Ⅳ-5
今すぐ電話したい衝動に駆られたクロだったが、ぐっと堪えて二つの暗視ゴーグルを手に先を急ぐ。
「…………」
暗視ゴーグルは掛けず、手にした携帯端末の明かりだけを頼りに進むクロは、最早前など見てはいなかった。苛立たしげに足を動かし、この場所に来たことを呪いながらも、意識だけは携帯端末から外れることはなかった。
「くそっ!」
この場所は、携帯端末の電波が届かない。通常の地下鉄路線では設置される中継器が開発途中で放置された為に設置されていないのだ。いや、灯りすらついていないのだ。設置はされているのかもしれないが、電力供給の問題で機能していないだけなのかもしれない。
どちらにせよ、シロの無事を確認できないことに変わりはない。
クロは携帯端末をコートに収め、暗視ゴーグルに切り替える。
地図に載っていない分かれ道を通り過ぎたクロは、慎重に辺りを見渡す。
ひんやりと冷たい空気中には火薬の臭いが充満し、壁には弾痕、床には空薬莢が散乱していた。人の気配は既に希薄になっていたが、人の姿――人の死体だけは戦闘の証拠としてしっかりと残されていた。
その死体がローザのモノでないと確認したクロは、更に足を速める。
ローザ・エゴーロフナ・セールイが十五歳で軍に入隊してから十一年。
数多くの戦友、相棒、敵対者が彼女と同じ戦場に立ち、無惨にその命を散らしていった。その他大勢が棺桶に飛び込み二度と抜け出せなくなっていったのと裏腹に、ローザは敵を味方を棺桶に叩き込み、どんな苛烈な戦場でも生き残ってきた。
「てめぇは世界に生かされてるんだな」
そんな皮肉を向けられたこともあったが、何もそんなことはない。
ローザが生き残ったのは、ただ強かったからだ。
もっともその強さは特定の条件が整いさえすれば無敵に近い『魔法権利』のおかげであり、そしてその条件を満たす為の道具は今から二十年も前には既に開発運用されていた。砂漠で、宇宙空間で、必要な水分を確保する為の薬品だ。
「最初の威勢はどこに?」
ローザはカツカツと軍用ブーツの踵を鳴らしながら、逃げるレイズィを追いかける。戦意を失った相手は逃がしても支障がない。にも拘わらず執拗に追いかけるのは、レイズィの『魔法権利』がかなり珍しい部類であるからだ。
『魔法権利』は大きく二つ、強化型と発散型に分類が可能である。それは『魔法権利』に触れる機会を持つ者にとっては周知の事実となっている。そして更に深く係わる者――『魔法権利』を少しでも解き明かそうと躍起になる学者の数は、増加の一途を辿っている。
彼らはそこから先を望んだ。
学者とは、古今東西問わずに分類せずにはいられない人種である。
そんな物好きたちに解剖された『魔法権利』の分類も、当然強化型と発散型の二つに留まらない。
他者や環境に直接的な影響を与える干渉系。
事象そのものを作り出す変質系。
肉体などを改変する変態系。
接触などの条件付けで発現させる接触系。
様々な未来の可能性を見通す未来視系
強化型と発散型が両手だとするなら、こういった系統は手の先に生えた指に相当する。型ありきの系統――けれどはっきりと二分出来る型分けと違い、系統分けは曖昧で難しい。それはクロに説明した際に、ローザも改めて認識させられた。
例えばクロの『加速』は干渉系に分類されるが、接触系の『魔法権利』としての性質も秘めている。ローザの『氷結』に至っては基盤は接触系であるが、変質系干渉系と三系統に渡った性質を秘めている。
故に系統分けに然したる意味はないと言う学者もいる。
だが系統分けを理解したら、相手の『魔法権利』の対処も、自身の『魔法権利』の扱いも格段にやり易くなるのだ。接触系が相手なら近づかずに戦い、変質系が相手なら不測の事態まで考慮に入れた戦い方を選択する。瞬時に見分ける力が身に付いているなら役にも立つが、経験を積みその領域に至るまでが長いのだ。
