」
交渉の主導権は握らせない。似たような提案を投げ掛けられても、それが相手の言葉なら必ず否定する。川の流れのように、上下は覆らせてはならない。どちらが優位かを分からせるには、そういった繰り返しが一番効果的だ。
クロはナイフを左手に持ち替え、そのままアンヘルの首に回した左腕に力を籠める。その気になれば、より早くずっぱりと首筋に赤い線が引ける位置にナイフを移動させた。小さな唇から漏れた微かな悲鳴を聞き流し、笑みを浮かべて悪役に徹する。
これからの行いは外道にして非道、今まで培った倫理も良心もかなぐり捨てた果ての悪逆だ。耐えなければならない。シロの為に――シロを取り戻すという、自分の目的の為に。
「俺は臆病だ。……正直に言うが、俺はお前が始末した紅緒より格段に弱い。普通の兵隊相手ならまだしも、戦闘向きの権利者と対峙したら手も足も出ない。ただ、だからこそ手段は選ばず、負い目も感じず、こういう状況も作り出せる」
クロが臆病者で、紅緒より格段に弱いかどうか……その口にした事実は重要ではない。大切なのは相手を丸め込めるだけの根拠と信憑性だ。
「そこで、条件だ」
「あんたを逃がせ、か?」
「そうだが、それだけじゃ足りない」
クロは相手の言葉に間髪入れずに相槌を打ち、卑怯者に成り切ってつらつらと饒舌に続ける。シロと共に行動していた時には、『挑発』を手にする前は絶対に出来なかった口上だ。
「紅緒を倒せるお前と殺し合う気は更々ない。勝てないからな。だがこいつを手放した後で、怒り狂ったお前に追われるのはご免だ。……分かるか?」
クロは体の向きを変え、ズィルバーから見えないようにアンヘルを隠す。ズィルバーは知らないが、アンヘルはその言葉が嘘だと――クロの身体能力の高さを実際に目にして知っている。首筋に冷たい刃を押し当て、「喋るな」と暗に警告する。迂闊に喋られて、折角の謀略を棒に振りたくはないのだ。
「……つまり、どうしたい?」
「簡単だ。お前の足を寄越せ」
アンヘルを第一に行動していたズィルバーも、流石に怪訝な顔を浮かべる。
「……あんたを追跡する、その移動手段を全て無くせばいいのか?」
「お前は頭が悪いな。俺は"足を寄越せ"と言った」
クロの無理難題にズィルバー、そしてアンヘルまでも困惑する。
「ズィルバーの……、……足?」
交渉、冗談、ふざけた煽り――そうだと決めつけてアンヘルはクロを見上げる。
「こいつの首か、お前の足だ。選べ。太さは同じだ。貴重な選択権をくれてやる」
ゾッとするような冷たい瞳に、アンヘルは息を詰まらせる。その奥底の暗い色は、少し前、シロは何処だと問い詰めていた時とよく似ていた。あの時のような必死さはないが、冗談を言う時の目ではない。
「…………アンヘルに傷をつけてみろ。俺は」
ズィルバーの言葉を、一発の銃声が遮る。
「俺は、地の果てまででも追って、あんたを殺す。全身全霊で、あんたの存在をこの地上から消し去る。だが今は――――」
クロの右腕に握られた予備の拳銃から硝煙が立ち昇る。銃弾はズィルバーのすぐ傍に着弾し、それは確かなクロの銃の腕前を示していた。
「俺の足を、くれてやる」
そしてズィルバーはクロの拳銃を睨み、怯まず言い切った。




