Ⅴ-7
壁に叩き付けられたクロは、何事もないように立ち上がる。
体を突き抜けた衝撃――底上げされても所詮女の拳、この程度だ。
クロはそう認識していた。チャイナドレスが使ったのは何の変哲もない当身だが、受けたのがクロでなければ――クロのように柔軟で強かな筋肉を持っていなければ、その一撃は肋骨を砕き肺を潰していた。
チャイナドレスは立ち上がったクロから距離を取る。反抗を嫌っての処置とも取れたが、彼女の素振りからその意図は見て取れない。
「私の拳は効く」
「…………?」
そして驚きも何も表さず、対峙するクロに言い放つ。
その言葉がどういった意図なのか、クロには分からなかった。現に彼女の拳を受けた自分は、何事もなく立ち上がっているのだから。
「私は武闘家。戦えない相手にトドメを刺すような、恥知らずな行いはしないね」
凛とした瞳が、そう告げる。
流石のクロも頭に血が上り口を開き、――――大量の血を吐き出した。
視界が揺れ、クロは立っていられずに膝を付く。顔をコンクリートの床に突き合せ、湧き上がってくる衝動をそのまま吐き出していく。ズキズキと胸が痛む。骨でも大胸筋でもなくもっと内部の方で、致命的な場所が軋んでいる。
「浸透勁って奴か……?」
太極拳か八極拳か何かは忘れたが、中国拳法でそんな攻撃方法があったとクロはぼんやりと思い出す。確か打点をずらして身体の内部に直接衝撃を伝える打法だ。そんな攻撃方法は有り得ない。小説の中だけだと思っていたクロの常識を、口から流れ出る赤黒い血の滝が塗り潰す。
「…………っ」
再びクロは血の塊を吐き出した。
血を流すのは、まだ大丈夫だ。所持している増血剤には十分な余裕がある。出血多量でショック死さえしなければ、水と薬で後から誤魔化せるのだ。
夥しい量の血が斜面を流れ、灰色のコンクリートを染め上げてチャイナドレスの裾を濡らす。けれどチャイナドレスの武闘家は微動だにせずクロの挙動を観察している。クロも負けじと睨み返す。よく見ると彼女の額には脂汗が浮かび、強く下唇を噛んで震えを抑えていた。彼女自身も片腕を砕かれている。当然、平気な顔は出来ないのだ。
ならば、そこに付け込むのが一番合理的だ。
「一つ……、訊かせてくれ」
クロは『加速』を治癒に当てながらゆっくりと立ち上がると、如何にも辛そうに装い問い掛ける。
「上の……、地上の診療所に寝ていた女性は何処だ……」
ハァハァと息を乱し、口の中に残した血液を新たに込み上げてきた塊の如く吐き出してみせる。本当は傷の大まかな位置が分かった段階で、治癒力を『加速』させている。強化型で底上げされた常人離れした治癒力に『加速』が加わり、体内を襲った衝撃の影響はその殆どが既に消え失せていた。
チャイナドレスは倒れる寸前のクロに情けを掛けるかのように、つらつらと喋り始めた。どの道、あの打撃を受けたら先は長くないと踏んでの判断だ。筋肉を鍛えて強固な鎧に仕立てることは誰にでも出来るが、内部を鍛えることは難しい。傷付いた体の内部が出すNOサインを抑え付けて戦うことが出来るのは、多くの訓練と実戦経験、負傷を重ねてきた熟練兵や達人のみに許される特権だ。
「ふん、冥土の土産に教えてやるね」
この青年がその域に達しているとは思えず、故に彼女は喋ってしまった。
「白い女なら、機械人間と合わせて変態が欲しがったね。人員は多めに用意していたし、ここに匿われている以上戦利品や交渉材料にも成り得るとの判断。慰み者にされるのか人体実験にされるのか、はたまた調教されて売り飛ばされるのかは知らないけど、師匠が苦い顔していたからには禄でもない末路ね。そう、彼女移送先は確か海を越えて――――」
そこまで口にして、場の空気がガラリと変わったことに気付く。
「欲しがった……?」
今にも死にそうだった男の瞳には炯々と深紅の闘志が漲り、緊張感が謎の歪みとして狭い通路を覆っていた。
ぬらりと立ち上がり――けれど感じるよりずっと早く速く動くクロに、チャイナドレスの女は思わず後退る。立ち昇る殺気と怒気の前には、武道家の誇りなど何の役にも立ちはしない。
「シロを、戦利品に……?」
一見緩慢に見える足運びで、クロはチャイナドレスに急接近する。クロの右手には銀の煌めき――鋏を分解、研磨したナイフの最後の一本が握られた。手段は選ばず、決して生かして返さない。その意志が具現化したかのように、クロのナイフは底知れぬ恐怖を纏っていた。
殺さなければ、殺される!!
