Ⅵ-3
事故現場を通り過ぎて五分、クロはそれなりの速度でバイクを走らせたが、もう一台の車の姿は見えない。生い茂る木々が視界の端から端まで余さず埋め尽くす。だが当然、車が見えないのは木々の所為ではない。
「いないの」
「逃げられたか?」
クロは目的地までの最短ルートを選んでいるだけで、一本道ではない。脇道や逃げ道は探せばいくらでもある。待ち伏せできる箇所も、また然りだ。
「私が飛んで探してくるの」
痺れを切らせた紅緒が後部座席から飛び上がり、クロはそれに合わせて速度を落とす。
紅緒の最高飛行速度は精々時速八十キロ、巡航速度に至っては時速六十キロを超えることはない。乗用車並みの速度で障害物も何もない空中を進めると思えば十分ではあるが、クロのバイクが相手では速さが足りない。そして先行しなければ偵察斥候は機能しないので、クロは速度を落とさざるを得ないのだ。
本当は一秒でも早くシロの元へ駆けつけたい。
その思いを抑えながら、クロはゆっくりと紅緒の後姿を追う。空は次第に白さを増して、非情で曖昧な夜と朝の境界が生まれる。少しでも油断すると、その光の中に埋もれた紅緒の姿を見失いそうになる。
長い一日だ。昨日のこの時間はローザを背負って満州の寒空を歩いていたのに、今は日本で元敵で現仲間の後姿を追っている。ローザとロシア人住宅街を歩いて、ピロシキをご馳走になって、ティムがニキの手掛かりを持ってきて、『相談屋』の病室を急襲して、廃棄された地下鉄路線で『相談屋』と戦って、ニキの力の一端に触れて、ローザとバイクで海を渡って、傷付いた之江とカーマインを見つけて、地下に潜って戦って、死に掛けて、助けられて、今はここにいる。
本当に長い一日だ。休む暇もない。
それでもあと少しでシロに会える。シロから離れた数日間、心休まる時は全くなかった。
溜まった疲労と心労がクロの瞼に圧力を掛ける。スポンジに染み込む水のように、休息を、休息を、とゆっくりクロを蝕んでいく。
「ご主人、前気を付けるのッ!!!」
そんなクロを、紅緒の大声が呼び戻す。
ハッと目を開いた直後に飛び込んできたのは、道路を塞ぐように倒れた一本の木だ。その切り口を見るに爆発物や鋸を使った形跡はなく、どうやら人間業ではない方法――『魔法権利』によって倒されたと考えるのが妥当であった。
紅緒が空から茂みの一角に向けて小銃を乱射する。
敵は姿をギリギリまで隠しておきたいからなのか応戦せず、草木を掻き分けて進む音だけがクロの耳まで届く。
バイクを止めるなら早い方がいい。いや、早い方がよかった。紅緒が叫んだ時点で無理矢理止めるべきであったのだ。――――もう遅い。ここで止めても敵の銃火は問題なく届く。止まったバイクは的でしかない。
故にクロはバイクを『加速』させた。
バイクは止めない。クロはバイクの前輪を持ち上げ、所謂ウィリー走行を行う。前輪から倒木に突っ込めば転倒は避けられないが、後輪だけなら話は別だ。速度が落ちて狙われるという危険性も、『加速』を使えば解消出来る。
倒木に近づくにつれて、茂みから通り雨のような弾丸がクロに降り注ぎ始める。
しかし速度を維持したままのウィリー走行は想定外らしく、敵の射線は追い付かない。幸運にもクロとバイクに被弾はない。倒木も無事に飛び越え、追ってくる敵の銃弾から隠れるようにして、クロはバイクを茂みに向かって突っ込ませた。
どうかバイクに流れ弾が当たりませんように。
クロはそう心の中で願い、突っ込む寸前でバイクから離脱する。そして木を足場に使い衝撃を殺して無事着地する。紅緒が攪乱してくれた甲斐あって、クロの周囲の弾幕は薄い。クロは一先ず『加速』を維持したまま倒木の陰に身を潜めて状況を読む。
敵の出方……ではなく紅緒の動きをクロは注視する。
紅緒の性格上、小銃を撃ち尽くすと次は素手で特攻するだろうとクロは踏んでいた。
「ご主人、マガジンってどうやって付け替えるの?」
けれどクロの真横に着地した紅緒は、唖然とするクロに構わず無邪気に尋ねる。
撃ち方は教えた。次の弾倉は渡した。けれど弾倉の替え方は、教えていなかった。
