Ⅴ-11
「いいから、早く行け!」
ほんの数秒前まで浮かべていた余裕を一気に振り払い、ケイジはクロに怒鳴りつける。「好きなタイミングで……」という本人の言葉をあっさり覆す怒鳴り声に尻を蹴り上げられたクロは、追い風が止まない内に『加速』を使ってAFの横を通り抜けようとする。
だが、そんなクロの予想進路に長く太い何かが叩き付けられ、破片が巻き上がる。砕かれたエントランスホールの床は枯れた河川の底のように罅割れ、元のタイルの分け目など少しも残っていなかった。
落ち着いて進路を変えるも巻き上がった破片の突破に阻まれたクロは、渋々と態勢を立て直すためにケイジの傍まで戻ってくる。
「足止めはどうした」
「多分……って言っただろ。それに足止めと安全な突破はイコールじゃないぜ」
「詐欺だな」
「解釈の違いと言え。第一、俺の『魔法権利』はこの程度が関の山なんだよ! お前たちみたいに無駄に強力だったり無駄に応用が利いたりしねーんだよ!」
八つ当たり染みた主張をぶつけながらも、AFの身動きは未だに縛られている。
腕と上半身、そして尻尾――機動力を封じても、敵に『魔法権利』がある限り突破は困難であった。
「先にあいつを殺れ、クロ。どの道、あいつがいる限りヘリは呼べねぇんだ! 欲張るもんじゃねーな、全く!」
「分かった」
ケイジの指示を受け入れ、愚痴を聞き流し、クロは<アプレーター>を抜き『加速』を使うも、今は一気にAFへと詰め寄ることはせず、あくまでも慎重に間合いを計っている。天井に向けて飛んだ時や駆け抜ける時とは違い、今度は適切なギアを入れアクセルは必要なだけしか踏み込まない。万全の態勢で臨んだならば、自分が遅れを取ることはないのだとクロは信じていた。
このAFの攻撃は、単純で単調だ。『魔法権利』を含めて見ても、射程距離と破壊力がある打撃で、それしか攻撃方法がない。つまりは懐まで入り込んでしまえば、少し力の強いだけのAFだ。
ジリジリとプレッシャーを与えながら詰め寄る様は、まるでネコ科の狩りのそのものであった。彼らは獲物の隙を見逃さず、鋭い牙や爪を使って喉元や急所に喰らい付く。クロも、同じことをしようとしている。
着実に距離を詰めつつも一向に仕掛けて来ないクロに対し、痺れを切らしたAFが鞭のように長く強かに変質させた両腕を振るう。別々の軌道から、ずれたタイミングでクロに襲い掛かる
最初の一撃は、頭部を狙った普通の打撃だ。ただ普通というのは軌道が普通なだけであり、命中すれば人間の首から上はゴルフボールと同じように飛んで行ってしまう。クロは軽く姿勢を下げて、一撃必殺の威力の籠った攻撃を躱す。掠ったクロの短髪が数本だけ宙に舞うが、それがギリギリの回避だったのか、必要最低限の回避だったのかを見て判断出来る者は本人以外にいない。
攻撃を避け、更に距離を詰めたクロにやっと二撃目が到達する。最初より低い軌道を進む鋭い攻撃をクロは跳躍して躱す。クロにとっての空中は、陸上の短距離走の選手にとっての水中と同じだ。基礎スペックで圧倒している為に一般人より自由自在に動き回れるだけで、専門家や外部から眺める人が見比べるとその差はほぼない。当然、対峙するAFから見ても宙に浮いている間は権利者と一般人の違いなど、誤差程度だ。
事実クロは空中で一度このAFに迎撃され、壁の一部を大きく崩している。
逃げ場のない空中に身を置くことは悪手である。だが、あの場で迫られた選択肢が二つしか存在せず、攻撃を受け止めるよりは遥かにマシだと判断したからこそ、クロは上に逃げた。もし跳ばなければ、クロの体は再び壁を壊していただろう。
宙を舞うクロと足の動かせないAF、両者のの距離はお互いが手を伸ばせば届くほどに近く、最後の一歩を踏み込まなければ届かないほどに遠かった。
「ギシャアアアアアアアアア!!」
懐に入られたら勝機は薄い。怯まず前に進むクロの姿勢からそれを察したAFは、せめて有利な状況――クロの足が地に着く前に叩こうと伸ばしていた右腕を少しだけ縮め、コンパクトに振り抜く。
「単調だ」
その腕をクロは難なく蹴り、蹴られた腕はクロの代わりに宙を舞う。
「すげぇな……!」
クロの鮮やかな技巧をただ一人目にしたケイジは、口笛と共に感嘆の声を上げる。クロの蹴りは『加速』でその鋭さを増しているが、蹴り単独で腕を切り飛ばせるほど強くはない。
クロが使ったのは、腰ベルトから抜いた一本の投げナイフだ。彫刻刀のような形状のナイフの先端を腕に合わせ、蹴りの力を一点に集中させることで切断出来るほどの威力を生み出したのだ。
そして切断された腕が地の落ちるより先に、クロはAFの懐に飛び込んだ。
「二本目はいらない。そっちを頂く」
今度は投げナイフではなく、<アプレーター>をAFの喉元に向けて突き上げた。
ギンッ! と金属音が響き、<アプレーター>を握ったクロの腕が途中で止まる。<アプレーター>が突き刺さった先は首ではなく口であり、その歪で野太い刃を裂けた右頬から覗かせていたはいたが刃は上下の歯によって完全に押さえられていた。
「――――ッ!」
