Ⅵ-1 我儘女王の寡黙な兵隊
月が沈み壮絶な夜は終わり、日が昇り新たな一日が始まる。
暖かい光に包まれた之江は、最悪の結末を逃れ最高の目覚めを迎える。最高級の羽毛布団や春の陽光ですら生み出せない快楽が、体の隅々まで染み渡っていた。癖になりそうな快楽に身を任せながら、また逃さないように目を瞑ったまま柔らく抱き心地の良い何かに手を回す。
「子供のような寝顔ね」
暖かい光の持ち主は数回だけ之江の頭を撫で、そのまま無防備な頬をぺちぺちと叩く。
「でも、目が覚めたなら退いた方がいいかな……。酷い姿だよ、いま」
軽い刺激と軽い警告は之江の意識を外側に引っ張り、また体を包む光も持ち主の元へ収束していき、代わりに新たな光が――窓から差し込む朝日が之江の閉じた瞼を突き抜け、瞳に突き刺さる。その不躾な眩しさに嗾けられ、之江は体を起こす。途端に不快な煙草の臭いと見知らぬ人間の臭い、そして見知った人間の好奇の視線に晒されてしまう。
「カメラーカメラー……っと」
「之江、首は大丈夫か?」
前中後の三区画に分かれた車内の後部から、ケイジとクロの声が届く。不吉な内容を伴い之江の状況を楽しむ声と心配の感情が籠っているか疑わしいほど平坦な声だ。そして柔らかく抱き心地の良い体の持ち主であるシロに目を向けると、同情と愉悦を孕ませた瞳を即座に逸らす。助手席に座った白井は顔を後ろに向け、ハンドルを握る七隈はバックミラーに一瞬だけ視線を移し、再びフロントガラスを睨みアクセルを踏み直す。
車内にいるのは自分を含めて六人――生存者は六人、戦死者は一人。
あの数のAFを相手にしたのなら上々な出来栄えだ。
だがそれは口に出せない。死んだ友軍がいるにも関わらず上出来だと評価を下せるほど之江は無神経ではない。
「まあ、あの数相手でこんだけ生き残れば上出来だな」
ただ車内には一人だけ、無神経がいた。仲間の死を賛美するかのように取られ兼ねない言葉を恥ずかしげもなく口にした人物を、バックミラー越しに七隈が睨んでいる。
「向こうは多分、もっと悲惨なことになっているぜ。……なんせ、女王がいるからな」
黙って動向を見守っていたクロとシロは、女王と言う単語に釣られ疑問符を浮かべた瞳をケイジに集める。同じく推移を眺めていた之江はその反応から、ケイジはここの誰もが知り得ない情報を握っているのではないか? と推察する。
「無線、通じないだろ? 多分人間は残っていないんだろうな。AFに侵された元人間と貪られる死体が山のように積み上がってる。数だけ集めた駅構内の三下共とは訳が違う。女王に手綱を握られたAFたちが、今か今かと俺たちを待っている」
不謹慎な言葉の群れが、徐々に変質していく。怒りが限界に達し掛けた七隈が、それを宥めようと身構えていた白井が、無表情のクロが、その可能性を今更並べるケイジに呆れるシロが、そして一歩引いて車内を眺める之江が、ケイジの次の言葉を待つ。
「俺は、あの高校に戻るのが怖い。今すぐにでもハンドルを奪って逃げ去りたい。俺は怖いんだよ、敵が。三峰は心配だが、AFが三峰の皮を被って襲ってくる可能性の方が心配だ。仮に三峰と対峙したら――三峰の『魔法権利』を奪ったAFと対峙したならば、与えられた任務の特性上、その対処は俺がしないといけない。もしここでクロとシロを失ってしまったら、それは人類にとって補いようのない損失だ」
ブツブツとケイジの口から洩れる不安に七隈はすっかりと怒気を削がれてしまい、何も言わずに運転に戻る。ただクロとシロ、之江の三人はケイジの不安の裏に隠れた目的を見透かしていた。
ケイジの不安は、注意の喚起だ。
高校には、軍属と一般人合わせて千人超もの人間が滞在している。そこがAFに制圧されたのならば、そのまま千匹以上のAFが誕生することになる。叩けるのならば、千匹超のAFが寄生型の内に叩くしかない。成長型に移行してしまってからでは、手遅れだ。生活圏とAFの発生圏に作った空白も、統率されたAFの波に飲まれ消えてしまう。
だがその不安や注意には一切触れずに、之江は疑問を口にする。
「任務の特性上? なにそれ、何でクロとシロが出てくるの?」