チャイナドレスは声にならない絶叫を上げ、クロを迎え撃つ。
初撃の乱暴に薙ぎ払うクロの斬撃を、チャイナドレスは屈んで避ける。攻撃の予測はでき完璧なタイミングで避けたにも拘らず、逃げ遅れた髪の毛が数本宙を舞う。冷や汗すら許さない二撃目は、チャイナドレスの左肩に突き刺さる。慣性や反動を一切無視した動きで、クロは右手に握ったナイフを全力で振り下ろしたのだ。
ナイフは易々と骨まで達し、骨を介して激痛が全身に響く。
「碌でもない末路とは、何だ」
クロの言葉がナイフに乗って流れ、痛みが悪寒に変質する。
苦痛に身を捩りたくなる衝動を必死に抑え、チャイナドレスはクロを『浮遊』させる。けれど彼女が次の動作に移るより早く、クロの大きな手が目元に迫り、小柄な頭を鷲掴みにする。
クロは自身の状態など意にも介さず、ただチャイナドレスの蟀谷付近を万力のような力で締め付け続ける。握力百八十キロ超の、人間離れした怪力だ。
「ア、イ、イヤアアアアアアアアアアアアア!!!! 離してやめて痛いイタイ痛いイタイ痛いいいいいいいい!!!!」
ナイフで刺される以上の激痛が頭蓋を破って直接脳に伝わる。死んだ方がマシ――けれど死を選ぶより先に、彼女の手はチャイナドレスのスリットに伸びる。
ダンッ!
彼女は武闘家としての矜持と誇りを捨て、生き残ることを選んだ。
銃身を切り詰めた護身用の小さな拳銃――最初の弾丸がクロの腹部にめり込む。そしてクロの力が緩むと同時に二発、三発と至近距離で打ち込んでいく。装填された計五発全てを吐き出し終えると、その拳銃すら尻餅を付いたクロに投げつける。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
腹部に五発の弾丸を喰らって尚、クロは立ち上がろうとする。
チャイナドレスには既に当初の戦意や自信の悉くを失い、正面の狂った耐久力の男から逃れる方法を模索していた。けれど安易に動き出せもしない。逃げようと背を向けた瞬間、その大きな手が自身の首に伸ばされるかもしれない。そんな恐怖がチャイナドレスを襲っているのだ。
だがクロはぐらりとよろめき、倒れる。
「待……て……」
クロは右手で腹部を押さえ、膝を付き前に――チャイナドレスへと手を伸ばす。
狭い通路にクロの荒い息とくちゅくちゅと何かを掻き混ぜる音が響き――金属の何かがコンクリートを跳ね斜面を転がる。チャイナドレスは自身の足元に転がって来たその何かを拾い上げ、短い悲鳴と共にすぐさま投げ捨てた。
弾丸――クロは腹部に残った弾丸を指で穿り、取り出していた。
チャイナドレスは今まで自信を包んでいた恐怖に突き動かされ、背を向けて走り出した。悪寒――混濁しながらも戦う為の処置を止めないクロに、チャイナドレスは付き合っていられなくなったのだ。
チャイナドレスは両腕の痛みも、血で滑る足元も気にせず、全力で走った。
仲間と合流したら、自分一人でなければ、手負いの化け物の対処も可能だと信じて……。
寒い。
クロは逃げ去るチャイナドレスを目で追いながら、冷える自らを感じていた。
喉が渇く。
腹に刺さった三つ目の異物を取り出し、血に濡れた自分の手を舐めるが、鉄の味が広がるだけで何の気休めにもならない。舐めて取り込む水分より、出ていく水分の方が何倍もあるのだから。
痛い。辛い。
クロは壁に縋って何とか立ち上がる。医者に与えたモルヒネを使えば、取り敢えず痛みは消し去れる。
膝が震える。腹が減った。横になって休みたい。
部屋に辿り着いたクロが目にしたのは、散弾銃に吹き飛ばされたスチール机が暴れた室内と、それを喰らって動かなくなった医者であった。けれどその手元にあるモルヒネの無事に気付き、医者に使った注射針で自分にも撃ち込む。
痛みは消えず、視界は揺れ続ける。
クロは毒や麻酔を捻じ伏せる自らの耐性を呪った。ブドウ糖の類を求めて薬品棚を眺めるが、霞む視界がその邪魔をする。ここであるかも分からない物品を探し続けたら、そのまま倒れて瞼の裏を探すことになりそうだ。そう思ったクロは仕方なく部屋を出て、強靭な生命力と冷たい壁を頼りにチャイナドレスを追う。
カロリーが足りない。
一歩進む度に弾痕が血を吐き出す。目に飛び込む光が邪魔になり目を閉じ、足と手を動かすことだけに意識を集中させる。辛うじて体に残った二発の弾丸も抉り出せたが傷は塞がらず、そもそも『加速』を使えるだけの体力が残ってなかった。
薄らとした意識で、明確な死を覚悟する。
虚ろな意識で歩いた数分は、まるで砂漠を彷徨う数時間に相当した。今になってチャイナドレスの浸透勁の傷が肺の奥で熱を持ち、円滑な呼吸の邪魔をする。貴重なカロリーが、痛みの生み出す熱に奪われていく。
走馬灯すら現れない。
クロは遂に膝を付く。気力だけで動かした体が密やかに限界を超えたのだ。
「シロ、すまない」
短くそう漏らすとクロは倒れ、傾斜を転がり、そして――――




