Ⅳ-3
暗闇の中でクロは足を止め、語り掛けるように声を出す。
「覚えのある匂いだ……、出て来い。俺に不意打ちは効かない」
クロはちらりと後方に控える灯りを確認して、いつでもフォローに回れるように身構える。潜んでいる敵が顔馴染みの『相談屋』の誰かであることは、伝わる気配から間違いない。彼らはクロの身体の精強さと『魔法権利』の柔軟さを嫌という程理解している筈だ。
狙うならクロではなくローザだ。その方がより効果的で、成功率も高い。
だが待ち構えていた敵は、素直にクロの前に姿を現す。
「匂いで分かる? ……犬かよ、お前は」
言葉の主が暗闇から出てくるのに合わせて、周囲に灯りが点る。非常灯とも違う黄色い灯りは灰色のコンクリート舗装と、そこに立つ大きな人影を晒し出す。クロは突然現れた眩しさに、安心して目を細める。相手次第では致命的な隙にもなり得るが、堂々と姿を見せた相手は不意を打とうなど考えていないようであった。
「お前は……」
立っていたのは、燃えるような赤髪を持つ大きな女性であった。
初めは縮尺を疑いもしたが、目の前に立つ女性はクロよりも大きな体躯――それこそケイジにも劣らない程の身長を備え、その手には巨大で重そうな戦槌が握られていた。物々しい武器も、ただのこけおどしでないことは明白だ。
「俺が犬に見えるのか。頭だけじゃなくて、目も悪いのか? そんな武器を使うだけのことはあるな」
『挑発』を使わずにクロは相手を挑発するが、乱暴な武器とは裏腹に微動だにしない。
「そんな武器……、これのことか?」
大女は数十キロはある戦槌――下手したらローザと同じくらいの重量はあるかもしれない戦槌を、片手で軽々と頭上に掲げる。
「とてもいい! ……と、私は思うぞ」
そしてそれを何の躊躇いもなく振り下ろすと、灰色のコンクリートが砕け散る。
「人の体など粉微塵に出来るからなぁ! そうだろぉ、なぁっ!!」
大女はそう言うとクロに駆け寄り、振り下ろす。狭い地下鉄構内に車が激突した時のような爆音が鳴り響く。人体どころか乗用車すらダメに出来る威力を秘めていた。
「欠陥兵器だ」
「何をっ!」
「俺には当たらない。どんな威力があっても、掠らなければ飴細工を振り回すのと変わらない」
「言ってな!」
挑発に乗らなかった大女は平静と、重鈍な武器を縦横無尽に操り、勢いを全く緩めずにクロを攻める。
「遅い。遅いな」
「ちょこまかと!」
「ちょこまか? 蝿が止まるスピードだ。もっと気合入れて殴って来い」
ブンブンと狭い空間で動き回る戦槌をクロはいつもより身体一つ分だけ余裕を持って躱す。あの戦槌が直撃すれば、どんな筋肉に覆われていてもミンチになる。流石のクロの回復力を以てしても、ミンチにされては一溜りもない。
クロは冷静に回避を重ねつつ、相手を観察する。
相手の体躯は確かに大きいが筋骨隆々といった風体ではなく、どちらかといえば陸上競技のアスリートや男性向けファッション雑誌のモデルのようで、長身に引き締まった筋肉を纏っていた。クロと同じく、生身の身体だけで戦槌を振り回すのは筋力的に不可能に近く、強化型の『魔法権利』の補強を受けているに違いなかった。
いや――――、とクロは頭を振る。
大女は灯りが点いた時には既に目の下に『魔法権利』の印を浮かばせていた。『魔法権利』由来の剛力の可能性も十分に考えられる。
パッと見る限りでは、その判断は出来ない。
だが仮に彼女の『魔法権利』が十分な戦闘力を備えているのなら、質量と頑丈さだけが取り柄のような武器に頼る必要はない。もっと扱い易く殺傷能力の高い武器は幾らでもあり、『魔法権利』次第ではそれすら使う必要もない。
それでも何か理由が――――、とクロは考えていたが、頬のすぐ傍を通り過ぎた戦槌の風切音がその思考を薙ぎ払い、同時に苦い教訓を湧き上がらせる。
どれだけ考え備えても、未知の前では何の役にも立たない。
