Ⅲ-7
エスカレーターに積み上げられた死体の山を前に、十代前半の茶山は青い顔をしつつも役割を果たしていた。
「いるいる、間違いなくいる。上にも下にも気配はあるぜ」
茶山の言う上とは屋上のことで、下とは死体の山のことである。
あの成長型AFの目的は、時間稼ぎで間違いなかった。吠えたもう一体が屋上に辿り着くまでの時間と、エスカレーターに物理的かつ精神的に有効な壁を作る時間を稼ぐのだ。
AFは倒したものの、結果として時間は稼がれ、二人はここで足止めを喰らっていた。
「ここは通れない」
クロは他人の死体に気を取られるような性質ではない。だが、積み重なった死体に足を取られる可能性は十分にあった。
ここに積み上がった死体の多くはAFに食い破られたモノである。その死体の特徴として有名なのは、中身がないことである。AFは蛹が羽化するが如く、食い破る部位以外の外観をそのままにして出てくるのだ。
つまり死体は空洞――迂闊に踏み込めば死体に埋まることになる、
死体の沼だ。嬉々として踏み込む者は、まずいない。
「なら階段から行けばいいじゃん。ほら、そこにあるよ」
茶山の指差す先には、確かに階段らしきモノが見えた。その指摘に驚きを浮かべるクロに、茶山は呆れながらも補足する。
「普通はエスカレーターだけってことはないって」
「そうなのか、知らなかった」
クロは物心ついた時から、このような商業施設を訪れたことがない。それを告げると茶山は可哀想なモノを前にした時の視線を向ける。十代前半、人生経験の少ない茶山には、何故そうなったかの想像を膨らませることも、それ以上の対応を取ることも難しかった。
「お兄さんと一緒で、きっとあの化け物も初めて来たんだよ」
「そうだな」
頑張って冗談を言ってみたものの、クロの表情はピクリとも動かなかった。
この冗談を、茶山はすぐに後悔することになる。
そう、後悔だ。
こんな冗談を飛ばすくらいなら、もっと急いだ方が良かった――――と。
屋上に辿り着いた二人の目に飛び込んできたのは、三峰の首を掴み持ち上げていた銃痕のAFの姿であった。
その腕から逃れようと必死の抵抗を続ける三峰を無視し、クロと茶山を見定めるように眺めるAF。そんなAFを無視し必死にシロを探すクロ。隙あらば『警告』を撃ち込もうと身構える茶山。
彼らの中で最初に行動を起こしたのは、クロである。
「――――ッ、シロ!」
クロがシロを見つけ、駆け寄ろうとしたのである。
シロはガラス製の自動ドアの下に蹲ったまま動かず、ガラスには大きな蜘蛛の巣のような模様が描き出されていた。
だが、クロはシロまで辿り着けなかった。
『加速』まで使いシロに駆け寄ろうとしたクロだが、突然にその体が傾く。傾いた先にはAFが手招きをしている。シロが心配で仕方ない筈なのに、クロの体はまるでAFとの戦いを優先しているようである。
事実クロは『加速』を維持したまま、直線的にAFに仕掛けるしかなかった。
AFはそれを予見していたかのように三峰をクロに向かって投げ、自身はシロの方向へと走り出す。
「チッ!」
クロは無意識に舌打ちをする。
いつもなら投げられた三峰を避けるのは容易い。だが、ここで避けるには『加速』した速度を落とす必要がある。『加速』した速度を落としたら、AFに追いつけない可能性が出てくる。
三峰を受け止めるか……?
いや、それはダメだ。三峰を受け止めると結局速度は落ちることになる。ならいっそのこと三峰を方向転換に、ああ、時間が――――
「くそっ!」
最終的にクロは、三峰を受け止めてしまった。そして可能な限り速度を落とさないように、体を半回転させ地面に三峰を滑らせるようにして離す。
そして方向転換を終え、更に『加速』を重ねようとしたクロが捉えたのは
「や、やめっ――――」
シロの小さな頭を踏み抜こうと足を上げたAFの姿であった。
そして大きな西瓜を落とした時のように、砕け、中から新鮮な赤が飛び散る――そんな期待をしていたのは、言うまでもなくAFのみである。
この屋上でそれを望まず、それを妨げる力を持った人間が幸運にも存在していた。
鋭利な風切音を伴ってAFの足に突き刺さった『警告』が、振り下ろす軌道を強引に変え、結果としてシロの頭を逸れて罅の入ったガラスを完全に砕くだけで終わってしまったである。
「好き勝手してんじゃねーぞ!」
AFは『警告』を放った茶山を一瞥し、目的を果たそうとシロに手を伸ばす。
「触るな!」
そこにクロの蹴りが突き刺さる。刺さるような蹴りを喰らったAFはそのまま数回地面を跳ね、軽自動車をクッションに止まる。何事もなく起き上がったAFは、数回頭を振り動かして止まる。
一方クロは蹴り飛ばした相手など眼中になく、即座にシロの状態を確かめていた。
