Ⅳ-2
二十年代半ばから三十年代にかけて、閉塞感に包まれていた国際社会では多くの国が経済破綻に追い込まれ、裏で暴れ回るAFの勢いに釣られるかのようにして戦争の気運が高まっていった。不況の煽りを受け破綻した国々は自国の政策から目を逸らす為に、不遇な境遇にあった国々は混乱に乗じてより良い地位を目指す為に世界の各地で戦火が上り、その殆どが他に広がることなく自国内で収束した。
アメリカではEUと連携してアフリカ浄化を目論む東部と太平洋諸国との関係強化を計りたい西部が対立し、中国では長年独裁を続けてきた共産党が崩壊して内戦に突入し、ウクライナやベラルーシなどの旧ソ連国家はEUを抜け安定したロシアへの帰属を求めた。
その中で一風変わった変革を成し遂げたのは、バルカン半島諸国である。
今まで西欧諸国に食い物にされてきたバルカン諸国も動乱に乗じてEUを抜け、当初は連邦制として独立を宣言した。けれどロシアの後ろ盾がある旧ソ連国家と違い大きな後ろ盾がないバルカン諸国に、西欧はEUを離脱するなら戦争も辞さないとの態度を示した。
武力行使を仄めかせば、必ず相手が譲歩するとの見通しだったのだ。
「それで、戦争になったの?」
「ああ、そうだ。公式には、まだ戦争中だ」
クロは紅緒に遥か遠い異国の地、大バルカン帝国の成り立ちについて教えていた。建国して十五年ほどしか経っていない国ではあるが独立と戦争を経験した国民の団結は固く、愛国意識の強い国民は他国にも好かれてもらおうと愛想が良い。
ドネルケバブを頬張りながら、水辺のベンチに座った紅緒は周囲を見渡す。
「その割には活気があるの」
「戦争と言っても、終戦していないだけだ。最近は国境で小競り合いすら起きていない。西欧側は戦争を仕掛けたが当初の目的は果たせずに戦う意味が薄れ、帝国側は国政の基盤が固まるまで戦争を利用する腹積もりだった」
西欧諸国――主にドイツフランスのEU軍は独立を挫く為に国境に侵攻したが、NATO軍の主力のアメリカが参戦を拒否し、北アフリカで手を焼くイタリアとスペインが渋り、帝国を支持するロシアとトルコに非難され、鉄火場に飛び出しはしたが何も果たせないまま撤兵を余儀なくされた。足並みが揃わないまま始めた戦争は終わり所を掴めず、双方の思惑も相成ってずるずると今もまだ続いている。
「だった?」
紅緒が首を傾げ、クロが眉を寄せる。数週間を費やし準備をした計画、その根幹を紅緒はすっかりと忘れていたのだから、クロが呆れるのも無理がない。
自分たちがどういった名目でここにいるのかを、クロは周囲の盛り上がりに重ね合わせて教える。
「建国記念式典に出席する一団に紛れ込んだのを忘れたか? 戦争は近日中に終わる。式典の前日に条約を締結して終戦すると何度もミーティングで話題に上ったぞ。身辺警護の訓練と侵入、脱出ルートを頭に詰め込み過ぎて忘れたのだとしたら、俺はもう少し丁寧に教えてやらなきゃならんな」
クロと紅緒はTPTOの使節団の護衛要員として、大バルカン帝国内部に入国を果たした。使節団より一か月も先行して滞在を始めたのは、街の治安が使節団を受け入れる水準を満たせているかを調べなければならないからだ。
普段なら目立たないようにと無難な服装に着替えて街に出る二人が、今は堂々と執行官のコートに身を包み街中を闊歩している。それは二人の意思ではなく、そうしろとTPTO側の要請があったからだ。
執行官の職務は、太平洋沿岸諸国の治安維持に基づいて行われる。任務の際には現地の治安機構と連携を取る為に身分を明かす必要はあるが、それとは別に多くの執行官は公式の場に身を晒すことには抵抗を持っている。それは執行官が散々に麻薬組織を追い立てたからであり、悪徳政治家に苦汁を嘗めさせたからであり、彼らの仲間を容赦なく殺し尽くしたからである。クロと同じように本国では死人扱いされている者や、ティムのように別の身分で社会に溶け込んでいる者も少なくない。
執行官は謂わば対『魔法権利』戦闘の専門家であり、少しでも危険な場にTPTO高官が赴く時には必ず複数同行しなければならないとの規則が設立時の条件の一つとして制定されていた。それだけ使節の安全は必要以上に気を配る必要があり、テロで散った数人の命は争いの火種として充分に機能する。
そして護衛を選抜する会合で、クロは進んで手を挙げた。
TPTOの執行官となって半年、クロと紅緒のペアは執行官屈指の武闘派として名を広めていた。日本国内でもクロが係わった事件が触れられることはなくなり、ネットの情報統制も効力を発揮している。多少メディアに露出した所でクロの存在に気付き騒ぎを起こす者はいないと考え、上層部は二人の参加を許可した。この二人ならば裏の任務も充分に遂行出来ると考慮した上での判断に、異論を挟む余地は残されていなかった。