任務や人類、損失といった単語を使うケイジは、妙に機械的で胡散臭い。それに加えてクロとシロがAFの討滅を目的に掲げ戦場に入り込んだのに対し、橙堂慶爾と名乗った人物が口にしたのは義憤という建前だけで、未だ誰にも明確な目的を明かしていない。出会って一日しか経ってないからかもしれないが、之江は建前すら知らないのだ。
正体と目的を明かせ――そう迫る之江の雰囲気を察したのか、ケイジは不安を口にしていた時の鬱々とした口調から、カラッと軽い口調に戻し之江の期待に応える。
「良い機会だから言っておくが、俺は民警じゃない。所属は海軍情報部――平たく言えば軍の工作員だ」
「潜入工作、破壊工作、情報操作、扇動、要人の警護、盗聴、窃盗、拉致、拷問、暗殺、粛清……、先陣を切って戦場は駆け回れないが、それ以外の命令なら謎の義賊様から世紀の大悪党までやってのける夢のような諜報部隊だ。もっともただの特務部隊だったのは二十年前まで――『魔法権利』って便利で厄介な代物が世界に浸透し始めてからは、専ら権利者と最新技術を詰め込んだ特務部隊だ。通常の部隊ですら『魔法権利』に夢中になっていた。当然一個人が力を持つことを善しとしない軍は、『魔法権利』の隠匿に努め、夢の部隊もそれに合わせて舞台の影に消えていったって訳だ」
ケイジが口にしているのは、三流小説家の妄想に近い。あまりに荒唐無稽すぎるのだ。
「集まる情報の量や得られる情報の質は、管理された大洋に組み込まれた一枚の歯車が得られるそれとは大きく違う。まあ、大元が大洋を管理している海洋国家その物だからな、比べるのが間違ってる。シロの父親の会社――黒田海運に渡る情報は、俺たち情報部が世界を飛び回って集めてる。当然、選抜され訓練を受けた俺も世界を回った。クロとシロには黙っていたが『魔法権利』のあれこれは叩き込まれたし、AFとの初遭遇はずっと早かったんだ……、実地訓練でアフリカにも一年いたからな」
会社の件で口を開いたシロはケイジの口上が治まってから、頭の内部で並んでいた疑問と不満の中から一つだけ選んで口にする。
「なんで隠してたのよ、隠す必要ないじゃない」
「いや、隠す必要はあった。任務の特性上、それを明かせば成り立たなくなる可能性のある事柄だ」
「また任務の特性上? ……何の任務よ、それ」
任務の特性上――その釈然としない返事にシロはムッとしつつも質問を重ねる。ケイジはニヤリと微笑み、待ちに待ったその質問に答える。
「ボディガード」
その答えに、シロは思わず吹き出してしまう。
「えっ、誰が誰のボディガードなの! 『魔法権利』は持ってるらしいけど、私やクロより弱いケイジが、まさか、私たちの護衛……? それ、本気で言ってるの?」
シロは対AF戦闘に向かないケイジの『魔法権利』を皮肉り、そして口調は徐々に苛立ちを顕わにする。シロにとってみればケイジを拾ったのは偶然で、理由は顔見知りを見捨てたら目覚めが悪くなるからだ。その偶然を、さも自分の手柄だと言わんばかりの妄想を語るケイジに付き合っていられない。こんな些事で気分を害されたくないし、クロと自分の傍にケイジが立っていた高校在籍時の思い出を汚されたくないのだ。
だがオブラートに包んでそれを口にするより先に、ケイジが反論を投げる。
「本気で言っている。護衛に必要なのは強さだけじゃないぜ、シロ。そもそも強さは身を守る指標じゃないし、現に俺は一度死に掛けたクロを助けている。……だよな、クロ?」
「ああ、そうだ。シロは意識がなかった。ケイジさんがいなければ、俺は『挑発』のAFに殺されていた」
「助言や人脈、それに機転を利かせば何とかなるんだぜ。意図的に守らせた方が相手の背中も守り易いだろ? 護衛は、足りない部分を補うために付けられたって思えばいい。お前ら苦手だったろ、ほら、人付き合いとか」
ケイジの言葉とそれに追従したクロのせいで、シロは何も言えなくなってしまう。
「もっとも拾われたのは偶然だ。俺も平静を装うのに必死になったくらいだ。なんせ、俺が探しに行った相手が、街中で声掛けてきたんだからな」
その偶然を思い出しケイジは軽く笑うが、それを境に浮ついた声色は真剣なモノに変わる。
「もしそれでも俺の素性を疑うなら、試しに色々と尋ねてみろよ。俺の情報開示権限内の情報なら大方答えられる、クロと違って出し惜しみせずに答えるぞ。どうだ?」
