Ⅱ-2
ローザの叫び声に答えることもなく、クロは振り上げたナイフで応える。
クロの手から離れたナイフは手榴弾の緩やかな軌道と真逆、鋭く直線的な軌道で手榴弾に迫り、弾き、軽い金属音を響かせる。ナイフは手榴弾を貫くことなく表面に浅い傷を刻んだ程度であったが、押し返すにはそれで十分であった。
「ヒュー! やるねぇ!!」
扉の寸前まで押し返された手榴弾を見たテンガロンハットの男は、感嘆の声を漏らす。
「だが、こっちもやらせてもらうぜ!」
男が叫び声と共に右手を突き出すと不可視の何かが手榴弾に触れ、クロとローザの方向に押し返す。カンッと床を跳ねたそれを一瞥したクロは、悪態すら吐かずにベッドを飛び越えてローザのいる後方に飛ぶ。
「ローザ、衝撃が来るぞ。備えろ」
コンマ数秒で隣に並び立ったクロは、ローザの顔が動くより早くベッドを持ち上げて盾にする。ローザは驚愕を浮かべてクロを見上げ、クロはその頭を抑えつける。そしてローザを抱き寄せ、我が身を衝撃から守る第二の盾に配置した。
けれど衝撃は来ずに、疑問を浮かべるより早く罠に嵌った相手を嘲る言葉が朗々と届く。
「今すぐ殺しはしねーよ、安心しな! 使えそうな権利なら『相談屋』が頂くからなぁっ!!」
その声の後、クロは再び視界の端で動く手榴弾を捉える。
手榴弾のピンは抜かれていない。ブラフにしては危険が大きすぎるが、その考えは即座に振り払われた。
二人の頭上、その天井すれすれで制止した手榴弾は、「殺しはしない」との宣言に反してピンが抜かれ、二人目掛けて自由落下を始める。
だが爆発までのコンマ数秒、クロは一か八かで立ち上がり手を伸ばす。
決して分の悪い賭けではない。『加速』で高まった反応速度と身体能力ならば、床を蹴って跳び上がり手榴弾を掴んで明後日の方向に投げる。その程度、シビアだが不可能ではないのだ。
現にクロは実現する為に床を蹴って跳び、手を伸ばし、――――その手は虚しく空を切っていた。
「――――なっ!」
手榴弾は掴む寸前で重力に逆らい、僅かに上昇した。クロは忌々しさを籠めた瞳で下手人を――テンガロンハットの男を睨む。手玉に取られた自分が相手を睨んでも何も変わらないと分かってはいる。けれど何かを返さなければ、反撃の糸口すら掴めなくなる予感がクロを包んでいたのだ。
男は最初に姿を見せた位置から一歩も動いていない。
だが、両手は何度も動いている。手榴弾を押し返した時には、男の右手はまるで目の前にあるモノを押し返すような動きを取っていた。
「悪いがこれも仕事だ! 恨むなよッ!!」
そして今、男が腕を上げて何もない空間を殴りつけ、鈍い衝撃がクロの脇腹に襲い掛かる。宙に浮いていたクロはそのまま流され、手榴弾との距離は致命的に離れてしまう。
クロは反射的に脇腹周辺を腕で払い除けるが、手応えはない。
「くそっ!」
全てが空回りに終わる。何一つ上手くいかない。湧き上がる苛立ちが『加速』した思考を濁らせ、それを掻き消す手榴弾の爆音と閃光が室内に溢れる。
咄嗟に顔を両腕で覆うが、その音と光にその防御は意味がない。
爆風も衝撃もなく、ただ爆音と閃光だけの非殺傷兵器――けれど感覚が強化されたクロにとっては、単純に傷を与える兵器より恐ろしかった。
視界の全てを奪われ、キーンと強い耳鳴りが体全体を揺らす。重力に引かれ落下していたが、視覚聴覚を狂わされたクロは着地も出来ず無様に膝と腕を床に付く。歯を食い縛り目を見開き、クロは頭を押さえて必死に激痛を抑え込む。
