Ⅵ-6
一機の輸送ヘリが爆音をばら撒きながら、目的地の上空を通り過ぎる。乾燥した空気の中でヘリのローターに煽られ、落ち葉枯葉砂埃が高々と舞い上がる。
「近くにAFの反応はないです。ここで降ろしても大丈夫」
輸送ヘリの最奥で、軍服姿の女性が静かに告げる。人混みを見渡せば必ず似た人相が見つかると友人にからかわれる程に特徴のない妙齢の女性だ。唯一、纏う雰囲気だけは格別で、どこまでも暗く深く沈み、軍服がそれを一層際立たせる。
そんな女性の声に壮年の隊長が応え、部下に命令を下す。
「よし、降下開始! 急げ、急げ!」
次々と懸垂降下で消えていく新しい同僚たちを眺めながら、女性は何か突飛なアクシデントでヘリが落ち、自分を含めた全員が死んでしまわないかと期待する。
生まれは鹿児島。冴えないが優しい夫と幼くやんちゃな息子と娘、話の分かる義両親に自分を含めた六人暮らし。これといって変わったことが起きない日常に、家族の笑顔と健康が生活に充実感を与えていた。
幸せな日々と最愛の家族――――それが、一度に奪われた。
灰色の化物が街に沸く数日前から、彼女は些細な違和感に気付いていた。足元に流れる泥水のような視線。それが日増しに足首から膝へ、膝から腰へと包んでいく奇妙な感覚。当時は誰にも信じて貰えず、今では頼りにされる感知能力も、家族を救うことに関しては何の役にも立たなかった。夫は勤めに出たまま帰ってこず、息子たちは学校でAFに襲われて骨すら残っていない。辛うじて生き残った義理の父母は二人仲良く首を括った。他人である彼女一人だけを残して。
彼女は自死を選べなかった。しかし愛する家族を奪ったAFに復讐する勇気も、彼女は持ち合わせていなかった。戦えるかどうかは別として、戦場に出て、家族を基調としたAFに出会う可能性があると考えるだけで吐き気が込み上げてくる。かといって自分たちを守ってくれなかった軍を責めることも出来なかった。軍は軍で多くの負傷者戦死者行方不明者を出していた。発生から二ヶ月と少しで千人超の死傷者、地上部隊の展開を可能な限り抑えても、これだけの人間が死んでいる。死ねばいいと心の中で願うものの、キャンプで本物の戦死者を目にすると心が締め付けられる。
「それでは特務、私も行ってきます。新たな気配を感じ取ったなら、すぐさま連絡を」
最後の一人が残った彼女にそう告げると、返答も待たずに朝日を背に受けて降りて行った。朝早くに叩き起こされた彼女に与えられた任務は、今まで手が出せなかった地区に侵入して標的を確保することだ。先行して標的を発見無力化した部隊があると聞かされてはいたが、どの程度の規模かは分からない。この一帯のAF全てを始末したのか、それとも近場の数体だけか。彼らを追ってAFも移動しているのかすら聞かされていない。どちらにせよ、周囲にAFの気配がないのは確かであった。
これなら突飛なアクシデントに見舞われて不慮の事故で死ぬこともなさそうだと彼女は胸を撫で下ろして、同時に落胆する。
「乗れ! 乗れ、急いで収容しろ!」
ヘリが土煙を上げながら接地すると後部ハッチから今し方飛び降りた男たちが戻ってくる。仲間の頭数はそのままで、血塗れの男をヘリに連れ込む。今回の標的――特定二級保護対象の男の顔は、粗く削った岩に赤いペンキを塗りたくったような様相であった。
その酷い有様に顔を顰める彼女に対し、隊長の少尉が小声で確認を取る。
「特務、奴の中にAFは潜んでいませんか?」
「反応はありません。部隊の皆からも、そこの彼からも」
「なら、結構です。奴も隊員も無事でしたか……」
少尉は額の汗を拭いながら息を吐く。たったの数分の作戦行動、けれど彼らは皆憔悴し切っていた。それは度重なる出動で溜まった疲労の所為だけではない。もっと何か、別の要素があるように感じられた。
ヘリは既に現場から離れ、後は基地に帰投するだけだ。今更知っても意味はないと分かってはいたが、彼女は尋ねる。
「……下で、何かあったのですか?」
彼女の声は、狭いヘリの中に朗らかに響く。勇猛果敢に飛び降りて標的を確保してきた六人の兵隊は、その一声に過敏に反応するも、はっきりと応えることはなかった。「バラバラ死体が……」や「あれは人間業じゃない」、「辺り一面灰色が……」など、各々が下の光景を思い出しては肩を震わせていた。
何が? 誰が? どうやって?