クロは腕に力を籠めるが、<アプレーター>はピクリとも動かない。相手も必死だ。これに自由を与えたら、次は自身の喉元に向かって飛んでくるのだから。
力の均衡は、両者に一瞬の猶予を与える。
「離してくれ、これは俺のナイフだ」
睨み合いを続けながら両者はその猶予を費やし、合図が落ちてくるのを待つ。
「それとも、欲しいのか?」
クロは返事など期待していない。仮に返事があったとしたら、その時点で合図は必要ない。しかし現実はただ穴の開いた右頬から血と息が漏れているだけだ。
クロの独り言は、決意への誘導だ。大切な相棒の一本を犠牲にする決意だ。
そして決意の言葉と同時に、AFの右腕が地に落ち湿った音が両者に届く。
「なら、くれてやる!」
クロは無造作に<アプレーター>を押し付け、指を広げそれを手放す。AFも同時に行動を始め、その手始めとして長く伸ばした尻尾で背後の闇を掻き回していた。それに何の意味があるのかは分からない。クロは一応相手の行動を警戒するが、それによって自らの行動を変えることはしない。そんな余裕は残っていないし、変えるほど複雑な手順を踏む行動でもないのだ。
クロの選んだ行動は、ジャケットの袖に仕込んだ投げナイフを左腕で握りしめAFに突き出すだけである。
クロの思惑通り、『加速』の恩恵を受け投げナイフはAFの首深くに突き刺さった。
しかしクロの表情は依然として暗く、失態への悪態と共に次に手を伸ばす。
もし仮に突き刺したナイフが<アプレーター>ならば、その傷口は河川のように大きくなっていた。もし仮に突き刺したナイフが<霧肌>ならば、その首は半分以上が分離し瀑布のような血液を撒き散らしていた。
だが突き刺したのは投げナイフ――それも隠し持てる程度の刃しか持っていない、使い捨ての投げナイフだ。傷口は用水路程度にしか広がらず、撒き散らす血液の量は精々貧相な蛇口から注がれる水道水だ。
速さと安定を重視した結果が、この有様だ。<アプレーター>と<霧肌>、その両方を失ってしまえばクロは満足に戦えなくなる。対峙した敵を倒す前から、これから戦う敵の影を追ってしまっていた。
しかし、それは敵のAFも同じであった。
AFの長い尻尾は打てる筈のクロを打たず、無人の天井を襲う。銃弾が穿った天井を更に削り、クロが<霧肌>を握り終えた頃には崩落が始まっていた。
ちょうど崩落は、両者の頭上に位置していた。
「クロ、下がれ! 拘束が解け――――」
そんなケイジの忠告を最後まで耳に入れることをせずにクロは<霧肌>を振るう。いや、振るおうと腕を振りかけた所で止まってしまう。目の前に<アプレーター>が迫っている状況では、止めざるを得なかったのだ。
顔に向かって飛んでくる<アプレーター>はAFの口から吹き出され、それをクロは友人から投げ渡された缶ジュースのように気軽に掴み取る。
「くそっ!」
掴み取れたが、そこから次に繋がらない。<アプレーター>の後には、灰色の頭部がすぐそこまで来ているのだ。
ナイフ、頭突き、天井の崩落。一つずつは大した脅威ではないが、連なると『加速』だけでは対応可能な範囲を超えてしまう。<アプレーター>と<霧肌>を手にしたクロならば、迫る頭部を輪切りやミンチにすることも出来る。しかし待っているのは崩落に巻き込まれる未来だ。降り注ぐ破片の中では『加速』は使えない。万が一殺し損ねたら、手痛い反撃を喰らうことになるからだ。
クロは、追いつめられていた。
追いつめられること自体は珍しくない。『加速』の恩恵で他人より時間の余裕があるクロは、それだけ思考に時間を回せて行動をギリギリまで遅らせることが出来る。裏目に出ることは多々あるが、それは相手が一枚上手なだけだ。巻き返す時間も、当然多く残されている。
これから経験を積んでいくことで、クロは更なる高みに上ることも新たな選択肢を見つけることも出来る……が、それは今ではない。
「くそっ!」
結果として経験と安定行動を探し出しても、タイムリミットまでにクロは選択をし切れなかった。消去法で行ったのは頭突きを受け、相手の力を利用して背後へ逃れるという実に消極的な回避行動である。ナイフを握ったまま両腕を顔の前でクロスさせ、緩衝材にする。怪我や痛みに耐性があっても、脳が揺さぶられては立っていられなくなる。戦場において身動きが鈍らせると、自身だけでなく周りも危険に巻き込むことになる。
それを知っているが故、それだけは避けようと躍起になる。
『魔法権利』というオンリーワンと集団で圧倒するAFが蔓延る戦場で、均一化された行動指針と装備を均一化した一般兵士だけでは、本来の有用性を十分に発揮できない。大切なのはAFの探知と継戦能力を維持出来る権利者の確保であり、その代役は同じ権利者にしか務まらない。
もし敵を倒せる可能性が薄いのなら、倒せても負担が大きくなるようならば、権利者は撤退という択を選ばなければならない。そうしないと、友軍の死ぬ可能性が跳ね上がるのだ。
クロはそう自分に言い聞かせながら、迫る勢いに合わせて背後へ身を任せた。
安易な選択をしてしまった自分への言い訳に、仲間の無事を使って。




