Ⅴ-4
診療所に掛けられた時計の短針は四の字を指し、来客など居る筈のない時間帯にも拘わらず駐車場付近には二台のバンが残っていた。タイヤの跡はもっと多く、足跡は最早数えきれる量ではない。
そして残されているのは、二台のバンと多数の痕跡だけではない。
「これは、日本軍の……」
「恐らく市街地の襲撃者制圧部隊から派遣された別働隊だ」
駐車場から診療所までの短い間には、吐き気を催す光景が残されていた。
診療所の襲撃者と戦闘になったのは、バラバラに引き裂かれた人体から推測するに二個分隊――完全武装の約二十人の日本軍だ。応戦した痕跡もあるが、大した抵抗も許されないまま蹂躙されている。
「360度、周囲は全て森林で隠れる場所は豊富にある。そして唯一の穴はこの診療所の付近だけだ。そしてこれほど拓けた場所で狙撃されたら打つ手がない」
「更に今もまだ、敵は狙撃手を潜ませていた」
「ああ、診療所に敵の残党が残っている可能性は十分にある」
クロがローザを残して先行したのは、悟られないように狙撃手を潰す為であった。
診療所から三百と二百の距離に二人ずつ、ギリースーツを着込んだ狙撃兵と観測兵の計四人が絶えず診療所周辺の警戒を続けていた。クロはその背後から音もなく忍び寄り、断末魔をあげることすら許さずに仕留めた。
「森の中にギリースーツを着た狙撃手がいるとは分かっていた。だが正確な位置を知ることが出来たのはローザのおかげだ」
「熱探知機と同じ。新しい力の獲得は、新しい感覚の目覚め。当然取れる選択の幅も広がる。それより私たちは狙撃手と一緒に連絡要員の観測兵も潰した。相手に気付かれ、迎撃態勢を取られる前にこの建物を制圧した方がいい」
「ああ」
「建物の間取りは?」
「詳しくは分からんが、一階には診療室と給湯室、二階には入院患者用の病室があった筈だ。それと地下階層への出入り口も存在する」
クロは静かに喋りながら診療所内部に踏み込む。
「そうだ、地下だ。幼い頃、爺さんに連れられて何度か尋ねた記憶がある」
「地下?」
「今現在ここは軍の施設だが、昔は――……」
一見すると古びた町医者の居城に、何故地下階層が必要なのか分からずにローザは首を捻る。クロは町医者時代と主が消えた後に軍が引き取った現在――どちらを説明しようか考え、自らが詳しく知る町医者時代を話す。
「俺はこの街――詳しくはここと同じく街の外れの外れ、中心街の住人がまず目を向けないような辺鄙な場所の生まれだ。十五年前、黒田の家に引き取られるまでここらの森をまるで我が家のように駆け回った覚えがある」
「その当時、ここは普通の町医者?」
「ああ」
元々この診療所は、市街地の大病院に勤めていた医者が老後の楽しみとして建てたモノだ。医者の家族は孫二人――息子夫婦は既にこの世を去り、孫も立派に独り立ちした。余生を楽しむ為の第一歩として、老医者は地下室を作ったのだ。
曽祖父から又聞きした情報をクロは思い出しながら口にすると、ローザは眉を顰め首を捻る。
「ちょっと待って。楽しみと地下室が繋がらない」
「地下室は男の浪漫だ。……まあ、そんな酔狂な老人が作った仕掛けに軍が改良を加えた秘匿性の高い施設だ。襲撃者は出入り口の捜索に手間取ったに違いない」
クロの言葉を裏付けするように診療所内部は荒らされていた。医薬品の収められていた棚は倒され、何もかもが元の場所から動かされていた。
「でも、見つかった」
地下階層への出入り口は破られていた。二階へと続く階段の裏側にぽっかりと暗い穴が開いている。ローザは地下から聞こえるかすかな物音に心惹かれるが、クロは地下へと続く空洞を一瞥するに留め、後ろ髪引かれることなく二階に続く方の階段を目指す。
不安がクロを駆り立てるが、ローザの前では平静を保つ。
この診療所にはシロだけでなく、之江も居るとジャック医師は伝言を残した。カーマインもシロの傍を離れることはない筈だ。シロもシロで昏睡状態から回復している。二人と一匹なら、用意周到な襲撃者を撃退するまではいかなくても、この場から離脱程度なら難なく行える。
きっとそうだ。
二階が静かなのは離脱して人ひとり残っていないからだ。診療所全体に微かな血の臭いが漂っているのは、襲撃の際に返り討ちにしたからだ。
大丈夫、大丈夫だ。
シロは無事だ。シロは生きている。シロは俺を待っている!
俺が、俺は行かないと――――!
