Ⅳ-1 それを寄越せ!
ポタ……。
頬を濡らした一滴の雫が、クロを現実へと引き戻す。
「…………シロ」
開いた視界の真正面にはシロの顔があり、うとうと眠そうな瞳でこちらを見下ろしていた。そして一瞬だけ涙かと思いシロの顔を眺めるが、自分の居場所と粘着質の雫の出所を理解して、呆れながら重たい体を持ち上げる。
「……ん、……クロ、おは…………」
シロはおぼろげな声で呟き、沈む意識に合わせて太ももにいるクロの頭に覆い被さってしまう。
「シロ、目を覚ませ。体を起こせ」
「…………、……んんぅ」
そのまま寝息をたて始めたシロに、クロは焦りを覚える。AFに強く掴まれた肩の関節は外れ、強化型の治癒力を以てしても万全には程遠い。その証拠に、シロの体一つ押し返すことが出来なかった。
シロの温もりを感じながら、クロは目を閉じ『加速』を使う。意識して力を肩に集めて治癒に充てる。意識がない時でも回復は進む。それを考慮したなら、時間はそれほど掛からない筈だ。
「……おねーさん、それだと窒息しちゃうぜ」
シロの体の向こうから声が聞こえ、その声の主が肩を揺らしている。それに反応したシロが体を起こし、やっとクロは柔らかい圧力から解放される。
「ん……ごめ……ってクロが起きてる!」
クロの目の下の印を見た瞬間、シロのうとうとした雰囲気は消し飛んで、活力に満ち溢れた姿に早変わりを遂げた。それでも活力が行動として表れないのは、クロが未だにシロの太ももの上にいるからである。
流石のクロも衆人環視の中で膝枕をされるのは恥ずかしく、なんとかしてこの状態から脱却しようとシロに頼み込む。
「シロ、よければ俺の体を起こしてくれ」
「なんで?」
「体が動かないからだ、頼む」
「動かないって何分くらい動けないの……、まさか大事な骨とか逝っちゃった?」
途端心配そうな顔をするシロに、クロは気まずそうに「いいや」と告げる。安堵を顕わにしつつ、「ならいいでしょ」とシロもクロの要求を却下する。こちらを見ながらコソコソと話すケイジと茶山の視線に晒されながら、治癒に専念するしかなかった。
治療に専念しようと目を閉じたが、不意に一つの疑問が浮かび上がる。
「三峰はどうした?」
自分にシロ、ケイジと茶山、一人足りないのだ。
夜空は薄らと明るく染まり始め、今まさに朝を迎えようとしていた。それとは対極に集まった面々の顔は暗く、誰一人として答えようとはしなかった。
クロは覚悟して「ダメだったのか?」と切り出す。だが、――――
「ダメと言えばダメだが……」
「うーん、ダメじゃない……筈?」
言葉を濁すケイジとシロからの返事を聞き、クロは人伝に知ることを諦め、軋む体を強引に動かし立ち上がる。寂しそうに瞳で追い縋るシロを尻目に、改めて周囲の状況を確認する。
屋上にはAFが暴れた爪痕が所々に残り、潰れた自動車と不自然な街路樹数本が先の敵の恐ろしさを体現していた。それらの合間を縫って大きめのベンチが並べられ、そこには見覚えのない顔が数人、体を寄せ合って座っていた。
「あの人たちは、モール内にいた人の生き残りだぜ。全員一般人」
クロの視線に気付いた茶山が補足し、こちらの反応を待たずに肩を竦める。
「……軍のお兄さんがいないのは、あいつらが無茶言ったからだ」
茶山は声を抑えながら、クロが寝ている最中に起こった出来事を教えてくれた。
結論から言うと、三峰は無事らしく今はショッピングモール内で生存者探しをしているらしかった。『軍勢』で囲っていた人々から溢れた寄生型AFは、屋上を襲った成長型を撃退した直後に意識を取り戻したシロの『閃光』で焼き払った。そして比較的無事だったシロとケイジの二人でモール内を一通りは探索し、助けた生存者が彼らである。