その疑問に答えられる人間は唯一人、気絶し拘束された男だけであった。
ダダダッ! ダダダッ! と紅緒の抱えた軽機関銃が地表に向かって掃射を行う。縦横無尽に飛び回る戦闘ヘリより小回りが利き、更にはヘリより小さく対空兵器が意味を成さない紅緒を前に、迎撃に打って出た戦闘員が次々と倒れていく。
空薬莢が悲鳴の代わりとばかりにアスファルトに跳ねて甲高い音を上げる。弾が切れると銃を捨てて沈み、撃ち殺した相手の銃を拾い上げて再び舞い上がる。
早朝の寂れた倉庫街で始まった一対多数の銃撃戦は、空という圧倒的なアドバンテージを握った紅緒に有利に進んでいた。基本的なスペックが違い過ぎるのだと気付かされた相手は迎撃を止め撤退に向けて動き出した。そんな相手の背中にも、紅緒は容赦なく銃弾を浴びせていく。
装甲車に乗り込んだ男たちも、紅緒は逃しはしない。防弾装甲に防弾ガラス――装甲は貫けないが、防弾ガラスはそう何発もの弾丸を防げるものではない。真正面で相手の驚く顔を眺めながら、その顔目掛けて何発も叩き込む。反射的にハンドルを切るも追走してフロントガラスが割れるまで撃ち続け、身を乗り出して迎撃する相手を一人ずつ確実に撃ち落としていく。その末路は操作を失った装甲車が壁に衝突して止まるか、乗員が運転手含めて撃ち殺されるかのどちらかしかない。
「どちらにせよ、トドメは刺せってご主人に言われているの」
三台目の装甲車は壁に衝突して煙を上げていた。そこから這い出てくる男の脳天を打ち抜き、紅緒は今一度車内に向かって銃弾をばら撒いた。
「一人たりとも生きては帰れないの」
紅緒は残弾の少なくなった小銃を捨て、這い出た男を足蹴にして車内に入り込む。そして新しい銃を見つけると、次の獲物を探しに飛び立った。
「それが怪物に追われる人間の末路なの」
紅緒が外を荒らす一方で、クロは各倉庫に籠った相手を念入りに潰していった。
紅緒がばら撒く派手な銃声と怒声、悲鳴に紛れるようにして内部に侵入すると、奪った消音機付の拳銃とナイフで強引に敵を無力化していく。敵を殺すごとに武装が増え、武装が増えるごとにクロの動きは多彩に、そして鋭くなる。
ナイフを一閃させるごとに鮮血が吹き出し、拳銃の引き金を引けば誰かが必ず崩れ落ちる。
診療所や街に人員を裂きすぎたのか、それともここが襲撃されることなどまるで考えていなかったのか、組織的な抵抗は驚くほど少ない。慌てて武装した眠気眼の敵が散発的な反撃な反撃を繰り返すだけであった。
「見つけた!」
そしてそれを繰り返すこと数度、クロはやっと敵の本陣に辿り着く。
紅緒を追う曳光弾の軌跡。紅緒はひらりと躱して反撃しているものの一向に止む気配がない機関銃の迎撃。ここに留まった相手とは異なる敵の気配。そして――――
「食肉加工会社のトラック……、アレだ。アレにシロが……」
クロの目が狂喜を帯びる。遥かロシアからローザの助力を得て日本に戻り、診療所では死に掛け、それでもここまで辿り着けた。
ついに! やっと! シロの元に!