「どうだ?」と訊かれて咄嗟に質問が浮かぶ人間は少ない。だが、少ないだけでゼロではない。ケイジのその宣言に真っ先に反応したのは、意外にも助手席に座っていた白井であった。
「その『魔法権利』ってのは、どうやったら手に入る?」
「良い質問だ、曹長。基本は自然発生だ。先天的なモノや身体能力や技術と似て後天的に身に付く。他にもあるらしが、それ以上は俺の情報開示権限の範囲外だ。悪いな、俺も詳しくは知らない」
四十歳を目前にした白井曹長に対し、ケイジは上から返事を送る。海軍情報部に所属した直後から全ての隊員には少尉の階級と大尉相当の権限を与えられる。階級は情報部の存在を知る将官とコンタクトを取り易くするために、権限は任務失敗時に取らされる責任の前借。しかし友軍であっても、工作員は階級を易々と明かすことはしない。権限も移動時と緊急時にしか使えない。
「辞表が出せるなら、今すぐにでも出したいくらいだぜ」
勘違いしないでくれよ、と自身の口調を弁解するケイジは軽口で締め括る。だが、その本質は弁解などではない。ケイジは白井の追及を避けたのだ。話題を変え、その情報量を増やすことで相手の思考回路を一時的にパンクさせる。通じる相手と通じない相手はいるが、凡下士官の域を出ない白井には有効だった。
「他にはないか? 二十世紀の欧州外交の闇から現職大臣の痴態のあれこれ、果てはクロの母親や海で威張り散らしている大佐たちの子供の就職先まで。俺は色々知ってるぞ」
「――――え」
視点をずらしつつ自身の知識を展開しようとするケイジ――挙げた大半がどうでもいい情報だったが、その中に一つだけ、看過できない情報が紛れ込んでいた。
クロの母親について。
クロとシロの二人が、目を見開く。自分たちの知らない情報――自分たちが知りたい情報――二人が必死に探して、見つからなかった情報。その情報の断片を、ケイジが握っているとは露にも思わなかったからだ。そのあまりに素直で予想外の反応にケイジは動悸が早くなる。自身の母親についてだ。当然クロ本人にも知らされていると思っていたのだ。だが、この反応を見ると明らかだ。
クロは、知らされてはいない。
両親を失い、祖父母や他血族も死に絶えていた孤児同然のクロは、十五年前――六歳の時に黒田の家に迎え入れられた。高校時代にクロ自身から聞いた話だ。二十年前に顔も知らない父親が事故で死に、数年後に今や面影も残っていない母親がその後を追うかの如く家を出て、そのまま帰ってこなかった。生家はまだ残っている筈だが、今更戻るつもりもないし、無理に知る必要もない。物心ついた頃から、クロは確かにそう思っていた。
諦めていたのだ、届かないから。
「……俺の、母親について?」
恐る恐る口に出すクロ。この言葉は強がりだ。自分の両親の――それも顔写真すら残っていない両親の仔細が気にならない筈がない。ケイジ本人も、この情報は意図せず手に入れたモノだ。本命の話題を展開する上で有利に働くと考えたからこそ、適当な単語と共に陳列したのだ。
二人から突き刺さる視線で身動きが取れなくなったケイジは、之江に助けを求める。求められた之江はクロとケイジを軽く見比べて、溜息と共にケイジに助け舟を出す。
「クロの両親のことは確かに気になるけど、僕は他にも気になることがあるかな」
恐らくクロとシロを含め、車内ではケイジ以外の誰もが知らない情報だ。この助け舟には、間違いなく全員乗ってくる。
「最初の方に言ってたでしょ、…………女王って何?」
女王という単語を出した途端、シロは眉根を寄せクロは口をへの字に曲げて思案に耽ってしまう。一方でケイジは追及の視線から解放されたことで安堵を滲ませていた。
「確かに女王が何なのか、それを知るのが先だ。……俺の母親については、全てが終わってから話してくれ」
クロが選択を口にし、緊張から解放された之江が息を吐く。白井は聞き耳を立て、七隈はアクセルを踏む力を少しだけ弱める。シロも一瞬だけ恨めし気な視線を之江に向け、それを悟られまいとタバコ臭いシートに身を沈める。
誰もがケイジが語り出すのを待っていた。
自分たちを待っている敵は、どんな存在なのかを少しでも知るために。