どうするべきか一瞬悩み、取り敢えず紅緒の手を引いて隣に座らせる。ちょうど紅緒が立っていた辺りに弾幕が集中するが、紅緒に焦る様子はない。弾倉の替え方を教えるにしても、教えずに素手で戦って来いと放り出すにしても、こうも弾幕を張られてからでは意味が薄い。
銃弾がジリジリと倒木を削る。クロは頭に積もった木屑を無造作に払い除ける。
「紅緒、敵は何人いた?」
「六人なの」
「俺がバイクで通り過ぎた際に見たのは五人だが、恐らく六人で間違いないな。そして今聞こえる銃声は四人分、こいつらが俺たちの頭を抑え付ける役割だ」
「道理で、当たらないのに無駄に撃ってくるの」
紅緒はクロの話を真剣な態度で聞き入る。推測より憶測に近い事柄なだけに、クロは少しだけ困惑しながら続ける。
「残り二人は権利者だ。少なくとも、片方は確実だ」
クロは自身の記憶からその部分を切り出しながら紅緒に伝える。
「服装は皆似た迷彩服だ。体型も飛び抜けた特徴はない。だが一人だけ、小銃を持たずに拳銃を向けた奴がいた。俺がバイクを森に突っ込む寸前で離脱しようとした奴だ。覚えているか?」
「あー……うん、そういえば居たの」
「奴は権利者と見て間違いない。あまりに敵の中で浮いている。小銃を使わずに拳銃を使うのは取り回しの問題もあるかもしれんが、撃てない可能性も充分に考えられる」
小銃の数が足りない可能性を、クロは端から切り捨てていた。もう一台のクロ間から回収して紅緒に手渡した小銃を、そして同じように車内に残された数丁の小銃を、足りていないのならばこちらのメンバーに渡している筈だ。
「ご主人、今は推察より指示が欲しいの」
物欲しそうな瞳を向ける紅緒に、クロは違和感を覚える。違和感を分かり易くかつ簡潔に表すなら、想像と現実の差異に慣れていないのだ。
クロの想像の中の紅緒――女王は自暴自棄になり、うらみつらみを全人類に無差別にぶつける少女。現代の若者に過激さと過激さを実現する力を備えた我儘な相手である。けれど現実の紅緒は素直を通り越して従順で、けれど主体性に乏しいかと問われれば、分かっていることの方が少ないので閉口せざるを得ない。自分に妙に従順であることしか、クロには分かっていないのだ。
それでも指示を出すのは吝かではない。
「ならば紅緒、向こうの林まで走れ。全速力で、振り向くな。奴らは精密な狙いを付けて撃っている訳ではない。運が悪ければ当たるが、お前なら大丈夫だ」
「分かったの」
紅緒は早速走り出そうと立ち上がるが、すぐに手を引かれて元の位置に収まる。
「待て、最後まで聞け。林に飛び込んで終わりな訳がないだろう。そこまで辿り着いたら、すぐに飛び上がれ。小銃は持っていけ」
「残弾がないの」
「弾倉の替え方を実践してやるから見て覚えろ。だが無理に撃たなくていい。お前は空中で一瞬だけ気を引き、――――後は、俺のやり方を見ていればいい」
それでも一応、クロは紅緒のマガジンを取り替えて小銃を手渡す。紅緒はジッとクロを見つめていたが、顔近くの着弾を皮切りに一目散に走り出した。銃火は紅緒の背中を追い、林に飛び込んだ後に途切れ、飛び上がってからは狙いと視線は空に向く。
その一瞬――紅緒に向けた銃を倒木から飛び出したクロに戻す一秒にも満たない時間で、『加速』したクロは概ねの距離を詰め終える。
「このっ!」
近場の一人――地面に二脚を立てて軽機関銃を扱っていた男が飛び起き、拳銃を抜いてクロに向ける。その一連の流れは鮮やかで、かなりの修練を積んだ末に習得した技能だということが対峙したクロにも伝わってきた。
だが、致命的に速さが足りない。
引き金を絞る指の動きに合わせて、クロは射線から一歩だけ横に逃げる。
男は三発目を撃った所でクロのナイフが首元に掠る。前の車から奪ったナイフだ。ぷつりと首筋を通り過ぎたナイフが肌を裂き、少し遅れて鮮血が噴き出す。男は回転しながら倒れ、辺りの幹と大地を真っ赤に染める人間スプレーに変わる。
クロが倒木から飛び出して、まだ十秒程度しか経っていない。
一人目を始末したクロは次を探す。
残り三人――それぞれが林の奥へ、別々の方向に逃げている。振り向いて牽制射撃すらして来ない。権利者との戦い方を弁えている。勝てない相手からは徹底的に逃げる。近距離戦を主体とするクロが苦手な戦法の一つだ。
