Ⅴ-6
地下階層はそれ程広くはない。
五メートルごとに現れる曲がり角、緩やかな傾斜、時折遭遇する部屋のようなスペースと分かれ道――それ程広くない? 冗談ではない! 同じ長さの通路と等間隔で配置された電灯は空間把握能力を捻じ曲げようとする設計者の意図が透けて見える。
抜け道や近道、別の入り口が存在していたのかもしれない。
クロはそれが思いつかなかった自身の迂闊さを呪った。軍秘蔵の研究所兼牢獄の入り口が、あんな手近で分かり易い位置にあるとは考え難い。偽の入り口を用意して、敢て敵に時間を掛けさせる。ケイジから診療所の襲撃を知らされたのが約二時間前――そして現在でも敵が残っている時点で、その可能性は考えるべきであった。
クロは足を速め、先を急ぐ。
足音の反響からは判断出来ない。突然袋小路に突き当たる可能性もある。引き返せない。幾つもの分かれ道を直感で進んだ結果、自身の現在地すら掴めなくなっている。
いや、入り口に戻るだけなら感覚を研ぎ澄ませばいい。
つい数分前にクロが作り出した大量の血を流す死体――その血の臭いを追えばいい。
「…………」
だがクロの感覚は、それとは別の何かを嗅ぎ取る。血の臭い――それに混ざった生臭い何か、身に覚えのある生臭さだが、どうにも場にそぐわない。軋む音――金属ではない、革製品のようなモノで縛られた何かが揺れている。
クロは男から奪ったナイフを片手に、慎重に進む。
角を曲がるごとに空気が淀み、臭いが濃くなり、いつの間にか微かな息遣いも追加される。接敵も考慮にいれてはいるが、敵の気配はない。大声で誰がいるのか問い質したい衝動に襲われるが、クロはぐっとそれを飲み込み次の角を曲がる。
新たな通路――今までの通路と違い幅は広く、長さもある。
「…………」
何より小さな部屋の入り口が、何の脈絡もなく地下迷宮に取り残されていた。
『加速』を使い、即応体制を維持したままクロは踏み込む。一切の躊躇いはない。仮に罠であるのなら、それを感知してからでも対処は間に合う。
「――――ッ!」
だが目の前に広がる光景は、クロにとって受け入れがたいモノであった。
まず飛び込んできたのは女の死体――目を見開いたまま額から血を流して絶命しているが、それ以上に破れた衣服に目が行く。滑らかな肌には青痣や掴まれた手形が――性的な乱暴された形跡が体の随所に残り、必死に抵抗したのか手首は逆方向に折れ曲がっている。見覚えある顔、確かシロの世話をしていた診療所の看護師の一人だ。首に掛けられた軍属を示すドックタグが、濁った瞳のすぐ傍の涙が流れた跡が、彼女の無念を語っていた。
クロは思わず鼻を覆う。
血の臭いに合わせて、他人の精液の臭いが漂っている。栗の花のような生臭さだ。誰が最初にそう表現したのかは分からないが、そんな不快なモノを微塵も体に取り込みたくはなかった。
悪い想像が『加速』していく。呼吸が速くなり、次第に制御が利かなくなる。
過呼吸で霞んだ思考に、いつかテレビで見た、戦場を渡り歩いたと自称するジャーナリストの声が響く。したり顔で、気に食わない声で喋っている。
「戦場で逃げ遅れた女性が凌辱されるなど、日常茶飯事ですよ」
頭の中で「黙れ!」と叫び、ジャーナリストを蹴散らそうとする。
「珍しくもありません。戦場ですから」
ジャーナリストの映像を目にした当時のクロは、これから自分が立つ戦場とこれらの映像は無縁だと思っていた。自分の敵はAFで、AFは人間を喰らい、生きたまま身体を侵していくが、――――こんな風に犯したりはしない。
クロは鼻を覆っていた自分の手に噛みつき、無理矢理呼吸を整える。
そして呼吸が落ち着くと看護師の瞼を降ろし、涙の跡を拭う。乱暴された体を隠す布がないかと室内を見渡すと、そこで初めてクロはもう一人の存在に気付く。
「あんたは、確か……」