そしてやっと顔を上げると、そこには――――
「……クマ、だと?」
そこには巨大なデフォルメされたクマのぬいぐるみが立ち、その手に握られた同じく巨大な棍棒が、今まさに振り下ろされようとしていた。
ぐちゃり……と、目の前で叩き潰されたクロを見て、ローザは自身の血が熱くなるのを感じる。軍で配属された相棒のクェーツが殺された時と同じ、その前のマリアもヨシフも、ローザと組んだ人間は、皆等しく死んでしまった。
そしてクロも、いま振り下ろされた棍棒で――――。
ローザはふらふらと立ち上がり、湧き上がる吐き気と叫びたい気持ちを抑えて、クロを叩き潰したクマのぬいぐるみに銃弾を叩き込む。一発二発と撃ち込むにつれて、ぬいぐるみの巨体を押し返していくが、それで終る。当然ぬいぐるみからは血も出ないしボロボロの布屑に変えるには弾丸の数が圧倒的に足りていない。
拳銃で倒すことは出来ない相手だと知って尚、ローザは詰め寄ってくるクマのぬいぐるみに拳銃を突き出したまま機会を待つ。
「…………」
のっそりと歩くクマのぬいぐるみ――けれどファンシーな外見とは裏腹に手にした棍棒はクロの血で濡れ、弾丸に抉られた体の随所も再生している。ローザはその様子を観察しながら、タイミングを計る。
そしてクマが棍棒を振り上げた瞬間、ローザの銃口が火を噴き――そして凍る。
ローザが放った弾丸は命中したクマの右肘辺りから即座に凍らせ、凍った肘は棍棒の重量に耐え切れずに折れて砕ける。クマの表情はデフォルメされた可愛い表情のまま変わらないが、その動作は驚くほど素早くなる。
右腕を失ったクマは後方に跳躍してローザと距離を取ると、残った左腕で凍った右腕の切断面の氷を払い除ける。腰を落として警戒するクマの姿は一見してシュールその物であったが、ぐにゃりとスライムのようなモノを滴らせながら再生する右腕を見ると、とてもシュールだと笑っていられなかった。
拳銃に『氷結』を付与させながら睨むローザと欠損部位を回復させながら警戒を続けるクマのぬいぐるみ――そんな二人の間に、一声が投げ込まれる。
「『具現』をどかせな、レイズィ!!」
部屋の入り口には手榴弾を投げ込んだテンガロンハットの男が立ち、クマが溶け落ちると同時に、ナイフを振り下ろしながら『魔法権利』を発現させる。
ローザは冷静に、けれど激情を籠めて引き金を引く。
狙いはテンガロンハットの男――の筈が、寸前で何かが銃身に当たり狙いが逸れて天井に小さな弾痕と氷の結晶を生み出す。ローザは咄嗟に横に跳び射撃を邪魔した何かを躱そうとするが、不意に伸びてきた何かに襟首を掴まれ倒される。
「これで終わりだぜ!」
テンガロハットの男が駆け寄り、床で仰向けで倒れたローザに向けて拳を振る。触れられた感触はないのに鈍い痛みが左顎を襲い、脳を揺らされる不快な感覚が満ちる。震える膝に無理をさせて体を起こして反撃を試みるが、向けた拳銃も顎と同じように触れてもいないのに蹴り飛ばされ、拳銃はカーペットの床を滑ってローザの手から遠く離れる。
「厄介な権利!!」
ローザは『氷結』で床越しに攻撃する。ローザと二メートルも離れた位置に立つテンガロンハットの男は腰からナイフを引き抜き、床に広がる氷の結晶に向けて一閃させる。すると床にに敷かれたカーペットにはザックリと切込みが入り、そこから捲れ上がり『氷結』は簡単に止まってしまう。
「俺の『魔法権利』が厄介? てめぇらの使い方が下手すぎんだよ!」
「――――ッ!!」