「クロ、私が踏み込む?」
ポンとクロの背中に優しく手が添えられる。ローザの手が赤ん坊をあやす母のようにトントンと、クロを現実に引き戻す。
「いや、…………」
そこで初めて、クロは身体が汗でぐっしょりと濡れていることに気付く。呼吸は浅く、『加速』を使っていないにも拘らず心臓の鼓動は速く大きく刻んでいる。
緊張と恐怖が形になって表れていた。
「なら、一緒に?」
人の気配はないのは分かっていた。けれど治まる兆しのない胸騒ぎは、シロが、之江が、カーマインが、無事に逃げ果せたとは思えない直感が警鐘を鳴らし続けているからだ。
「いや、俺が行く」
病室内部がどんな惨状に見舞われていても、いつかは対面しなければならないのだ。罠が仕掛けられている可能性まで考慮するなら、尚更自分の都合で連れてきてしまったローザを矢面に立たせる訳にもいかない。
クロは意を決してドアを開く。
スライド式の扉は大した抵抗もなく横に滑り、廊下の随所に備え付けられた緑の非常灯が薄暗い病室を顕わにする。
暗い――けれど全く見えない暗さではない。
「罠はないが、……大声は上げるな」
クロは病室前で待機していたローザを招き入れる。大声を上げるな――と忠告しただけあり、内部は凄惨な様相を呈していた。
まず目に飛び込んだのは黒紫髪の少女と大きな鳥――壁にはその一人と一羽が折り重なるように磔にされ、床には夥しい量の血が流れていた。手のひら大の数本の杭に貫かれた一人と一羽はその場で息絶えていた。呼吸もなく体も冷え切り、死亡してそれなりの時間が経過しているようであった。
「シロがいない」
けれどクロは躊躇いなく血の池に足を踏み入れると、力強くその杭を抜き放つ。
「ローザ、『氷結』で止血してくれ。カーマイン……鳥の方には必要ない。女の子の方の止血だ」
まるで生者を扱うようにクロは一人と一羽の杭から解放する。クロは少女と鳥をシロの寝ていたベッドに寝かせる。ローザは一応クロの指示通りに少女の傷を塞ごうと手を伸ばし、――――そして気付く。
「カーマインの『偽装』だ。之江は兎も角、カーマインはあの程度では死なない。――そうだろう、カーマイン?」
磔にされていた時には感じ取ることが出来なかった呼吸や体温が、寝かされた少女からは感じられた。重症には変わりがないが、少女はしぶとく生きている。
「そんな目で見るでない、クロ。確かにワシは遅れを取ったが、それは二人を生かす為の最善手を打ったからこそ。シロは連れ去られ、ワシと之江ちゃんは初撃で半殺し。それだけ敵方が強かった」
カーマインと呼ばれた猛禽類は人間と何ら変わりがない流暢な言葉で、クロと会話を始める。身体の随所に開けられた大穴は見る見るうちに塞がり、立派な羽をばたつかせながら釈明を続ける。
「そんなに強敵だったのか?」
「外ならまだしも狭い室内、ワシは存分に戦えん。護衛の二人も一瞬だったぞ。不意を狙おうと『偽装』を使ったが、まあ敵の『魔法権利』が宿った杭に串刺しにされ、そのまま振り払えずにあの様よ」
「串刺しにする『魔法権利』?」
「そうだ。恐らく刺されたら自力で抜けんのだろう。少なくとも、ワシの力では抜け出せんかった」
そこまで言うとカーマインは申し訳なさそうに項垂れる。
「すまん、クロ。ワシが付いていながら……」
「俺がシロの傍を離れたのも原因の一つだ、気にするな。シロは俺が取り戻す」
そう言いはしたが、ここを襲った連中が何処にシロを連れ去ったかのクロには見当もつかない。ただ、手掛かりは残っている。まだ、地下で蠢いている。
「カーマイン、之江とローザを乗せて病院に行ってくれ」
クロは反発を受けることを覚悟で提案する。だがローザはジッと押し黙ったままクロを見つめるだけである。既に慣れた遣り取り――ローザが無言の時は、相応の理由を要求しているのだ。
「之江の傷は深い。敵のいる場所に置いておく訳にはいかない。強化型の『魔法権利』を持っていても回復力には限界がある。適切な治療を受けるべきだ」
「…………」
「カーマインがいればこの場からの離脱は容易い。だがカーマインは人間ではない。喋れたとしても、鳥は鳥だ。仮に深夜の救急に辿り着いたとして、担当者が鳥の説明を受けるかどうか、俺には分からん」
「一理ある」
之江の容態は一刻を争う程のモノではないが、時間が経てばそれだけ命に係わってくる。その付き添うの為に連れ出すという選択は、理に適ってはいるが
「けれどクロ、私には方便にも思える。クロ一人で戦う為の」
ローザは目を伏せ、まるで怯えるようにして尋ねる。
「……そんなに私が邪魔?」
クロは苦い顔で言葉を詰まらせる。ローザの指摘は的を射ていた。確かにクロは之江の身を案じる心を、ローザを遠ざける口実に使った。何と言われようと、ローザが隣にいると困るのも確かなのだ。敵を追う自分の姿を――シロを追う必死な姿を、これ以上ローザには見られたくないと思ってしまったからだ。
シロ以外の評価など、一顧だにしなかった自分が?
