Ⅳ-3
終戦条約の調印、翌日の建国式典は滞りなく終わり、肩の荷の下りた参列者たちの多くは絢爛豪華なパーティで存分に羽を伸ばしていた。当然戦争が終わったらそれで全て終わり……などと言うこともなく、明日の外交を有利なモノにして利益を祖国に持ち帰ろうとする者も沢山いた。
「…………」
有名企業の重役からメディアで見覚えのある各国の大臣たちがグラスを手に取り、平和な日を迎えた素晴らしさを語りながら腹を探り合っている。彼らの多くは両陣営の戦争を止めようとせず、寧ろ兵器と兵力を積極的に供給していた類の人間だ。
クロは人だかりから離れた二階から、そんな彼らを見下ろしていた。
視界には会場全体が収まっている。何百人もの出席者が居る。誰が何処の国籍を持ち、何処の企業や政府に属し、その護衛の中に権利者や元特殊部隊が何人いるかも、TPTOのデータベースで入手出来る情報に限るが、必要な限り知識として頭に叩き込んでいた。
不思議な話だが、この戦争で核心となった軍需産業の多くは西欧企業から供給されている。軍事衛星の情報リンクに依存した高性能な武装を扱っていたEU側は装備の一新を迫られていたから当然として、帝国側も独自に武器を作れる工業力を持ち合わせていなかったのだから必然的に何処かに頼らなければならなかった。ほんの数十年前まで、その役割は民主主義を謳いながら純然たる武力と技術をを蓄え、帝国主義を推し進めるアメリカが担っていた。だが新兵器を試す戦場を欲していた当時のアメリカと異なり、今のアメリカはモンロー主義を再び掲げたかのように迂闊に欧州に干渉はしなかった。その頑な態度の背景には、アフリカの手痛い経験とそれによって起こった国内の動乱が鎮座している。多くのアメリカ人が、他人の為に犠牲になるのを嫌ったのだ。
故にこの場にはアメリカ人を始め、距離的に遠い日本や東南アジアの人間は殆どいない。アメリカに負けじと世界中に散らばった中国人も、共産党と言う強制力を失った後には個人を徹していた。他国の戦争に首を突っ込み私腹を肥やした者もいたが、多くは沈む船から逃げ出すネズミのように消えていた。
「…………」
東洋系の人間が少ないこの場で、黒髪で日本人には珍しい鋭い目つきをしたクロは相当目立つ。そのクロが背後に立って護衛を行えばそれだけTPTOの存在感は増す。少なくとも、余計なちょっかいを出そうとする相手を踏み止まらせるくらいの効果はある。
それでもパーティに到着して早々、クロはとある事情でその役割を辞退した。
この場で最高権力者であるTPTO理事長代理は当然クロの発言に苦い顔をするが、他の執行官の説得でクロの別行動を認めた。寧ろ早くこの場から離脱しろとまで言われかねない状況であったが、相応のリスクを鑑みてもクロの観察眼を活かす場を逃すのは惜しいと考え誰も口にしなかった。
クロは既に自身の考えを伝えていた。
「皇帝は別人の可能性がある」
初めは満場一致でクロの考えは現実にはあり得ないと否定した使節団の面々と他の執行官も、クロがそこに行き着いた根拠と物的証拠を示し出すと次第に傾き、今ではほぼ全員がその可能性を頭の隅に置いている。
式典の数日前、執行官と使節団の一部を集めたミーティングでクロの伝えた推測に、参加した全員が大いに驚いた。
「皇帝は別人だ。少なくとも俺が見た限りでは三年から四年前から、その辺りを境に別人のように変わっている」
クロが示したのは、膨大な映像データだ。クロが帝国に滞在中に浮いた時間を全てその映像データの解析に費やした。映像データは全て初代バルカン帝国皇帝にして現皇帝のバルドの映像で、年月を遡り公私問わずに集められた映像は六百時間を優に超える。
クロはその中からバルド皇帝が喋っている場面だけを抜き出して、現地語であるルーマニア語の口の動きを実践しながら根拠を示す。
「ここを見てくれ。口元と喉だ。九年前、これがバルドの演説時の口の動きだ。だが去年同じ台詞を演説で使った時には僅かに唇の開きが悪く、息継ぎのタイミングに至っては明らかに違う」
口の動きを実演してみせながら――耳に届く時には各自の言語に変換されているが――クロはそれを指摘する。曖昧だが、けれどはっきりとした違いの指摘に驚きはするが、事が事だけに安易に納得はしない。
クロもそれは重々承知して、だからこそ次を用意していた。
「なら、次はこれだ」
そう言ってクロは、英語で喋る皇帝の映像も見せる。そこには拙いながらも英語を駆使して話す……話しているらしい皇帝の姿が映り、その後すぐに新しい映像に変わる。