仮定も想定も対策も、全てが無駄とは言い切れない。けれど現状でそれらを行うにはあまりに情報が不足し、埋めるべき条件も多い。いや、寧ろパッと相手を一瞥しただけで全てが分かったのならば、それはゲームの世界と何ら変わりない。
クロはそう自分に言い聞かすと、果敢に攻める大女に初めて攻撃を加える。
薄暗い地下鉄構内、激しい両者の鬩ぎあいの最中に突如轟いた雷鳴によく似た打擲音。
「――――っぐぁ!」
たったの一撃でバランスを崩した大女は、よろけながらクロとの距離を取る。
ナイフの投擲から各種近接格闘術まで幅広い分野をそつ無くこなせるクロが、対人戦闘で一番愛用し多用しているのは――――この下蹴りだ。
相手の死角を突き、どんな無理な体勢からでも放てるクロのローキックは『加速』を用いることによって予備動作を消し、鋭さ《キレ》を跳ね上がらせる。回避は不可能。女性の細足程度なら叩き折れる破壊力を秘め、確実に相手の行動を奪う。
「ってーな、馬鹿力が! ヨーゼフが言ってたより強いじゃん、アンタ」
大女は蹴りが入った脹脛辺りを摩る。折れる折れない以前の問題だ。機動力は奪えておらず、ダメージが入っているのかすら怪しかった。
「察しの通り、私は『相談屋』だ。ブリトニー・スピネルズ、仕事は……まあ、置いておいて、私はアンタと戦いに来たんだ」
クロは冷めた目つきでブリトニーを睨み付ける。
「……ニキではなく、俺なのか?」
「ヨーゼフから話を聞いて、クレイの旦那からここに来るって聞いて、楽しみにしてたんだ。どうせニキは何をやっても捕まえられっこないんだし、楽しめる方を選ぶのは当然だ」
「諦めが良いな」
「一回ニキと相対すれば誰だってそう思うさ。アイツは跳ぶ。アイツを追っても時間の無駄だって私は散々言ったんだ。依頼人は一向に聞き入れようとしなかっただけで」
ブリトニーは自身の背命行為を誇るような口調で次々と言葉を紡ぎ、続きは拳で語り合おうとばかりに戦槌を手に向かってきた。
「だから、アンタが私を楽しませてくれよ色男!」
幸いなことに、地下鉄路線は一直線で構内には作業用と思しき灯りが点っていた。
クロとブリトニーの殴り合い――といっても前者は時折隙を突いて殴り、後者の攻撃は掠りもしない訳だけだが――は、自然とローザの視界に収まっていた。
最初は敵の標的が自分に変わってクロの邪魔になるのを避ける為、ローザは必要以上に距離を取っていた。だが、すぐにその心配は消えて無くなった。どうやらあの敵はローザには微塵も興味を示さず、ただ純粋に戦闘を楽しんでいる風にしか見えなかったからだ。
それでも近づけないのは、単純に巻き込まれたくないからだ。
クロは役に立たないナイフを手放し、今は素手で戦っている。だが次第に『加速』していく攻撃速度と足捌きは、クロの動作に付いてこれない者を篩に掛けるある種の絶対領域を作り出している。
ブリトニーもまた畑を耕すかのごとく重たい戦槌を振り、コンクリート片を飛ばし、頑丈に作られていた筈の壁も硝子細工のように突き崩していた。もしクロと彼女が地下鉄構内でなくビルの内部で戦っていたならば、とっくに倒壊していても不思議はないほどの破壊を生み出していた。
ローザはぼんやり二人の戦闘を眺めていた。
強化型の『魔法権利』を持つ者同士の戦いは、あまりに現実離れしすぎてアクション映画のワンシーンを眺めているようだった。避けては殴り、殴られては殴り返す。その繰り返しに没頭した二人の間に割り込むことは、相当の勇気と度胸と身体能力が必要である。
少なくとも、ローザには出来ないのは確かであった。
「でも、そうは言っていられない」
ローザは振り返り迫り寄って来た背後の闇にふっと息を吹く。
「私の相手は、またアナタ?」
ぬっと現れた黒い影は瞬時に凍り付き、動かなくなる。
「相変わらず凄い『魔法権利』だよ」
「…………」