そして彼らは屋上に到達するや否や、茶山に罵声を浴びせた。
「助けるのが遅い」や「昨日は無事だったのに!」などと好き放題を叫び、ケイジを激怒させ、最終的にその皺寄せが軍属の三峰に回ったらしい。それ以後、三峰はモール内の地獄のような光景に足を踏み入れ戻ってきていない。
その役割を作り出した当人たちは寝息を立て、役割を押し付ける形になったシロとケイジ、茶山は負い目を感じ言い出せなかった。
「生存者は残ってないと思うぞ。声を張り上げて歩き回ったからな」
うんざりした顔のケイジが、その徘徊で助けた人々へと目を向ける。ケイジも屋上を襲ったAFの一撃を受けたらしく、頭に巻いた包帯には血が滲んでいる。
「AFもいないわよ。かなり念入りに気配探って焼いたから、小さな寄生型一匹たりとも残ってないわよ」
自信満々で誇るシロの言葉を茶山が肯定する。
「なら、俺が三峰を拾ってくる」
三人の情報を統合するなら、三峰はかなりの徒労を強いられているらしい。こんな通過点の一つで、無闇に疲労を積み重ねるのは得策ではない。
「私もいく」
「却下だ、シロ。少しは寝て休め」
このショッピングモールを訪れた本来の目的は、他の権利者の築いた安全な休息場所の間借りである。その代償がそれなりの負担を要した戦闘になっただけで、その戦闘を理由に休息を取らなかったのであれば、ただの疲れ損になってしまう。
その目的を理解し追従してきたからこそ、シロは何も言い返せなくなる。シロ自身も疲労が溜まっている。重い体が嫌と言う程それを教えてくれるのだ。
「なら戻ってきたら膝枕か腕枕してね、約束よ」
シロはそうとだけ言い残し、返事を待たずにベンチの一つへと歩み去って行った。
置いて行かれたケイジも大きな欠伸をしながらシロの後を追い、茶山もそれに続こうと体を動かす。だが、――――
「茶山、少し話がある」と、歩き始めた茶山の背中をクロが呼び止める。
強張った表情のまま振り返る茶山をクロがひょいひょいと手招きをする。その可愛い仕草と裏腹に顔は無表情のままであり、有無を言わせない雰囲気に、茶山はただ従うしかなかった。
「…………三峰?」
ショッピングモールの一階。焼け焦げた死体に囲まれるように、三峰はベンチの一つに腰かけて呆然と前を見つめていた。
「三峰、無事か?」
「ああ、クロさん」
至近距離まで寄って初めて、三峰はクロの存在に気付く。だがその表情は虚ろで、瞳は思案で濁っていた。どうやら三峰は救出した人々の我儘に従ったのではなく、一人で落ち着ける場所を求めてここまで降りてきたらしい。
クロは三峰の隣に、一人分だけ距離を開けて腰かける。
元々口数が少ないクロと独りで思考を巡らせていた三峰――妙な沈黙で満たされた空気が二人を包む。
「クロさん俺……、一緒に行かない方が良かったかもしれない」
先に切り出し、その空気を破ったのは三峰であった。クロは沈黙を保ったまま続きを促すが、三峰はそれに応えない。
二人が踏み込んだのは、AFの蛮行を受けた地獄の跡地だ。二人以外で動くモノは存在せず、何も誰も二人に話し掛けることはない。沈黙を維持し続けるのならば、それは永遠に終わりを向かえない。
静寂が二人を包むが、「まあいい」と今度はクロが切り出す。
「そろそろ戻るぞ」
しかし切り出した言葉は、斜め上であった。キョトンとした三峰が、率直な疑問を口にする。
「え、いや……、尋ねたりしないんですか?」
「俺は愚痴を聞くために来てはいない」