今すぐそこに飛び込んで、シロを攫った奴らを皆殺しにしてやりたい衝動が湧き上がるが、寸前の所で抑え付ける。ここにはシロを攫った奴らがいて、シロを攫った奴らの中にはカーマインを半殺しに出来る程の手練れがいる。何のアドバンテージも持たずに遭遇するのは、『加速』を持つクロですら避けなければならない。
クロは消音機付の拳銃をナイフに持ち替えると、静かに、音を殺して紅緒を迎撃する連中の背後に忍び寄る。壁を背に土嚢を積んで機関銃を空に向かって乱射する男たちは爆音と飛び散る薬莢が跳ねる音に包み込まれてクロに気付かない。
気づいたのは、一人目の喉が掻き切られてからであった。
「なっ!」
「紅緒一人だと思ったか?」
『加速』と近接戦闘の合作――凄まじさは常軌を逸している。殴る蹴るの打撃は速度が乗ることで単純に威力が増し、ナイフは切れ味が増す。
さっくりと肉厚のサバイバルナイフに二人目の手首が関節を縫って切り飛ばされ、黄色い脂肪と白い軟骨を晒す。返しの刃で首を掻き斬られた仲間を見て、男たちは自身の置かれた状況の不味さを認識する。対物ライフルを手にした紅緒に頭上を抑えられたまま、新たな近接戦闘向きの権利者と対峙してしまったのだ。
一瞬の間――その硬直も三人目の上半分が紅緒の弾丸でミンチになったことで解除される。残った一人がクロのナイフを紙一重で躱しはしたが、背後に降り立った人影に不意を突かれ、殴り倒された。
「ご主人、おそーいのー!」
「俺が囮のお前より先に到達してどうする。それより、いたか?」
「どちらも全くなの」
「シロも、広域に作用する『魔法権利』の権利者も見つからず、か……」
「人が居そうな場所は大概潰したから、後はここくらいしかないの」
「俺も幾つかの倉庫内を見回ったが、ここで間違いなさそうだ。ああ、ここの奴らは日本軍の装備を接収している。制服に騙されるな。当初の予定通りに中は俺がやる。出てきた奴はシロ以外、余さず消せ」
「アイ・サーなの」
クロは紅緒に殴り倒された最後の男の首を煙草の吸殻を踏み潰す気軽さで踏み抜き、淡々と指示を出す。指示を受けた紅緒は颯爽と飛び上がり、早速物陰からこちらの様子を窺う斥候兵に大口径の銃弾を叩き込む。
「あ、そうそうそう、伝え忘れていたの」
倉庫の一角を、その先の相手含めてバラバラに打ち砕いた紅緒は軽く旋回しながらクロに無線先からの伝言を渡す。
「敵方に囚われた情報部の二人は、殺しても問題ないそうなの」
「…………なに?」
「橙堂少尉曰く、殺す気で掛からないと返り討ちに合うくらいには強い、らしいの。他の人たちも同意していたから、余程戦闘力に信頼を置かれていたみたいなの」
紅緒と無線先の情報部の面々からの忠告を聞いたクロは、反射的に脳裏に浮かんだ疑問をそのまま口に出す。
「権利者ではないのだろ、その二人は」
クロのその疑問に対して紅緒は当然とばかりに頷く。クロの頭上で海中を進むイルカの如く自在に飛び回りながら、「二人とも強化兵士なの」と簡潔に答える。
「それは聞いた。『魔法権利』を持っていないことも」
「お前さんは戦場に出たことはないから知らないだろうが、強化兵士は強いぜ。なんせ強化型の権利者を基にした肉体改造理論と強化兵装を圧縮して体内に詰め込んでいるんだからな。弱い筈がないぜ。……って渋い声の誰かが言ってるの」
紅緒はその渋い声を真似たつもりなのか、いつもとは違った声色で強化兵士の脅威をクロに教える。だが強化兵士の実物を見たことが無いクロは、言葉だけではその強さが掴めずにいた。強化型の権利者に近づけた肉体と強化兵装の機能性を兼ね備えた強化人間、強化型の権利者であり強化兵装を一蹴出来る自分。相手にして余裕の生まれる相手とは言えないが、それほど苦戦を強いられるとも思えなかった。
「私はご主人が負けるだなんて思ってないの。技術云々を抜きにして、身体能力だけを見るとご主人はピカイチなの。色々言ってる人たちも、きっと情報部の強化人間なの。同族を低く見られたくないだけなの。きっと普段はぴちぴちのタイツ着て、イーッ! イーッ! って叫んでる平の戦闘員なの」
「戦闘員……? なんだそれは」
「ショッカーなの。改造人間、憧れるの」
「……この間まで洗脳されたいたお前が、改造人間に憧れるのか」
