Ⅲ-6
クロはローザを促して公園のベンチの一つに腰を下ろす。気持ちを沈み込ませる鉛色の空と肌を刺す程に冷たい外気の所為なのか、見える範囲内に二人以外の人影はない。
「ニキ……、ニコラウスのことはいい。それより俺たちを追跡可能な『魔法権利』について教えてくれ」
『相談屋』の面々はある意味で正常だ。寧ろ異常なのは、ニキを追っているクロとローザに的確に追手を差し向ける依頼人の方だとクロは認識していた。その権利者の対策をしなければ、常に先手を取られて非常に面倒なことになる。
《『魔法権利』の名前は『確定』、特定の人物の未来の姿を視て、その未来を『確定』する。私の記憶が正しければ、そんな『魔法権利』です》
その説明を聞いたローザは嫌そうな顔を隠そうともせず、下唇を噛む。
「どおりで先回りされる筈」
「だが完璧ではない」
《そうです。他の分類の『魔法権利』と違って、『確定』には避けようのないリスクが存在します》
通常『魔法権利』から恩恵を受けることは数あれど、危険を負うことは滅多にない。自転車と同じだ。使い方次第で交通事故などの危険を生み出すことはあっても、自転車それ自体が危険を孕んでいるのではない。例外があるとするなら余程特殊な自転車――例えばサドルやハンドルが錆びていたりチェーンが外れていたり、そういった不具合を持つ自転車だけだ。
「欠陥でもあるのか?」
《欠陥とは少し違います。『確定』はまだ知らぬ未来を視ることで先回りを可能にするだけで、時には望まない結果までを『確定』してしまうのです。進行の過程で止めなければ、どんな干渉も意味を成さなくなる。謂わば未来を掛け金にギャンブルを行うようなモノです》
「確かにデメリットよりはリスクの方が正しいな」
クロは静かに自身の考えを訂正する。その肩をローザがトントンと叩く。何か気付いたことがある――恐らくクロ自身が感じた疑問とヒシヒシと伝わる違和感をローザも悟ったのだ。
《彼らはサイコロを振りはするも完全に止まってから目を確認することを恐れています。寸前で中断し、示された目を予想しようと躍起になっているのでしょうね》
敵が便利な『確定』を使ってニキを追わない理由は、ニキを捉え損ねる未来を『確定』しないようにする為だと『相談屋』の社長は言った。けれども冷静に考えてみれば、掴まえ損ねた未来を視たなら、掴まえ損ねた後の対策を新たに練ればいいだけで、失敗の『確定』自体にデメリットはあまりない筈だ。それどころか成功する未来が視える可能性があり、視たら『確定』された未来に進む以上、『確定』を使わない理由がない。
電話先の相手はこの『魔法権利』を”未来を掛け金に行うギャンブルだ”と例えていたが、取られても取り返す方法を用意出来るギャンブルだ。負けたことが分かり、負ける前提で動けば、負け分以上を取り返すことも不可能ではない。
《――――以上が『確定』について、私が知っていることの全てです。私が知っているのは前の持ち主の『確定』なので、多少の差異があるかもしれません》
「権利者個々人の資質で『魔法権利』の中身も変わるのか?」
《当然です。同じ筋肉量の二人が同じだけ力を引き出せる筈ありません。『魔法権利』としては似通ったモノにはなりますが、瓜二つとはいきません》
「それは本当なのか?」
《はい。何度も試しました。映像として記録にも留めていますし、検証後に然る機関と共有しています》
『魔法権利』は殺して奪う。それがクロにとっての定説である。丁寧な口調のこの男が、検証の為に何人引き裂いたのかに興味を引かれたが、クロは敢て口にしない。それは隣にローザがいるからであり、誰がどう考えても意味のない悪趣味な皮肉にしかならないからだ。
そんなクロの心の中を見透かしてか、『相談屋』の社長は先手を打つ。
《生きたままの『魔法権利』の引き渡し自体は不可能ではありません。『相談屋』と呼ばれる所以は、それを可能にする技術を確立しているからです》
初めて耳にする情報であった。ローザの方を見ると、ローザも首を横に振っている。そんな方法はロシア軍も掴んでいないらしい。電話先の相手は自分たちより遥かに『魔法権利』を知り、実際に触れているのだと感じさせる。依頼人の真の狙いや『断定』という『魔法権利』の仔細より、遥かに価値のある情報が飛び出した。