集まった内の何人か、英語圏の人間が眉を寄せる。誰かに指摘され、疑いながらでなければ分からないが、息継ぎや言葉の選び方など確かに映像にははっきりとした違いが存在した。
その中の一人、海軍上がりのアメリカ人執行官が口を開く。
「未習得の言語を本物に似せて習得することは出来ても、その逆は難しい……ということか?」
「英語が急激に上達した……と考えないことを前提にしたならば、だが」
クロの用意した材料は全員を説得するには至らないが、緩やかな政策の転換を始め各々が溜め込んだ他の材料とも照らし合わせると、とても無視できない可能性となっていた。
「可能性の域を出ない……だが、確かめる価値は理解した」
「どちらにせよ、皇帝の亡命を成立させるには皇帝側からの反応を待つか、偽物だとするなら本物を探すかしないとならんな。難儀だな」
容易に手は出せない。助け出すメリットと使節団含む多くの人員の安全を天秤に賭ければ、それは考えるまでもなかった。特にTPTO内部でもロシア側は苦い顔をする。帝国とロシアは不幸な偶然から数年前に戦火を交え、すぐ和平を結んだものの蟠りは残っている。その火種を再燃させる行いは、当然本国の意思に反するのだ。
「兎も角、式典やその後のパーティで騒動は起こすな。確証が取れても、単独では決して動くな。……いいな?」
TPTO理事長代理がそう告げ、式典とパーティの出席者を伝えるとミーティングは解散となった。
「偽名か……、偽名、当然だ」
遠くの一点を見ながら、クロはブツブツと不平を漏らす。何百人と詰め込まれて尚余裕のある広い会場で、先に見つけたのは幸運以外の何物でもなかった。
クロの視界の先にいたのは、黒髪で優れた体格を持つ男だ。
「ズィルバー……、『黄金の羊』が何故……」
シロを取り戻した先で出会った武闘家然とした男が今はスーツを着込み、クロと同じく護衛としてやってきているのだろうか、鋭い視線を辺りに振り撒いている。周囲に居るのも顔写真付きの名簿には載っていない団体だ。顔と名前がまるで一致しない。
クロにとってズィルバーは今一番出会いたくない相手であり、ズィルバーにとってクロはこの世で一、二を争う程に憎い相手に違いない。守るべき幼気な少女を目の前で傷つけられ、物のように極寒の海に投げ捨てられたのだから、その憤りは想像に難くない。博士の前でギリギリ平静を保っていたことからここでも殺し合いにはならないと予想出来るが、それでも姿を見られるとこれ以後帝国内で動き辛くなることは確かだ。
それでもクロが残っているのは、皇帝の実物を見ておきたいと思ったからだ。
帝政を布いているバルカン帝国だが、皇帝に強権はなく、その中身は共和制と大して変わらない。日本の天皇制と同じく皇帝は象徴であり、将軍と大臣の任命程度しか決定権を持たない。
皇帝が何故皇帝として国の頂点に祭り上げられたのか、クロと紅緒は帝国内に入ってすぐにそれを知らされた。住民は口々に皇帝の人柄と戦果を讃え、彼の後に続くことを誇っていた。そして誰もが最後に一言加えていた。
皇帝の率いる部隊は不死身だ、と。
『魔法権利』を知らない彼らにしてみれば、皇帝の持つ『感染』はそう見えるのだろう。射程と火力のインフレが進む現代戦であっても、使い所を間違えなければ身体能力の基礎強化は重大な意味を持つ。
《ご主人、ちょっとしたサプライズがあるの》
会場の隅で皇帝の到来を待っているクロに、インカムから紅緒の声が届く。
遭遇すると不都合の生まれるクロと違い、紅緒は何食わぬ顔で護衛の任務を続けている。特徴的な髪色を持つ紅緒だが、それを差し引いても九州でズィルバーと接敵した当時とは似ても似つかない姿に変わっていた。線の細い体を包み込むようにして誂えたドレスは執行官のコートと異なり戦闘を微塵も考慮に入れず、白いレースの手袋で傷だらけの肌を隠している。その姿は両家のお嬢様でも通用する程に小奇麗に纏まっていた。唯一焦げ茶のまん丸い瞳が蓄えた鋭い輝きだけが、大の男たちの護衛であることを思い出させる。
「…………」
紅緒がこの手の言い回しをする時は、大方碌でもない結果が迫っているとクロは知っていた。取り返しのつかない不利益や切迫した状況ではない。碌でもない結果とは、大抵クロだけを困惑させる状況で、紅緒はそれを見て楽しむ節がある。
クロは焦らず慌てず、周囲の状況に気を配る。
盛り場から外れた二階の片隅に、クロの他に人はいない。出席者の殆どは当然人集りに吸い寄せられるし、会話に疲れて離れていく者も即座に戻れる位置に待機する。クロほど執拗に距離を取る者は稀で、一人になりたいなら態々寄ってきたりはしない。
だからこそ、クロは自分に近づく人影に驚いた。
「ローザ……」