「……にしても、本当に気味が悪いぜ」
茶山の一言は異様な雰囲気を纏うクロに向けられたモノではない。死んだように動かないで、二人の様子を眺めるAFに向けて発したのだ。
クロの意識はシロに、AFの興味はクロとシロに注がれていた。
そのAFの意図が読み取れないからこそ、茶山はただただ気味が悪いとしか感じ取ることが出来なかった。
「…………ん?」
状況に動きがないにかかわらず、『警告』が何かに反応する。同じく何かを感じ取ったのか、クロもシロから目を離しAFを注視する。
その様子に満足したのか、AFはゆっくりと立ち上がり手招きする。
まるで、クロを挑発するかのように。
そしてそのあからさまな挑発に、またしてもクロは乗らざるを得なかった。
但し今度は慎重に、急な『加速』をせずに距離を詰めていく。AFもそれを十分に警戒しつつ、隙あらばいつでも仕掛けることが出来るように構えている。
間合いを測る両者、先に仕掛けたのはAFであった。
身近にあった車のサイドミラーをもぎ取って、それを全力で投げつける。
「この、いい加減に――ッ!」
AFが狙ったのは、またもシロである。ある程度予見出来ていたのか、クロは『加速』を使って難なく叩き落とす。
そのままAFに詰め寄ろうとしたクロは、自分が罠に嵌められたことに気付く。
「やはり、持っているのか!」
愚痴を吐き捨てつつも、『加速』を使ってAFとの距離を詰める。
しかしAFの選択は、逃げであった。クロを可能な限り寄せ付けないように直線上には立たず、車を乗り越え盾にして移動する。
クロはの移動速度は次第に速くなる。だがその動作は単調で、キレがない。
「――――ウグァ!」
それでも尚、速さは絶対の優位性を誇っていた。ついにクロはAFを捉え、速度を維持したままAFの体を壁際に――屋上の縁に押さえつけ、装着した銀の爪を相手の体へと突き立てる。
そして突き出した腕を左右に広げ、外殻ごとAFの胴体を引き裂いた。
外殻は無惨にも引き裂かれ傷は奥の肉体にも届いていたが、AFの巨体を止めるには全く足りていなかった。
止めらない『加速』を続けるクロに逃がす間を与えず、AFは易々とその両肩を掴み鋭い爪を立てる。
「――――ッ!」
トラックに踏まれた時のような感覚がクロの両肩を襲い、その激痛に顔が歪む。抵抗しようとAFの両腕に手を掛けるが、肩関節を押さえられ力が入らず、更にその隙を付いて体重を掛けられ、クロは耐えきれずに膝を付いてしまう。
跪くクロに、AFが鉛色の顔を寄せてくる。
愉悦を浮かべるその顔に、唾を吐きかける余裕など残されてはいない。
「『加速』が……、何故……ッ!」
クロの『加速』――その強みは、単純な速度ではない。常識外れの速度が可能にする多彩で多様な体捌きである。車のギアとアクセルの関係と同じで、望む速度に合わせてギアを変えていく。速度を落として戦いたい時は低いギアで、上げて戦いたいときは高いギアで、必要なだけアクセルを踏み込むのである。
故にギアチェンジを封じられ、アクセルを踏み込んだまま固定された状態での勝算は、限りなく薄くなるのだ。
その状態を強いる力をあのAFは持っている。クロは確信する。
不可能を可能にする力――常識から大きく外れた力は、今の世界には存在する。
このAFは、『魔法権利』を持っている!
咆哮を上げた時から、薄々とその予感はしていた。AFの咆哮に、寄生型の成長を促進させる効能などはないが、『魔法権利』を使ってそれを可能にしたとの報告は研究施設から届いている。
『魔法権利』を持つAFの存在も、関係筋では既に知れ渡った情報だ。
そしてAFと異なり『魔法権利』の保持者を探し出す一般的な方法は、まだ確立されていない。
つまり『魔法権利』を持つAFとの遭遇は、性質の悪い事故なのだ。
「クロォォ! 避けろぉぉおおお――――ッ!」
人間社会にも、性質の悪い事故はある。恐ろしく、そして唐突な事故が――。
クロはほんの少しだけ残った力を『加速』させ、体を持ち上げる。意識を別の場所に集めていたAFは反射的に抑え込む力を強め、それに合わせて体を逸らして拘束を解き、相手の膝を蹴ることで離脱と意趣返しを同時に行った。
性質の悪い事故――交通事故だ。
バランスを崩したAFが、タイヤを滑らせながら突っ込んでくる車を避ける術など持っている筈もない。クロを苦しめた成長型AFはコンクリートの縁を破った車と共に、夜の暗闇へと消えていった……。
「……やったか?」
間一髪で運転席から飛び出したケイジが、伏せたまま車が突き破った一点を見つめる。その一点に茶山が駆け寄り、索敵で生死を探っていた。
ケイジのおかげで九死に一生を得たクロは、仰向けのまま動くことが出来なかった。
ただ遠のく意識の中で、『加速』が鎮まるのを感じていた。