《方法は教えません。これは仲間の命より重たい情報です》
はっきりと宣言するが、クロも問い質す気など更々なかった。もしその方法が聞いただけで実行出来るほど容易で簡略化されているのなら、既に他の誰かが見つけ出していたり、隠し立てしても自然に広まっている筈だ。
そして広がって困るのは、他でもない自分たち権利者だ。『魔法権利』を奪われても死なないと言われても、それは世迷言だ。回避されるのは肉体的な死だけで、今までと何ら変わらない。既に体の一部になっている『魔法権利』を奪われたなら、権利者にとってそれは死んだも同然なのだ。
クロは平静を保ち、短く言い放つ。
「それは別に知らなくていい情報だ」
《そうですか。……なら、他には無いですか? 聞きたいことや、知りたいこと》
「いや、特には…………」
そこまで言って思い留まる。ローザも訊くことはないのか首を振っていたが、クロには訊き忘れていたことがあったのだ。
「二つ、訊き忘れていたことがあった」
《何ですか?》
「お前の名前だ。俺たちはまだ知らないし、……俺たちの関係がこれで終わるとは思わない。知っておいて損はない」
《大袈裟ですね。女性なら口説き落とせそうな文句ですが、生憎私は男性です》
「その情報は知っている」
鼻で笑う微かな声を携帯端末が拾う。クロの口角も僅かに上がっている。他人の命を担保に恫喝紛いの交渉を進めていたクロと電話先の相手は、いつの間にか冗談を言い合える程になっていた。
その様子を眺めるローザの心には、もやもやと複雑な感情が渦巻く。
自分を気に掛けながらも独りで進めていくことに対する嫉妬と電話先の相手と一種の友情のようなモノを芽生えさせたことに対する落胆――別に芽生えること自体は構わない。ローザは自身の独占欲が同世代の女性に比べて格段に薄いことを知っている。けれどもクロが自分を相棒として扱うことは、見ず知らずの敵対者と冗談を交わす一時的なモノなのかもしれない不安が、どうしようもなくローザを気落ちさせるのだ。
雲が何処までも低く広がる冬の空のように沈んだローザの頬に、クロの暖かな指先が触れる。
「流石に公園は……野外は寒かったな」
気付けばクロは既に通話を終えている。物思いに耽っている間にクロの最後の問い掛けを聞き逃してしまった。
「平気。寒くない」
そう言いながらローザは暖かなクロの手を掴まえ、頬に密着させる。
真雪のように白く、同じ人間とは思えない程に冷たいローザの頬にクロは驚く。
「……本当に寒くないのか?」
「寒さは慣れてる。でも暖かい方が好き。クロは暖かい」
「強化型の副産物だ。鼓動が速いから体温も高い。俺は常人より遥かに優れた耐性を保持している。暑さにも、寒さにも、病気にも、怪我にも。多くは他人の役に立たないが、寒さへの耐性だけは他人に分けることが可能だ」
ローザはクロの言い方が妙に面白く感じ、からかうように冗談を投げ掛ける。
「私の『氷結』にも耐性がある?」
「…………多分、ないな」
生真面目に答えるクロの頬に、ローザの冷たく柔らかな唇が触れる。
「なら、頑張って付けて」
クロは頬に張った薄氷をパリパリと指先で落としながら「考えておく」と短く返す。ローザはクロの肩口に頭を寄せ、体を預ける。トクントクンとクロの鼓動が伝わる。上目遣いで見上げると、何食わぬ顔をしたクロと目が合う。
「ローザ」
突然名前を呼ばれたローザは「なに?」と上目遣いのまま短く答える。クロは無表情を崩さず、ローザが期待するような展開は起こり得ないと知らせていた。
「ローザの言っていたことは正しかった」
クロの言葉にローザは首を捻る。自分の言葉を肯定されはしたが、どの言葉なのかはさっぱり分からない。
「…………どういうこと?」
「ニキの見た目は当てにならない」
そしてクロの視線を追うようにローザも視線を滑らせると、無人だった公園に少年がポツンと立っていた。
「少年」
「だが俺の記憶にいるニキと同じだ」
「私のニキも、あんな感じ」
辺りをキョロキョロと見回した少年は、クロとローザに気付いて歩き始める。二人は今一つ状況が飲み込めずに寄ってくる少年を注視する。
「罠の可能性」