そう自問した時には、既に口は動き始めていた。
「ああ。大人しく、俺の帰りを待っていてくれ」
非難を浴びる覚悟を決めて、クロは言い切った。
「俺を信じてくれ」
「そう」
けれどローザは激怒も失望もせず、悲しそうな顔で淡々と受け入れる。カーマインも驚きを浮かべているが口出しはしてこない。クロは二人の――特にローザの静けさに、少しだけ不安になる。ローザはもっと軍人の合理的な基準で物事の判断を行うとクロは思っていたのに、感情を優先させる女性的な行動理念でクロの願いを受け入れたのだ。
「私は何処で待てばいい?」
ローザは之江を担ぎ上げると、棒立ちのクロに手渡す。
「……この近辺に俺の生家がある。今は誰も住んでいないが、義父が定期的に人を寄越して管理をしている。場所はカーマインが知っている。聞いてくれ」
「了解」
病室を出て、冷たく暗い廊下を先行するローザの後姿をクロは追う。カーマインは狭い廊下で羽搏くことを嫌い窓から飛び出したが、二人は見えない地表に飛び降りる無謀さは持ち合わせていない。
「本来なら、――――」
何より時間が必要であった。尋ねる為の、伝える為の時間が。
「ああ、その前にこれは私の問題で、軍属でないクロに強要するつもりはない。クロ。本来なら、軍人は敵の数も装備も分からない場所に友軍を残して離脱はしない。私を残して民間人が去るなら兎も角、私を離脱させる提案に乗ってはならない。国籍や戦闘能力云々は関係ない。それが軍人として私が教わった最初の軍規」
一切の足音を立てずに歩く二人――廊下には、ローザの独白だけが響く。
「けれどクロは、そんな理屈で納得しないと私は推測した。きっと梃子でも動かない。ならば私が折れるしかない。そう思った」
「すまない」
「更に加えるなら今の私は軍属でも軍務に就いていない。ただのローザで、クロとは個人的な関係。そして私は年上、年下の恋人の我儘は――――」
「まだ候補、返事はこの件が片付いてからだ」
「分かって口にした。冗談みたいなもの。ええと、兎に角、私はクロが無事に帰ってくればそれでいい」
いつの間にか二人は診療所の玄関に辿り着く。外ではカーマインが退屈そうに待っていた。その巨大な爪先にはクロの始末した狙撃手と観測兵の計四人が掴まれ、ギリギリと身体を絞られていた。
「遅いぞ」
カーマインが溜息を吐き、一人が血を吐き出す。
狙撃手と観測兵には息がある。殺した筈なのに。
「クロ、何かが妙」
「確かに俺は首を捻った。折れた感触もあった」
だが、現実に四人の兵士は呻き声を上げ骨を軋ませていた。一人が地面を引っ掻き抜け出すが、その頭はカーマインに啄まれて消える。その首をペッと吐き出すと、「AFの方がまだ旨い」と何の得にもならない比較を口にする。
「早く乗らんか、灰色の」
殺した筈の兵士よりも、ローザにはカーマインの縮尺が変わっていたことに驚いていた。その爪は四人の成人男性を一纏めに掴み、その嘴は人間の頭より大きい。室内では満足に戦えない――その言葉を納得させるだけの巨体が、暗闇に鎮座していた。
ローザは恐る恐る近づくと、カーマインの羽毛に顔を埋める。
「……もふもふ、コートにしたい」
さらりと漏れ出したローザの本音に、カーマインは底知れぬ恐怖を抱き残った三人の兵士を離して、文字取りに身を縮める。
「クロ、こやつ、ワシを狙っておる!」
「冗談」
「微塵も笑えぬわ!」
目を光らせたローザから逃げるようにカーマインはクロの肩に止まり、拘束が解かれた三人の兵士もまた、よろよろと立ち上がる。そして息絶え絶えにも拘わらず拳銃を抜き
「ぎゃあああああああああ!!! あ、あああ…………」
「始末するなら、途中で投げ出さないで」
ローザの『熱線』に焼かれ、息絶える。
「クロ、こいつらはきっとアレ」
手元に集まった熱を冷たい吐息で吹き飛ばし、ローザは続ける。
「バルカン半島を騒がせた権利者の仕業。循環系の破壊が――簡潔に言えば出血多量が一番効く……というよりは骨折火傷といった出血を伴わない傷には滅法強い。強化型の身体能力と治癒力を大多数に与える厄介な『魔法権利』」
「……知り合いなのか?」
「面識はない。でも今はとても有名人。大迷惑な権利者で、『氷結』を持つ私”が”天敵らしい。でも、当人が極東まで来る筈ない。まだいるとしても、きっとこいつらみたいな中途半端だけ」
ローザはクロの頬に冷たい唇を押し付け、カーマインの背中に飛び乗る。
「それじゃクロ、頑張って。応援してる」
マエストロ!見てきました
松坂桃李って、真面目な役やっても何故か軽く見えちゃう不思議