クロの正直な言葉に、三峰は思わず顔を綻ばせてしまう。その実直な返答には、もう笑うしかなかった。
「まともな反応は出来ないが、それでもいいなら聞くぞ」
「いや、いいです。俺も愚痴なんてどうでも良くなりました」
三峰は息を吐き出すと、ぐっと力を入れて立ち上がり、座ったままのクロに向けて言い放つ。
「代わりと言っちゃなんですが、俺の『魔法権利』見てみませんか?」
その一言に口を開きかけるが、クロは無言で促す。三峰もそれに応え、『魔法権利』を放つ対象を選び、近づいていく。
三峰が触れたのは、大きなガラスであった。
「一瞬ですよ、見逃さないでください」
三峰はガラスに触れたまま外に満ち始めた薄明りと向き合い、クロは目を凝らし、固唾を飲んでその姿を見守る。
瞬きの合間――文字通りに一瞬で、三峰の触れていた窓ガラスは崩れ去った。
クロは瞬きもせずに眺めていた。だが、ガラスと窓枠の組み合わせが窓枠のみになるタイミングを捉えることが出来なかった。
「これが俺の『魔法権利』――『拡散』です」
『拡散』という言葉を反芻させながら、吸い寄せられるように三峰へと近づく。そして共に窓枠の下部分を注視する。
「粉状……になるのか?」
「そうみたいですね。意識して触れれば、跡形もなく消せます」
今度は窓枠で実演する。当然、正常に機能した『拡散』は窓枠を散らせてしまう。
「これで俺も、少しは戦えますね」
お気に入りの玩具を手に友達の家に遊びに行く前の子供のように、無邪気で自信に溢れた表情をする三峰に、クロは怪訝な顔をする。
「三峰、戦いは俺とシロに任せろ」
唐突で強引な物言いに今度は三峰が眉根を寄せるが、クロはそんな三峰などお構いなしにずけずけと続ける。
「使い慣れるまで『拡散』の存在は伏せた方がいい。危険だ」
玩具を取り上げられた子供のような不満が三峰を包む。『魔法権利』は強力な武器となり、軍人にとって武器とは、強力な力とは存在意義に直結する。
「何故ですか?」
なので当然、三峰はそれを差し止めるに足る理由をクロに求めた。
クロは戦わせたくない理由と隠す理由――どちらから話すべきかを逡巡し、具体的な説明が可能な前者を選ぶ。
「まず『魔法権利』は、万能の武器足り得ない。例えるならナイフに似ている。素人が相手なら振り回すだけで威嚇になるし、致命傷を与えるのも容易だ」
クロは再びベンチに座り、頭の中で順序立てを行い、それを口に出していく。
「だが訓練を受けた相手やより射程距離のある武器――例えば銃を持った相手、そして数の暴力に、ナイフでは手も足も出ない。見た感じだと『拡散』の発動は接触が条件になっている。これは権利獲得初期では大きなデメリットだ。体捌きを身に付けない限り、十全の力は引き出せない」
三峰は一言も発せずに、饒舌になったクロの話に集中する。
「例えば成長型AF三匹に囲まれたとしよう。今まで小銃と僅かな人間相手の近接戦闘を嗜んだお前が、三方向からの攻撃を往なしつつ、的確な順番によって敵を吹き飛ばすことが可能か? ……途轍もない近接戦闘の才能を秘めている可能性を考慮しないなら、答えは不可能だ」
言い漏らしがないか反芻し「以上が戦わせたくない理由だ」と、締める。三峰は憮然としながらもこの説明で納得し、次は隠す理由についてを教えてくれと乞う。
クロは少し悩んだ後、「……詳細は、後でケイジを交えて話す」と切り出し、一言だけを簡潔に告げる。
「隠さなければ、人類が敵になる」
飾り気もなく結論だけを伝えたクロは、立ち上がって屋上を目指し歩き出した。
三峰もその一言を反芻しつつ、クロを見失わないように背中を追った。