そしてローザは、戦い続けて十一年。経験だけなら誰よりも足りている。
レイズィの『具現』は発散型――系統は恐らく変質系と変態系のハイブリットだと推測した。ただでさえ珍しい変態系を発散型で発現している稀有な『魔法権利』だ。更にローザにしてみれば、相性的にも圧倒的優位を維持出来る相手である。後学の為、少しでもデータを持ち帰ろうとするのは、実験部隊に配属されてから最初に教えられたローザの役割でもあった。
「この、私を舐めないでッ!」
ローザの少し先を走っていたレイズィが振り向き、ローザに『具現』を差し向ける。二体の小熊――僅か数回の攻防で激しい消耗を強いられたレイズィの反撃の一手が、ローザに襲い掛かる。
だがローザは『具現』が攻撃範囲内に入り込むより早く手にしたアンプルを地面に叩き付ける。アンプルからはシュッと細かな粒子が飛び出し、忽ち膨大な水蒸気へと変わる。
広がった水蒸気は瞬時に氷の霧へと変わり『具現』を包み込む。地下鉄構内に充満した氷の霧を抜けた『具現』は既に『具現』としての形を残せないほどに傷付き、ローザに辿り着く前に崩れ落ちる。
「舐める舐めないは、力量差を埋めてから」
黒い残骸をローザは足で踏み躙り、氷の霧を引き連れたままレイズィに歩み寄る。
力量差という言葉をローザは使ったが問題は相性の良し悪しであり、はっきりと区切られた地下鉄構内は『氷結』の能力を引き出すには最適の環境であった。
『氷結』の潜在能力を引き出すために必要な条件は、冷気を逃がさない密閉空間と太陽光の排除、そして過剰ともいえる水分だ。この内の二つが揃っただけで『氷結』は凶悪な『魔法権利』へと変わり、三つが揃ったら並の権利者が束になっても勝ち目はない。
当然三つの条件が揃った現状、レイズィに太刀打ち出来る術など残されていない。
それでもレイズィは諦めず、『具現』を繰る。
砕かれた『具現』の残骸を回収しながら、新たに捻り出した『具現』によって三体の小さな蜘蛛――クマと比較したら小さいが、その実体は猫ほどもある巨大な蜘蛛を、ローザに嗾ける。
床を這い、壁を伝い、それぞれ狙いを外しながら蜘蛛はローザに襲い掛かる。
「投降を勧告する。アナタでは、私には勝てない」
けれど『具現』の蜘蛛は一匹たりとも『氷結』の霧を抜けることが出来ず、無惨に食い荒らされて消えてしまう。レイズィはぐっと歯噛みする。次の『具現』を出すどころではないのだ。何度も『具現』を撃ち破られたことで溢れる徒労感に襲われ、疲労に包まれた体を動かすことすら億劫になっていく。
「拘束と拘留はする。報酬の補填も出来ないが、命と精神の安全は保証する」
「…………」
「私はそこらの民兵や民警じゃない。大国の、こう見ても正規兵。約束は守る」
ローザは一定の距離を置き、『氷結』の霧を周囲にはべらせたまま、レイズィへと手を伸ばす。その瞳からは冷気にも似た戦意は消え失せており、いつもの無表情に戻っていた。
暖かみが戻ったローザ――といってもマイナスからゼロに戻っただけだが――を見て、レイズィはその場にへたり込む。
「もう嫌……、なんなのよ、もう!」
レイズィは不意に頬を濡らした涙に気付き慌てて目を押さえるが、涙は堰を切ったかのように止めどなく溢れて止まらなくなる。
クロとローザの二人と遭遇してから約一日、計三回もの戦闘を経て、レイズィが『相談屋』として培ってきた自信と経験は音を立てて――涙となって崩れ落ちてしまったのだ。
「権利者との戦いは、そういうもの。戦う時には相手を見極めないとダメ」
ローザは十代半ばの少女に年長者としての――先輩権利者としての助言を与える。
権利者同士の戦闘で――特にこういった小競り合いで大切なのは、相手を追い詰めすぎないことだとローザは知っていた。相性の悪さから戦うことの無意味さを叩き付け、相手に戦うことの無意味さを、戦わずに済む妥協点を示すのだ。