「イーッ! イーッ!」
紅緒は無駄口を叩きながら、引き続き銃弾を敵の現れそうな随所に撃ち込んでいく。敵の気配が完全に引くと身を翻して大きな倉庫全体を俯瞰出来る高度まで上昇する。クロが飲み込まれるようにして倉庫内部に消えると同時に、紅緒は違和感に気付く。
「……ん?」
倉庫の外面にこれといった妙な箇所はない。けれど濃縮した気配が一本の線となって纏わりついている気がするのだ。今まで散々に撃ち散らかしただけあって、敵の姿形はまるで見えない。唯一姿を見せているのは紅緒が撃ち殺した死者たちだけだ。彼らなら自分を恨めし気に見つめてるのも当然だと紅緒は思いもしたが、この視線はもっと生気の籠った熱いモノだと確信がある。
紅緒は対物ライフルを構え、未だに見つからない視線を探す。
見つからない。いっそのこと無作為に穴を増やしてやろうかと紅緒は引き金に指を掛け、思い留まる。いくら大口径とはいえ、対物ライフルが撃ち出すのは大砲が撃ち出すような榴弾ではない。普通に弾丸なのだ。たったの数発――少なくとも紅緒の手持ちの弾を全て撃ち込んだとしても、倉庫が中の敵諸共倒壊することはない。
「あっ……」
だがそんな理由とは別に、紅緒は久方ぶりの敵を撃ち損なった。
「小賢しいの!」
紅緒の視界が捉えただけでも同時に三か所、窓や扉、物陰から手足が飛び出した。その手足は紅緒の銃弾が到達するより早くに姿を隠したが、しっかりとその成果は固い舗装路に転がされていた。スモークグレネードだ。軽く回転しながら白煙を撒き散らし、視界を白く染め上げている。
シュワシュワと立ち昇る煙を見て、紅緒は高度を上げる。
視界を奪われては打つ手がない。朝日に照らされた白煙の中で、無数の影が蠢いている。敵が動き出しているとは分かっていても、紅緒は撃てなかった。今は己の目ではっきりと捕捉し、敵の進路に回り込める状況でない。相手が足を止めるか射線と相手の進行方向が一直線上に重なるかでないと、紅緒の射撃の命中率は酷いのだ。弾数にも限界がある。対物ライフルは他の機関銃に比べて装弾は比較的簡単であったが、大口径故に携行数に難がある。フルオートの機関銃のように弾を雨のように振り撒くことはしないにしても、撃てば当然残数は減っていく。じゃらじゃらと弾丸を詰め込んで膨らんだコートのポケットも、今は寂しくなっていた。
紅緒は白煙を見下ろしながら考える。
この倉庫群は海のすぐ傍にあるが、強烈な海風どころか今は微風すら吹いていない。倉庫のほぼすべてを包み込んだ白煙が晴れた時には、倉庫が綺麗さっぱり消えて無くなるのではないかとの不安すら湧き上がる。それを可能にする『魔法権利』がないとは言い切れないのだ。
この程度の白煙、近づいて翅を震わせれば難なく消し飛ばせる。人間ですらミンチに出来るのだ。どれだけ量が多かろうと、煙など倉庫の周りを二周するだけで全て振り払えるに違いない。
「出来ないことはないの。でも」
白煙を突っ切って、散弾が紅緒に襲い掛かる。そういった攻撃を予期していた紅緒はくるりと背を向けて四枚の翅で散弾を弾く。お返しとばかりに散弾銃の射手に向けて対物ライフルで撃ち込むが、薄いトタン屋根を貫く甲高い音しか返ってこない。
相手も撃った場所でジッとはしていない。視界を潰したメリットを活かす為に移動しているのだ。最先端のゴーグルを装着して、一方的に追い込む為に。
「近づいたら、きっと私が大嫌いな散弾でお出迎えなの」
紅緒が今いる高さは地上五十メートル、小銃や短機関銃でも十分に射程に収まる高さだ。当然散弾銃の射程にも収まってはいるが、弾丸の構造上距離が開けばその分威力も低下するので怖くはない。普通の人なら肉を抉られる散弾も、『羽化』で硬質化した紅緒の体表面を貫けない。甲殻が配置されていない柔らかい部分に当たれば別だが、そうでなければ精々子供に鉄パイプで殴られる程度の衝撃だ。
ジッと一点に留まり標的を探す紅緒に、牽制とばかりに散弾が襲い掛かる。
「いたっ!」
十数発の小さな鉛が紅緒に届く――より早く、五十口径のライフル弾が散弾銃ごと射手の上半身を消し飛ばす。残された下半身が力なく倒れ、ぐちゃりと湿った音が散弾に叩かれて痛む体に伝わる。
だが休んでいる暇は――――いや、体勢を立て直す猶予は与えない!