「紅緒を見つけて驚いた。クロ、会えて嬉しいけど……何故ここに?」
紅緒は困惑を浮かべながらも躊躇わずクロの傍に詰め寄り、体を密着させる。クロはその自然な接触とひんやりと冷たいローザの体にドキリとするが、気を取り直して簡潔に答える。
「任務だ。護衛と、その他諸々」
「そう」
尋ねはしたもののローザはそれ以上の興味を示さず、クロの温もりを感じながら一緒に階下を眺めている。
ロシア軍の式典用の軍服で身を包んだローザと執行官のコートのクロが恋人のようにしているのは――実際に恋人同士であるが――他者に見られると色々と邪推されるのではないかと不安になる。仕事と私事を区別出来ない人間は、どんな理由であれ印象が良くなることはない。根無し草のように世界を飛び回る執行官のクロはまだしも、正規軍に身を置くローザにとっては歓待出来るモノではない。
「ローザ、少し離れた方がいい」
「外に出る?」
「そうじゃなくて、ここは人目がある。密着しすぎると……」
クロはそこまで言い掛け、言葉を詰まらせた。本来なら「ローザの立場が悪くなる」や「要らぬ誤解を生んでしまう」など続ける所だが、それではローザの返答が容易に想像出来てしまう。私は気にしないと言われてしまうのがオチだ。
「密着しすぎると?」
「…………は、恥ずかしい?」
そう口にした後で猛烈に後悔が襲ってきたが、キョトンとしたローザを見ると効果は覿面、徐々に頬を朱に染めながら適切な距離に戻る。
「ローザこそ、何故ここに?」
クロはコホンと咳払いを挟み、ローザに尋ねる。軍服を着ているのだから軍務に違いないが、それでも公の場に出てくるのはもっと階級が上の将官たちで、普通に考えれば権利者と言えど一士官のローザに声など掛かる筈もない。
「……この国は、私が最初に立った戦場。相手は帝国で、苦汁を舐めさせた私を連れて来たのは、……恐らく嫌がらせ」
ローザは口籠りながらも、言葉を紡ぎ始める。
今から八年前、帝国とEUの戦争はロシアに帰属した直後のウクライナに飛び火した。そう策動したのはロシアと友好的な関係を築いていた帝国側ではなく、帝国と同じく自分たちを裏切ってロシアに帰属したウクライナを快く思わないEUだ。EU派とロシア派が内戦を続けていたウクライナでの争いは瞬く間にEU派の民兵を巻き込みながら西部一帯に広がり、支配地域で好き勝手やられては困るロシア軍とウクライナ軍を加え、三陣営に分かれた新たな戦争が開始するかに思えた。
「私が初めて派兵されたのがテルノピリで、あの権利者……皇帝とは何度か接敵した」
ローザと接触した帝国側は驚くべき速さで転進し、停戦と謝罪を携えた使者をロシア側に送り出した。元々望んで戦火を交えた訳ではない帝国とロシアは早々に停戦を合意し、ウクライナは元のEU派と現地の治安維持軍の争いに戻り、すぐに沈静化した。
「皇帝は私の『氷結』に手も足も出ないと知ると即座に引き返した。迫るEU軍を私たちに押し付け、何食わぬ顔で停戦を申し入れた彼の強かさは感嘆に値する」
ローザは遠い目で過去を思い起こしていたが、クロにしてみればローザの存在はまさに渡り船だ。太平洋沿岸諸国を中心に活動する執行官の中に皇帝の実物を見たことのある者は一人もおらず、話し方の些細な変化だけで偽物だと決めつけるのは危険を通り越して無謀だ。
「皇帝を見たことはある。もう何年も前の話だし、親しく話す間柄ではない」
皇帝について尋ねたクロに、ローザは何を言っているのだと言わんばかりに返す。今は友好関係を維持しているロシアとバルカン帝国だが、かつては戦火を交えたことがあり、その先鋒が自分だと説明したばかりだからそれはある意味当然の反応だ。
そんな分かり切ったことを尋ねたクロを訝しみ、それでも助力になればとローザは提案する。
「……もし何かを知りたいなら、ちょっとした伝手を用意する」
「伝手?」
「帝国の将軍の一人、今もこの会場にいる。つい先ほど挨拶を終えたばかり。……そういえば、彼も今は皇帝から距離を置いている一人」
ローザの言葉に聞き入るクロは、五秒十秒と続きを待ち続ける。
「ローザ?」
けれど言葉をそこで止めたローザに痺れを切らし、クロは思わず階下から目を離して隣に立つローザを見つめる。そこには両腕を軽く抱いて頬を染めたローザが居て、クロの視線に気付くと一回頷き口を開く。
「クロ、その辺りも含めて今夜、時間が欲しい」
染めた頬が真剣なモノに塗り替わり、仕事と私事が半々の現状が一気に仕事へと傾いたのだと分かる。
ローザは一枚のメモ用紙を取り出すと、ロシア語でさらさらと店の名前と住所を書き出してクロに手渡す。
「お酒でも飲みながら、二人でじっくりと」