「大いにあるな。『魔法権利』で作られた幻影……もしくはそっくりな奴を作り上げたのか……」
「分からない。でも、罠だとしたらあまりにも杜撰」
「そうだな」
東アジアでは目立つ浅黒い肌にローザより鮮やかな白髪、手を振る姿から発せられるのは無邪気さではなく二人に対する労いである。幼い容姿ではあるが、掴み所がなく見た目よりずっと大人びて見える。それが二人の覚えているニキの最大の特徴であり、目の前の少年はまさにその通りである。
二人が探していたニコラウス・ルーパー・マクマンベトフによく似た少年は特に急ぐこともなく、ゆっくりとした足取りを崩さない。クロとローザもまた、視界に収まる位置にいるニキに駆け寄りはしない。ただジッと座ったままニキの到着を待つ。
「本人っぽいな」
「まだ断定出来ない」
「……カメラも持っている。どう見ても本人だ」
堂々と近づいてくる少年の姿に、クロは罠を勘繰るだけ無駄だと悟る。しかしローザは執拗に疑い、頑なに認めようとしない。ジャック医師が言った通り、ニキは見ただけでニキと分かる出で立ちをしていた。ローザもきっと同じように感じ取っている。
「断定は、出来ない」
「…………ローザ?」
「出来ない。したくないの。ごめん、クロ。分かってる。でも、でもね――――」
「ローザ、どうした?」
「ごめん、分かってる。いいの。あれはニキ、ニキなの」
「ああ。ああ、そうだな」
突然ぽろぽろと涙を流し始めたローザに、クロは困惑する。つい数分前まで平然としていたローザが何故、唐突に涙を流し始めたのかが分からないのだ。
ローザは待ちに待っていた筈のニキに背を向け、クロの筋肉で硬くなった脇腹辺りに顔を埋め、両腕でガッチリと固めて啜り泣きを続ける。一瞬自身にしがみついたローザを無理矢理引き離すという考えが浮かぶが、クロは即座にその考えを頭の中から追い払う。クロには分からない涙を流すに足る理由が、ローザにはある。漠然と察してはいるが、それを察し、無視して、引き剥がして、相棒の泣き顔を拝むのは、図太いクロでも少しだけ気が引けるのだ。
そんな密着して膠着した二人の姿を、カメラのフラッシュが嘲笑う。
「良い画じゃのう」
ニキが微笑む。クロは何も答えず、ただ嫌そうな顔だけを向ける。
「そう嫌な顔をするでない。お嬢が泣いているのは僕がここにいるからじゃが、まあ、原因はお主よ」
「…………」
「自覚はあるのが余計に初々しいのう」
無表情を取り払いムッとした表情を晒すクロとは正反対に、ニキは快活で人懐こい微笑みを崩そうとしない。クロはローザの拘束を優しく解き、ニキを睨む。
「お前はニコラウス・ルーパー・マクマンベトフ……で、合っているのか?」
「そうじゃな。世界は広い。ニコラウス・マクマンベトフは探せば他にもいるじゃろうが、ニコラウス・”ルーパー”・マクマンベトフは僕だけじゃろうな」
「訊きたいことは沢山ある。だがまず最初にこれだ」
「言ってみよ」
「何故ここにいる? ティムから渡された手紙には俺たちと会うのは今夜だと書いてあったぞ」
目に見える範囲にいるのは、クロとローザとニキの三人だけだ。常識的に考えるなら盗み聞きされる心配もなければ何の前触れもなく襲われることもない。けれど三人は声を殺して、存在を隠すかのようにひそひそと会話を続ける。
「時間が空いて、気が向いて、居場所を知っていたから会いに来たのよ」
「それは……、随分と適当な理由だな」
「嘘でも敵を欺く為だと言って欲しかった」
「まあ、そうじゃな」
クロは大きく息を吐き立ち上がると、ニキの手から現像されたばかりの写真を奪い取る。そこにはローザに抱き着かれたクロの姿と顔が鮮明に写し出されていた。
「それで、俺たちは今から何をすればいい?」
クロはそう言いながら、その写真を念入りに細切れにする。この一枚が存在するだけでシロがどれほど怒り狂うか、考えるまでもない。ニキとローザは少し残念そうな顔をしていたが、シロの不機嫌な顔とは比べるまでもない。
「もう一枚、撮らせてくれんか?」
「…………」
ニキは懲りずにカメラを構える。クロは再び嫌そうな顔をするが、ニキはカメラを向ける正当な理由を口にする。
「まあ見ておれ。これが僕の『魔法権利』で、狙われる一因でもある」