「私の『具現』って砂漠でも凍土でも海中でも自由自在なのに、アンタの氷だけは抜け出すのに根気がいるのよね」
「…………」
ローザはジッと這い寄る黒い『具現』を睨み、その遥か奥から投げ掛けられる声を受け止める。『具現』を覆った薄氷はパリパリと剥がれ落ち、見覚えのあるデフォルメされた熊が現れる。
「やはり、待ち伏せを」
「逆よ。『相談屋』が二人組を待ち伏せしたんじゃなくて、アンタたちが私たちを追ってきたの。社長に聞いたんでしょ、今日この時間に私たちがいること」
レイズィは訂正を加えるが、ローザはそれを真っ向から否定する。
「あれは警告。今日この時間、私たちはニキに会う為にここに来る。それをクロは通達し、それでもアナタたちはここに来た。私たちが来ると知り、それでもここにいた」
「…………」
「それは待ち伏せと同じ。私たちの前に立つのは、自殺志願者と何の変りもない」
ローザは淡々と悪気のない言葉を並べ、それを向けられたレイズィは激怒する。ローザの言葉を真に受ける必要などどこにもない。けれど否定しなければ、ローザと『相談屋』の間で致命的な順位付けがされてしまう気がしていた。
順位付けも大した意味はない。ただ、癪に障るだけだった。
「誰の前に出るのが自殺と同じだって? 小さいロシア人」
レイズィはローザの前に姿を晒し、本格的に『具現』を操る姿勢を取る。デフォルメされた熊を分割して三体の操り人形を作り上げる。
ローザもローザだ。自身の不利は重々承知していたにも拘わらず敢てレイズィを挑発し、注意を自身に向けさせた。
クロは強い。
けれども近接戦闘向きの権利者を二人――異様にタフな大女と三体のクマを相手に大立ち回りを行えるとも思えなかった。いや、戦えはするだろうが長くは持たない。数はそれだけで大きなアドバンテージになる。クロもこちらの状況に気付いているが、手出しできない程にあの大女は手強いらしい。
それならば自分がここで一人を引き受けた方が、二人の生存確率が上がるとローザは考えたのだ。
そんなローザの思惑をまるで知らずに誘いに乗ったレイズィは、ブツブツと鬱憤をローザにぶつけ始める。
「本当に邪魔なの。ヨーゼフと社長はアンタたちが使えるから殺すなって言ってたけど、我慢できない。ヨーゼフと社長がどれだけ苦労してこの仕事に辿り着いたと思ってるの……、この仕事にどれだけの報酬が払われると思ってるの……!」
「金の為に、こんなことを?」
「当り前じゃない! 裕福な極東と違って欧州は悲惨なの! 金が足りない金が足りない、大人も子供もみんな嘆きながら虚ろな目をしてる。四百万よ、米ドルで! この仕事をやり終えたらそれだけ貰えるの。邪魔しないでよ!」
レイズィは喚き声を聞きながら、ローザは冷めていく自身を感じる。
金が全てではない。金があれば万事上手くいく。世界はそんなに単純ではないのだ。
しかしローザにレイズィの考えを否定する気は更々なかった。金が重要な位置を占めているのは古今東西変わらぬ事実であるし、欧州各国が想像よりずっと厳しい状況に置かれていることも陸続きであるロシア――その軍に身を置く者なら誰でも知っている現実であった。
けれども、それは他国を踏み荒す免罪符にはならない。
満州駐留ロシア軍所属の軍人が言えた義理ではないが、それでも小娘にはその事実を分からせてやらねばならない。
「邪魔しないで? 邪魔されるようなことをするアナタたちが悪い」
「――――ッ!」
「それでも押し通したいなら、力を示せばいい」
憤るレイズィを他所に、ローザは薄らと自嘲する。
本当に力を示したいのは、自分の方だ。
クロという妙な魅力を秘めた男の心に自分を残す為に、クロに相手にされなかった鬱憤を晴らす為に、ローザは冷気を充満させていった。
分からせてやるのだ。
レイズィに、クロに、そして自分自身に。
サイコパス見てきました
常守監視官逞しすぎギノさんかっこいい
続編作れそうだし三期にも期待