部屋の隅で動けない白衣の男――現在の診療所の主である医者が、無言でクロに助けを求めていた。口元はビニールテープで覆われて声を出すことを許されず、両腕は換気口にロープでしっかりと結ばれていた。その顔には性的ではない暴行を受けた青痣――そして乾いた涙の跡が、この小部屋で起こった凶事を鮮明に伝える。
クロはブービートラップの類を警戒しながら、慎重に医者の拘束を解く。ロープを切り、口元のビニールテープを剥ぐ。仕掛けらしきモノはない。
クロは衰弱した医者を座らせ、問い掛ける。
「ここで何があった? 敵の数は? 目的は?」
だが返答の代わりに吐き出されたのは口に溜まった夥しい量の血と、床を跳ねる十を超える数の小さな塊――歯だ。苦痛に顔を歪めながらも必死に酸素を取り込もうとする医者の下顎には、白い歯が一本たりとも残されていなかった。よく見ると両手の指も全て折られて紫に変色し、爪も剥がされていた。
「ほうもん……れひゅ……」
拷問を受けた――それは見れば分かるが、クロは何も言わずに続きを促す。
「かすは……わかりまへん……、もくへきは、…………」
目に涙を溜めながらも、医者はクロに可能な限り情報を伝えようとする。
「目的は……?」
「ほんな、へす……。ほうほくしへいる、ほんな……」
拘束している女――クロは必死に思いを巡らせるが、どうにも確信が持てない。二ヶ月もの長い期間クロは地上の診療所にいたが、誰が地下に居てどういった理由で拘束されているかなどまるで興味が沸かなかった。その時はシロしか見えていなかったし、今もシロの手掛かりが最優先だ。ここの敵も、その為に追っている。
医者は震えた手でクロを掴み、懇願する。
「もるひね……、わたひに……」
戸棚に並べられたある薬品を折れた指で指差し、痛みを和らげるモルヒネを求めた。
クロは立ち上がり、言われた通りにモルヒネを探しながら現状を整理する。
この医者が拷問されて何を喋ったのかは分からない。けれど敵がこの場にいないのならば、目的となる情報は聞き出せたと考えて間違いない。軍が地下で拘束している女――その存在がシロではないのは確かだ。断言出来る。
敵は相当数の人員を用意している。ケイジさん曰く、本来こちらの警備に回せる筈の兵力を市街地に釘付けに出来るだけの戦力、カーマインと之江を封殺出来る程の手練れの権利者を用意出来る巨大な組織だ。当然役割は分担しているだろうし、今追っている敵が果たして他のグループの詳細を知らされているのかどうかも分からない。
クロは医者にモルヒネを注射する。
「ジッとしていろ」
ジッとしていられずに動いた結果、シロはクロの手を離れ、遠く手の届かない所へ行ってしまった。そう決めつけるには早計であるが、青白い顔の医者と暗鬱な雰囲気がクロをネガティヴに導いていく。
医者は目を閉じ、ゆったりとした呼吸を続けていた。
痛みに耐えられずに気を失った医者を横目に、クロはスチール机に腰を下ろす。
クロは自身に医療の心得はない。効果的な拷問を行えるかと問われたら、まず首を横に振る。けれど知識としての拷問は、教養の一つとして備えている。真偽は兎も角、昔読んだ小説で拷問という行為がどういった効果を齎すのかは知っていた。
虜囚に行う長期間に渡る基本的な拷問、必要な情報だけを引き出す短期の拷問、命を奪う前提で痛めつける処刑としての拷問、生存を前提として対象に痛ましい傷跡を残す見せしめとしての拷問――今回施されたのは短期の拷問と見せしめの拷問、どちらも高い技術を要する方法だ。拷問の技術は勿論として、高い医療技術もだ。
嗜虐的な思考だけで務まる程、拷問の世界は甘くない。近世のとある国家では、医者が拷問官として任官した記録も残っている。人体の何処を痛めつければ効果的か。人体の何処を痛めつければギリギリで死に至らないか。それに詳しくなるには、やはり医療を学ぶ他ない。
そんな技術は、生半可な組織や国家が保有出来るモノではない。
やはり、個人が立ち向かうには大きすぎる相手が控えている。けれど仮に軍に入ったとして、それに対抗し得る組織の一員になったとして、――――彼らはシロを追うことを許してくれるのだろうか?