ニキはそういうとシャッターを切る。二人同時にではなく、クロのみを収める。十数秒経ってカメラが耐熱紙を吐き出し始める
「僕が持っておる便利な『魔法権利』、誰もが欲しがる『魔法権利』――その片割れ」
吐き出し終えた耐熱紙をクロに手渡し、次はローザに向けてシャッターを切る。
「片割れ?」
「もう一つが僕本来の『魔法権利』じゃが……、まあ、欲しい欲しくない以前に誰もその存在にすら気付けん。ほれ、お嬢」
「小さい子にお嬢呼ばわりされたくない」
それぞれ自身の写真を受け取ったクロとローザは、徐々に浮かび上がってくる自らの姿とその裏に滲み出る絵柄を見比べる。
「俺は『運命の輪』か……、前と同じだな」
「クロ、私の絵柄は?」
「それは『女教皇』だ」
「意味は知性、理解、良識、清純、慎み……。まあ、順当じゃな」
ニキは『女教皇』の持つ意味をローザに告げる。ローザは納得しながらも首を捻る。
「なるほど。その『魔法権利』は性格占い?」
「そうじゃな」
「そうか。…………は?」
ローザの皮肉をニキは素知らぬ顔で肯定する。クロは丸く見開いた目をパチクリさせながら、驚きと疑いを口にする。
「本当にそれだけなのか?」
「そんな訳ないに決まっとるじゃろうに」
十代前半の少年はやはり快活に笑い、「だが、間違いでもない」と絶妙なタイミングで真顔に切り替わる。
「ちょうどクロやローザの裏に浮かんだように、僕の『洞観』を付与したカメラは相手の本質を写し出す」
「それで……?」
「それだけじゃぞ。……もっとも、『洞観』が反応するのは権利者だけじゃ」
「権利者限定……、そういうこと」
「『洞観』があれば権利者かどうかを判別出来る。なるほど。確かに欲しがる奴らはごまんといるだろうな」
現時点で権利者の判別は、発動時に目の下に現れる刻印でしか分からない。表沙汰にはならないが、要人暗殺やそれを防ぐボディガードの影には必ず『魔法権利』が存在する。何食わぬ顔でボディチェックを通過し、予想できない方法で、予想できない場所からやってくる襲撃を防ぐのは、『魔法権利』を以てしても困難極まりない。
そして『魔法権利』を恨みながら死んでいった者、死なせてしまった者と同じだけ、影でほくそ笑む者もいる。
前者には垂涎、後者には障害――どちらにせよ、狙うには十分な理由だ。
「それで、俺たちは本当にお前に会うだけで良かったのか?」
ジャックの要求はニキとの接触で、そこからは特に要求されていない。それでも口に出したのはニキとの接触にどのような意味があるのか掴み損ねていたからであり、――――何より呆気無かったからである。
ニキはその申し出に暫し無言で応え、ジッとクロを見つめる。
「僕と行動を共にするのかの? それ自体は構わん……が、茨の道じゃぞ」
「私は構わない。茨の道でも、クロと一緒なら」
「どうする? 少しでも僕と行動してみれば、疑問も晴れるやもしれんぞ」
「クロ、お願い。もう一日……、いいえ半日だけでいい」
クロは冷静に周囲を見渡す。公園に備え付けられた時計の短針は三時を指し、つい先ほどまで太陽を覗かせていた空は灰色の雲に覆われ、それが自らの使命であるかのように雪を吐き出している。
雲とは比べ物にならないほど透き通った灰色を瞳に宿したローザは、瞳を潤ませクロを見つめる。雪より白い白髪を携えたニキは悟られまいと努力はしているものの、表情からは僅かな苦悶が見て取れる。
寒さを伴った風が容赦なく体温を奪い、クロに選択を催促する。
茨の道――ニキが使った一言がクロの思考に引っ掛かっているのだ。偶然ならそれに越したことはない。だが相手は妙に鋭く老練で、そして知る筈のない事情を多々知っていたニキだ。クロが眠り姫の為に茨の道を進む覚悟を決めていたことを知っていたとしても、何ら不思議はない。
だがそれを尋ねはしない。その程度の相似を気にしていたらきりがない。
「本来の時間まで……、今夜まで俺も行動を共にする」
クロは悩んだ末、そう答える。別にローザやニキの傍にいるのが嫌な訳ではない。
ただ今になって、無性にシロが気になり始めただけ。
ただそれだけであった。
ゴーンガール見てきました
ハラハラドキドキ、とても面白い映画でした