「レイズィ、てめぇもだぞ! ぼさっとしないでさっさと追撃しやがれ!」
後方へと距離を取ることで『氷結』から逃れたテンガロンハットの男は廊下に叫びながら、ローザの太ももに向けてナイフを突き出す。熟れたリンゴに包丁の刃先を当てた時のようなくぐもった音がローザの太ももから生まれる。
「く……っ」
肉を裂き、骨に達した何かが作り出した痛みにローザは呻き声を漏らす。
焦りの浮かんでいた顔を苦痛で歪める。見ると透明で鋭い何かがローザの太ももに虚空を作っていた。血に彩られた虚空の形状はナイフ――テンガロンハットの男がローザに突き出したナイフその物であった。
手の平に溜まった汗を振り払うかのように太もも辺りを右腕で薙ぐと、何にも触れていないにも拘らず刺さった何かが消え、そこからマグマのように煮え滾った血が満たす。
ローザは流れ出る血液に目も向けずに手を当て、焼ける痛みを産む傷口を『氷結』で固めて止血する。その僅か数秒――されど数秒もの猶予を得たテンガロハットの男と姿を見せないもう一人は体勢を整え、再び仕掛けてくる。
溶け落ちたクマのぬいぐるみが体を再構築し、テンガロンハットの男はナイフを握って『魔法権利』を発動させる。
痛む右足を庇いながらローザは見切り辛い軌道のナイフをなんとか躱すが、立ち上がろとした背中はクマに押え付けられてしまう。
「無駄な抵抗すんじゃねーぞ、ロシア人」
「黙れ、離せ、このクマを退けろ!」
クマに押さえ込まれたローザは体を捩り拘束から逃れようとする。
「『魔法権利』は使うな。俺たちも殺しは気が進まねぇんだから、てめぇの首に当たったナイフを、これ以上引かせるんじゃねぇぞ……?」
テンガロンハットの男が、十分に距離を取ったままローザに告げる。その声色は手に握ったナイフのように鋭く、脅しがただの脅しでないことを悟らせる。
「目的は何?」
「別に必要以上に危害を加える気はねぇぜ。数日間……、依頼人が満足するまでホテルに居てもらう。俺たちはそれしか聞いてないぜ」
「スタングレネードを使った。警察や他の客は異変に気付く」
ローザの言葉に一瞬目を丸くしたテンガロンハットの男は、その期待を鼻で笑う。
「気付く? そりゃ気付く……が、それがどうした」
「私たちを抑えたまま籠城する?」
「そうじゃねぇよ。気付かれても問題ねぇんだ。俺たちの依頼人は、『相談屋』に依頼出来るくらい金持ってんだぜ? 当然ホテルの一つや二つ、従業員纏めて簡単に買収出来ちまったのさ。な、笑えるだろ?」
微かに鼻で笑ったテンガロンハットの男は、絶望的な状況で組み伏せられているにも拘わらずピクリとも表情を動かさないローザの態度に眉根を寄せる。
「笑えよ、ロシア人。笑うだけの持ち合わせていないのか、本格的にブルって声も出ないのか?」
「ヘラヘラ笑う人間は、信用出来ない。故にロシア人は笑わない」
「あ?」
「けれど、今は笑える状況。――――違う、クロ?」
薄暗い室内に投げ掛けたローザの言葉に応えるかのように、一画からぬっと黒い影が立ち上がる。テンガロンハットの男は目を見開いて驚く。
「笑えるかどうかは分からん。だが、一歩進んだのは確かだ」
そこには仲間が『具現』創り出したクマのぬいぐるみに叩き潰された男が――クロが平然と立っていた。顔に血は付着しているが既に乾き、ムスッとした表情は苛立ちなどを感じさせず、ただ自然な表情にしか見えなかった。
ジゴロ・イン・ニューヨーク見てきました
ジョン・タトゥーロ渋いダンディ格好いい!