紅緒は急降下すると翅を震わせて白煙を散らす。この邪魔な白煙は、散らせる時に散らしておきたい。接近のリスクも、厄介な散弾銃を潰した今が最も低くなっているからだ。
「――――わっ!」
速度を緩めず、警戒を怠らずに低空飛行を試みた紅緒に容赦のない攻撃が襲い掛かる。銃ではない。手榴弾の類でもない。
大きな杭だ。
鋭利な先端の細い杭が、紅緒の進路目掛けて投げられた。紅緒は卓越した動体視力と反射神経により難なく手にしたライフルで杭を叩き落とした。しかし別方向――倉庫の二階部分の窓から飛び出した男の体当たりを喰らい、制御を失う。
二人纏めて錐揉みしながら墜ちていく。その最中、視界の隅に移ったそれを紅緒は慌てて受け止める。受け止めた男の腕の先では輝く銀の刃が、まさに紅緒の首筋に届かんとしていた。間一髪で受け止めはしたものの、男の反対の手には二本目のナイフが握られていた。反対側の手で受け止めることは出来ない。受け止めるには、お気に入りの対物ライフルを手放さなければならない。
紅緒は寸前の所で体を捩り、男の第二の刃は肩を掠る程度に収まった。
「鬱陶しいの!」
男の両腕は塞がっている。その事実に気付いた紅緒は、無理矢理に翅を震わせて姿勢を制御する。共に墜落の道程を辿っていた男の体は、急に空中で停止した紅緒から離れて孤独に大地に転がった。
元々落ちても死ぬような高さではなく、訓練も十分に積んでいた男は難なく受け身を取ることに成功して――追い打ちの踵で肋骨諸共肺を蹴り潰されて絶命する。
「いっちょあがり、なの……きゃっ!」
着地と追撃を同時に極めてから一歩二歩と助走を経て飛び立とうとした紅緒のか細い体は、真横から飛び出した人影のタックルを喰らい、結果飛び上がれずに押し倒される。完全に不意を打たれはしたが、それだけでは致命的なダメージに届いてはいなかった。今はまだ、ではあるが。
老練な警察官のように滑らかな動作で飛び掛かった男は、無理矢理紅緒を抑え込む。
「あんた、暴れ過ぎだ」
仰向けの紅緒の上に馬乗りになり、左手一本で上半身の動きを封じていた。上背はクロと同程度でクロとよく似た締まった筋肉を持つ相手――つまりかなりの体格差がある相手に抑え込まれた紅緒は、力ずくで脱出しようとするがピクリとも動かない。単純な力と力のぶつかり合いでは、どう考えてもこちらに勝機はないと分かる相手に押さえ込まれていた。
「まだまだ、暴れ足りないの」
「地獄で好きなだけ暴れてろ、アバズレめ」
この男は権利者だ。そう紅緒が認識した時には既に、男の右手に握られていた杭が紅緒目掛けて振り下ろされていた。
杭は焦げ茶色の瞳を突き刺し、眼窩からは鮮血が溢れ出す。
「そんな予定は、今の所ないの」
その筈だった。だが杭は紅緒の頭から寸分外れ、コンクリートの地面を穿つ。『羽化』を解いて翅と甲殻を消すと、硬い体表面を力ずくで抑え込んでいた男はバランスを崩して拘束が緩む。その僅かな隙を見逃さず、紅緒は男の体を突き飛ばしたのだ。受け身を取る男に対して、紅緒は対物ライフルを取り出して引き金を引く。反動に流されながら紅緒は相手の身のこなしに感心する。引き金を引く寸前の所で男は横に跳び弾丸を躱した。躱されることなど構わず、紅緒は引き金を引き続ける。
「うそっ、弾切れなの!?」
だが対物ライフルが吐き出した弾丸は最初の一発だけであった。対物ライフルの装弾数は最大でも一桁ではあるが、つい先ほど弾倉に弾を込めたばかりで、それから弾切れを起こす程に無駄撃ちもしていない。何かの間違いかとも思い、紅緒は続けざまに引き金を引くが弾丸はやはり飛び出さない。
「そんな物騒なもん、いつまでも持たせておく訳ないだろ」
「マガジンだけ抜き取ったの? ……綺麗な身なりで、随分と手癖が悪いの」
「出し入れできるあんたの背中の奴の方が、余程性質が悪い」
男は立ち上がり、服の砂埃を叩き落とす。そして何処からともなく一本の杭を取り出すと不敵に笑う。長さは以前に投擲された杭や今地面に突き刺さっている杭の倍近くある。杭は何もない場所から取り出された――少なくとも、袖から平然と取り出せる大きさではない。
杭が『魔法権利』によるものなのは、一目瞭然だ。
「ズィルバー・リーだ」
「ずぃる……、何なの?」
「俺の名前だ。死合う前に一応名乗っておこうと思ってな」
「律儀なの」
「性分だ」
紅緒は爪先でコンクリートに刺さった杭を小突きながらズィルバーを見定める。厄介な相手だ。ただの杭に見える足先のこれも、コンクリートを貫ける程度には頑強だ。コンクリートを貫けるならば、人体は言うまでもない。武闘家然とした装いも合わせて、あまり相手にはしたくない類の敵であった。少なくとも、正面切っての殴り合いでは勝ち目がないのは明らかだ。
「……隙を見て、逃げるしかないの」
けれど逃がしてくれる相手には、到底見えなかった。