悩む時間を『加速』で短縮出来るクロは、決断も早い。
三人の中で一番遠くへ逃げている相手を選んだクロは、『加速』を使って追いかける。僅か十数秒だが草木を掻き分けて先行する男は、自分が次の標的に選ばれたと知ると即座に反転して迎撃を始める。しかし明け方の視界の悪さと遮蔽物の多さから、迎撃は大した意味を成さない。
背後に回り込んだクロは喉を掻っ切り、二人目の人間スプレーが出来上がる。
三人目を探してクロは感覚を研ぎ澄ます。足音、息遣い――獲物の痕跡を嗅ぎ取る狼のように、ただ自分の感覚を信じて、直感に任せて進んでいく。
パキリ、と小枝を踏む音が聞こえる。
距離は近い。ほんの数メートルの距離、クロは敢て動かずに相手を待ち受ける。
「…………」
相手の動きが止まり、クロとの距離もピタリと一定で止まる。
気づかれたのか、とクロは勘繰るが即座に否定する。気付かれたのではなく、気付いていたのだ。相手は最初からクロがそこにいると知り、知っているからこそ接近を図った。キリキリと暗い森に染み渡る音と新鮮な木屑の臭いから、クロはそう判断した。
クロは体の動きを止め、ただ視線だけを動かす。
最初に思い浮かんだのは『魔法権利』――けれどそれ以上に警戒するべきは丈夫な鋼線の類を張られることだ。仮に蜘蛛の巣のように張り巡らされた鋼線の中に突っ込んだなら、クロの身体は心太のように簡単に切れてしまう。どれだけクロの感知能力が高かろうと、薄明りの中で髪の毛ほどの太さを判別することは出来ない。短時間でそれらを張り巡らせた可能性は限りなく低いが、それを可能にするだけのスペックを秘めた『魔法権利』も考慮に入れなければならない。
静寂を取り戻した森に、新鮮な木屑の香りが満ちる。
本来自然界ではあまり発生しない類の香りだ。人為的に木を倒した時に出る樹木の死臭――肌を刺す寒さに紛れて、新鮮な臭いがツンと鼻に突く。
「…………」
キリキリキリと何かを削る音が勢いを取り戻し、クロに確信を与える。やはりワイヤーの類ではない。道路を塞ぐように倒れた一本の木、その状況を作り上げた権利者が近づいているのだ。
一本の木が、ちょうどクロに向かって倒れてくる。
ガサガサと揺れる木の葉の先に、小銃を持っていない敵――クロが権利者であると推察した男が立っていた。パンパンッと拳銃が火を噴くが、狙いは雑でクロには当たらない。
クロはサッと後ろに飛び退いて倒木を躱すと、一目散に走り出す。
目指すは二人目の人間スプレー、そして奴の武装の小銃の確保だ。
クロの見立てでは、あの権利者は接近戦を得意としている発散型の権利者――それもクロや紅緒のように強化した身体能力を軸に戦うタイプではなく、三峰のように『魔法権利』の特性を軸に相手を圧倒するタイプの権利者だ。
小銃に辿り着いたクロはそれを拾い上げ、即座に身を翻す。
銃撃を――と、銃を向けたクロのすぐ手前に鉄線が迫る。木々を削り、薙ぎ倒しながら進む鉄線を銃身を盾にして止め、それも効果が薄いと見るやクロは手に入れたばかりの武器を惜しみなく捨てた。
「良く、防げたな!」
鉄線は撓り、数メートル離れた男の袖の内側に備えられた装置に巻き取られる。見ると周囲の木々は幹を削り倒され、戦うに足るだけの視界が作り出されていた。その強引な所業の所為もあって足場は酷く、舞い散った葉っぱと小枝で地表は覆われていた。
思わず手放した小銃の表面が軽く捲れる程度に止まっていることから、『拡散』のように誰彼構わず強力に作用する『魔法権利』ではないらしい。恐らく相手の硬度に依存しているのだ。
さもなければ防げていない。
いや、そう決めて動くのが一番現実的で、他に道はなかったのだ。
クロはスッと腰を落とし、最悪の足場でも即座に動ける体勢を維持する。
今クロにとって必要なのは、瞬時に距離を詰めて相手を打倒することでも鉄線の射程外に逃げることでもない。どちらも可能かと訊かれれば可能だが、どちらも捨て身の行動に近く、それを選ぶほど状況は切迫していない。
何より、その必要もないのだ。
この手の相手との相性は、そこまで悪くないとクロは知っていた。




