Ⅳ-3
「おい、喜べ。まだ九州からは出れないが、ここからは逃げられるぞ」
「どこに連絡したんだ、ケイジさん」
開口一番、戻ってきたケイジが告げた言葉に疑問を呈したのはクロであった。クロの雰囲気に釣られてなのか、周りの反応も鈍いままである。
「軍属時代の知人で、それなりに出世してるやつが数人いるんだよ。その中の一人……碓氷って奴がが条件付きで輸送ヘリ寄越してくれるらしくてな」
「俺の人脈に感謝しろよ」と胸を張るケイジの言葉をそのまま受け取り喜色を浮かべる者はいたが、それでも表情を変えない――もしくは更に暗くなる者もいた。
「……妻と息子の安否が分からないのに、俺だけ逃げていいのか?」
茶山に罵声を浴びせていた大人の一人が自問する。助け舟が視界に捉えてから初めて足元を確認する男に、一同は嫌な顔を隠さない。自問すること自体は悪くはないが、それを口に出すのは良い迷惑だ。助け舟を出す方にとっても、出される方にとっても。
「その程度、黙って自分で考えればいい」
無表情のままクロはそんな自問を横から一蹴し、ケイジの続きを促す。
「それより条件とは何だ?」
ケイジは待ってましたと言わんばかりに笑顔を浮かべて、ゆっくりと指を向ける。
「お前だよ、茶山。お前がいるなら、有象無象も一緒に回収してもいい――と」
ケイジの言葉に合わせて視線が茶山に集まる。『魔法権利』――大人たちにしてみれば妙な力――を持つ茶山の身柄は軍の、更に言うなら国や人類の戦力になる。大多数の放棄が決定済みの前線で浪費してしまうのはあまりに惜しい。回収可能なら、それに越したことはない。そういった意味合いを込めての言葉であった。
皆の視線が茶山に集まる中でただ一人、三峰だけが視線をクロに合わせていた。それに気づいたクロは人差し指を口に当て、無言で簡潔に伝える。余計なことは言わない方がいいと。
「それで、ヘリの到着は何時になるんですか?」
クロから視線を逸らした三峰が、無難な質問をする。
「島原湾にいる艦艇から飛ばすらしいから、多分そんな掛かんねーぞ」
ケイジはあっさりと答え、パンパンと手を叩いて行動を促す。
「ほら、シロ以外の寝てるやつ起こしな!」
促された者たちは、促されるままに行動へと移っていく。クロと三峰はお互いの手に握られている小さな箱を見つめ、ただ肩を竦めるしかなかった。
ババババババッ、と屋上に響くヘリのローター音を聞きながら、シロは満足そうな笑みを浮かべてクロに体を預けている。クロも一切抵抗することもなく、満更でもない様子でシロの言葉に従っていた。
「お兄さんたち、あの二人って本当に兄妹?」
降りてきたヘリに乗らず、茶山は率直な意見を求める。
「えっ、兄妹なんですか? 似てないからてっきり恋人か相棒的な何かなのかと」
「あいつら兄妹だけど義理だぜ、義理」
昔馴染みのケイジが二人の関係を明かす。それを聞き、妙な感動を覚える二人。義理の兄妹という存在を、生まれて初めて目にしたのだ。
「じゃあさ、こーいう関係って可能性もあんのか?」
茶山は小指を立てクロとシロの関係を尋ねる。
「その表現、ちょっと古くないか? お前、まだ十代前半だろ」
「でも、あの様子を見ると恋人ってよりは兄妹が近い気もしますね」
三峰の一言で、三人の視線は再びクロとシロに集まる。クロはいつもの飄々とした立ち振る舞いで、シロは幸せそうな雰囲気で好奇の視線を受け流していた。
「兄妹ってよりは、飼い主と猫だな」
ケイジは小さく笑みを浮かべて三峰の評価を上書きし、その言葉は三峰と茶山を納得させる。ケイジの言葉は二人の関係を示すには不適切であるが、二人の行動を示すにはこれ以上なく的確であった。
「くーろー、もうちょっと続けてー」
脱力し切ったシロの我儘を、クロは無表情のまま受け入れる。シロの自慢で綺麗なそれにクロが指を入れていく。それを繰り返すごとにシロの体から力が抜け、口からは気持ちよさそうな声が漏れる。
「そこそこー、もっとゆっくりていねいにー」
クロもその言葉に応えようと、ゆっくり丁寧に手を動かす。
そんな二人の様子を眺める男三人の内の一人、茶山が疑問を口にする。
「…………そんなに良いもんなの?」
しかし残りの二人も他人に弄られた経験などなく、首を捻る。
「普通、あんまり弄りませんからねぇ……」
「だよな。男だし、俺たち」
三人は揃ってシロのそれと、自分たちのそれを比べる。街行く人にどちらが優れているかを尋ねると、十中八九を余裕で超える割合で男三人が負けてしまう。極僅かに存在する特異な人物ですら、恐らくシロを選ぶだろう。それほどの差があった。
「――――と言っても、女性と比べても仕方ないですよ。髪なんて」
三峰は自分の短い頭髪をわしゃわしゃと触る。他の二人も首肯し、無意味な比較をやめて目の保養に努める。
「……綺麗だよね、シロお姉さん」
ボーっと見惚れる三人を妨げる者はいない。寧ろ既に他の皆は、男女問わず朝日を浴びて白銀に輝くその髪に魅了されていた。
シロは二日ぶりに結んでいた髪を解し、その手入れを膝枕の代わりとしてクロに要求した。クロは特に悩む素振りもなく了承し、その結果が今の状況だ。
元々手先が器用なのか、それとも慣れているからなのかは分からないが、クロは筋肉質で硬い手に似合わない櫛を持ち、シロの繊細で柔らかい髪を梳き解していく。ただ時折、朝日を浴びて輝く白銀の髪から目を背ける。
「……いつもより眩しい」
「ふふっ、そう? 気のせいじゃないかな」
いつもと比べ物にならないほど上機嫌のシロと徐々に痛くなってくる周囲からの視線を考慮して、クロは終了が近いことを告げる。
「今日はどんな結び方にする?」
「任せーる」
任せられたクロは心の中でため息をつきながらも、シロのお気に入りのちょっとだけ手の込んだ編み込みを施していく。
本人にその自覚はないが、クロもシロに負けず劣らず上機嫌であった。
昨夜は生死の淵に立たされ、茶山と大人たちの諍いの間に立たされ、巨大な障害となる敵が残っていて……、そういったことを全て考慮して尚、シロが目の前にいれば心が安らぎ活力が漲るのだ。
鼻歌は歌はないし、表情に出てくることもない。だが今この瞬間にクロの気分は最高潮に達していた。
「完成。どうだ?」
「うん、良い感じ。ありがと」
シロは手を伸ばしながら感触を楽しみ、背後に立つクロに寄り掛かる。
「本当に、色々とありがと」
「俺は大したことはしていない」
クロは寄り掛かってくるシロの体を優しく押し返し、ゆっくりとその場を離れ茶山たちが乗るヘリの方へ向かう。
シロはベンチに座ったまま、クロの姿を見送った。
その整った顔に浮かぶもどかしさに、背を向けたクロが気付くことはなかった。