無理だ。価値観がそぐわない相手とは上手くいかない。
ここを襲撃した連中も同じだ。先程出くわし殺した二人の片方は、劣等民族とクロを蔑んだ。その思考が根底にあるからこそ、奴らはこういった拷問も行える。自分も同じだ。究極的には知人以外の人間なんぞ血と肉の詰まった案山子とそう変わらない。故に、敵対する相手の柔らかな首筋へとナイフを突き立てることに一切の抵抗がない。
クロはそう自分に言い聞かせて立ち上がり、スチール机に手を掛ける。
警戒――敵の到来を知っているが故の行動だ。
「…………」
足音――ショットガンのポインピング――部屋の入り口に、敵が現れる。
銃身を切り詰めた散弾銃による攻撃を、クロはスチール机を放り投げることで防御する。散弾はスチール机を凹ませ吹き飛ばすが、多くの散弾は跳弾へと変わり使用者に襲い掛かった。強化兵装を身に着けていたが、散弾の跳弾は男の肉体を抉る。
「糞野郎がっ!」
それでも果敢に次弾の装填を済ませた男は、室内を制圧しようと再び散弾銃の銃口を向ける。
だが散弾銃が散弾を吐き出すより早く、距離を詰めたクロは左腕で横合いから銃身を殴りつける。逸らされた銃身は通路に控えた男の仲間へと向き、吐き出された散弾は薄い強化兵装の装甲諸共その仲間の足を吹き飛ばす。
「っ、ぎゃああああああああああ!! 足が、俺の足が――――ッ!!」
「この!!」
そして悪態を吐かせる間も与えず、男の首の側面に右腕に握ったナイフを突き立てる。流れるような一連の動作に感服――ではなく、頸椎を貫かれたことにより男は白目を剥き身体をのけ反らせて絶命する。
そして二人の男が冷たいコンクリートに倒れるより早く、弾丸のような拳がクロに襲い掛かる。
「――――ッ!」
迫る直撃の未来から、『加速』したクロは逃げ切った。
男たちの犠牲の影から現れたのは、十代半ば、少女と言っても差し支えがない小柄な女であった。東洋人だ。肩口で切り揃えられたサラサラな黒髪に無骨な強化兵装と一転して鮮やかな色合いをした丈の長いワンピース――いや、踏み込んだ足が出ていることからチャイナドレスの類――を着込んでいる。この場には似つかわしくない装いだ。
けれどその評価は、チャイナドレスの女の凛とした瞳が否定する。
漆黒の瞳は凛と澄み切って、それを囲む二重と切れ長の目と固く結ばれた口元が端整な顔立ちをより鋭く冷たい印象へと変えている。そして何より重要なのが
「――ッ、権利者か!」
彼女の目元に浮かんだ一本の線――『魔法権利』を扱う者に現れる印だ。
弾丸のような――という表現に違わず、彼女の拳は速く鋭い。けれど『加速』を発現させているクロは間一髪で体を捩らせ、それを避けていく。狭い通路だ。チャイナドレスの拳はクロに充分な距離を取ることも反撃することも許さずに連続して繰り出される。
敵は強化型の『魔法権利』を持っている。
それはクロの動きに追随していることから推測出来る。しかしナイフを取り出す暇もなければ、防御からカウンターを仕掛けることも出来ずにいた。投げ技絞め技を仕掛けるには通路があまりにも狭く、そもそも近接戦闘を挑める『魔法権利』を持つ権利者相手に迂闊に手は出せない。素手で接近戦を挑むということは、三峰やローザのように掠れば致命傷――そんな恐ろしい『魔法権利』を行使する相手かもしれないからだ。
しかし、そう悠長に避け続けてもいられない。
チャイナドレスの連撃が続く中、傾斜を昇りながら避けるクロの背中には、無情にも壁という現実が迫っていた。壁との接触まで残り二歩――そこを捌き切れれば、後は曲がり角を盾にして背を向けて逃げ去ることも出来るだろう。チャイナドレスの拳は確かに速くて力強いが、それは無造作な暴力ではなく型に嵌った武道だ。急激な変化に対して十全な対応は出来ないだろう。
いや――、とクロは逃げ腰を振り払う。
逃げる為に自分は地下に潜ったのか?
「違う!!」
そして横薙ぎにするチャイナドレスの攻撃に、クロは足を合わせる。この低く鋭い蹴りは、クロが得意とする攻撃方法の一つだ。クロの最初の反撃は、相手の死角を突いた右ローキック――放ったが最後、相手に回避を許さない必殺の攻撃だ。
「くっ!」
だがチャイナドレスは急遽攻撃の軌道を変え、攻撃に使っていない手でクロの足を受ける。不幸にも通路は傾斜で、クロはその上側に位置していた。通常なら大腿部から膝辺りに突き刺さる筈の蹴りを、彼女は左腕で受け止めた。
衝撃を殺し――それでも耐え切れずに手首付近が歪に曲がる。
そして、クロの身体から自由が消える。足が宙を蹴る。クロの身体は何故か浮いていた。
「なっ!」
「――――たぁっ!!」
チャイナドレスは強く踏み込むと、慣れない『浮遊』に戸惑うクロの鳩尾に右肩を使って当身を叩き込む。渾身の一撃――クロに防ぐ手段はない。
「――――ガァッ!」
受け身も取れなければ足も地上と別れたままだ。衝撃の逃げ道も用意出来ず、クロは壁に叩き付けられた。
アメリカンスナイパー見てきました緊迫感が凄かったです
戦争に対する主人公の思考や仲間との相違などが個人的に良かったです
ブラッドリークーパーを見たのもアライグマ(声)以来でした
好きな俳優なんで頑張ってほしいです