逆に妥協点が見つからない相手と遭遇したら、結末は必ず血みどろのモノへと集約してしまう。それが権利者同士の戦いである。
相手がどのような目的で動いているのか。
強さも大事だが、その見極めこそが生き残るコツである。
「…………『相談屋』の、……あなた、名前は?」
「レイズィ。私はレイズィ・レガホーン」
「ならレイズィ、少しの間だけ耳を閉じていた方がいい」
首を捻りながらもレイズィは言葉に従う。
「警戒はいらない。危害は加えない」
ローザはそうとだけ告げると冷気を滾らせて『氷結』の霧の密度を高め、自身とレイズィを包み込む。その数秒後、何の前触れもなく霧が震え始める。目を丸くするレイズィにローザは告げる。
「これは……」
「音を受け止めてる。誰かが罠に――音響地雷を踏んだ。追手が来る」
ローザは踏み込んできた人間が長春市警である可能性を即座に切り捨て、敵だと断定する。元々罠を仕掛けた長春市西部の地下鉄入り口付近は治安が悪く、たとえ通報があったとしても死体の一つや二つで市警察が即座に動くことはない。民警システムを採用する程に人手不足なら尚更だ。
「追手? 誰の追手?」
ローザはレイズィの手を取り、展開した『氷結』の霧から最低限だけ抜き取って走り出す。距離感の掴めない地下鉄構内での追走劇の結果、自分たちの立ち位置が音響地雷の音を受ける程に入り口に寄っていた事実に今まで気付けなかったのだ。
「恐らく、私たちに差し向けられた追手」
”私たち”とローザは口にしたが、この推測には全く自信が……いや、十中八九誤りだと分かって口にした。クロと行動を共にした二日間、ローザは薄らとある事実に気付き始めていた。
私たちではない。追手の狙いは、実はクロだけなのではないか?
クロの話を聞く限り、どうやらクロは自分と出会う前に『相談屋』の少女の片割れ――確か『呵責』という『魔法権利』を持つ少女に嵌められかけたらしい。それから喫茶店の襲撃、『相談屋』を使ったホテル襲撃、公園のチンピラたち、そして現在の地下鉄探査に仕向けられた『相談屋』と今現れた新手。自分は喫茶店の襲撃から行動を共にし始めただけで、喫茶店の襲撃も偶然のようなものだ。そう考えると、中心にいるのはクロ一人で、自分の合流は敵方にとっても予想外なのかもしれない。
どれもクロの『加速』なら、単独でも突破出来る。
自分と二人なら尚更簡単に。
それなのに敵方は、突破されるに決まっている追撃を仕掛けてくる。『確定』という貴重な未来視系の『魔法権利』まで投入している可能性があるにも拘わらず、だ。
そもそも敵方のニキを捕えるという目的は建前なのではないかと疑いたくなるほど、ニキと自分たちに差し向けた戦力にかなりの差が見て取れる。『相談屋』の権利者たちも、武装した民警やチンピラたちも、たった二人の人数に差し向けるには多く、殺すには少なく、抑えつけるには妥当とも思えた。
故にローザは足を速める。二人なら妥当でも、一人ならその負担は少しだけ辛い。
「早く、戻らないと」
この環境――地下鉄構内で『氷結』は無類の強さを誇るのは間違いない。だが銃を持った追手を何人も相手にして無事で済むとは思えない。なんせ一直線で見通しの良い地下鉄には、一切の遮蔽物がないのだ。
だがローザはそれ以上に背後から迫る車輪の音に身を竦ませる。
背後から迫り来るそれは、数十分かけて歩いた道のりを僅か数分に短縮してしまう。恐らく正規の地下鉄車両ではなく工具運搬用の小型車両、作業員の代わりに乗っている人員が誰なのかは、確かめるまでもない。
「最低でも、あの分かれ道まで」
懸命に足を進ませる。しかし当然、強化型の『魔法権利』を持たない二人では車輪の足から逃げきれはしない。