「でも本当なの、ご主人?」
紅緒は手に付いたソースをぺろりと舐め取り、周囲に漏れないように声を抑えて口にする。
「建国記念日が近いのに皇帝が亡命を希望してるって、流石に考えられないの」
TPTOの執行官に回される任務には、極少数の例外を除き受けるか否かの選択の自由が与えられる。それは移動時間の制約や適性の問題もあるが、命を懸ける任務を強制して離反されることが一番損害が大きいからだ。とある執行官が自身の実力では命を失う可能性のある危険な任務を嫌い受けなかったとしても、オペレーターがより実力のある代替を見つけて打診すればいいだけで、それでも為せそうになければ任務自体に欠陥があると判断され更に細分化される。
今回クロと紅緒の受けた任務は約二年の間、誰からも引き受けられることなくデータベースに残っていたモノだ。
「正確には救出依頼だ。だが罠かどうかの判断出来ないからこそ、俺たちは式典と、その後のパーティに出席して意図を探らなければならない」
クロは自らの目で任務内容が適切かを判断する為に、幾つもの手間を費やしてここにいる。皇帝はまず間違いなく『感染』の『魔法権利』を持っている。ローザやティムからの情報だけでなく、他の様々な機関から集めた情報にもそう記されていることから、それは疑いようもない。そして大バルカン帝国の皇帝が殺され代替わりしたとの報せもなく、公式の場にも何度も姿を見せていることから『感染』は未だに手の内に存在していると判断して間違いはないだろう。
間違いがあるとするなら、クロが相対した敵に施された『魔法権利』が『感染』とは別の『魔法権利』である可能性で、それが一番現実味がある。もしくは救出依頼こそが罠で、近づいて来た執行官を殺して『魔法権利』を奪おうとする意図が隠れているかもしれない。故に今まで誰も受けず、その危険性から誰にも強制出来ずに残っていたのである。
「でも正直に言わせて貰うと、ご主人に任せるのは失敗だと思うの」
紅緒はそう言って背筋を伸ばすと、大きな欠伸をする。クロはその物言いにムッとして理由を問い質すが、何も言わずに紅緒は立ち上がる。
「……コインがどうかしたか?」
紅緒は手にしたコインをクロに見せつけると、指先で弾く。キンッと軽い音を立てて回転しながら舞うコインを紅緒は素早く、どちらの手にあるのか分からないように掴み取る。
「ご主人、コインはどっちの手にあるの?」
紅緒の意図が読み取れないクロは、それでも一応右手を指差す。
「正解なの」
ニッと笑い、紅緒は手を開いて銀色のコインを見せる。
「なら次なの」
紅緒は何故コイン当てゲームをやりたいのだろうかと訝しみながら、クロは黙ったまま成り行きを見守る。
紅緒は再び同じコインをクロに見せ、今度は弾かずに両手と共に背中の裏に移動させる。そして数秒後、握られた両手を前にだして「どっち?」と微笑む。
クロは少し考え、けれど分かる筈もなく50%の確率に賭けて答える。
「右だ」
「ハズレなの」
紅緒はまず右手を開きコインがないことを示し、続けて左手を開いて銀色の存在を示す。そして再び背中に隠してコインを握り、差し出す。
「…………」
「さあ、選ぶの」
「……右だ」
「またハズレ。ご主人、私が言いたいこと分かったの?」
紅緒はコインを指の上で踊らせるとクロに向けて弾く。
クロはそのコインを掴み取ると同じように指の上で踊らせて紅緒に弾き返す。軽やかに回転するコインは紅緒の額を跳ね、再びクロの手元に戻ってくる。
「分からん。簡潔に言え」
紅緒は赤くなった額を擦ると、言い辛そうに口を開く。
「ご主人は、かなり運が悪いの」
「…………」
「そんな目で見ないで欲しいの。非科学的だと思ってるかもしれないけど、ご主人は右か左かを勘で選ぶと、まず間違いなく外すの」
「偶然だ。最初は当たった」
「最初はちゃんと投げたの。私がどっちの手で取るのかをご主人は見ていた。つまり正解を知ってて答えたの。でも後の二回は違うの。判断基準は一切与えていないの」
「……何が言いたい?」
分かるようで分からない紅緒の言葉を聞かされたクロはムッとして口を開き、紅緒は再び大きな欠伸を交えながらクロの隣に腰を下ろす。
「俺の運が悪いとして、今までは無事に任務を熟せてきたぞ」
「そうなの。それがご主人の凄い所なの。ご主人の身体能力は普段なら運を寄せ付けないの。それでも極稀に、本当に極稀にだけど、その実力だけでは回避出来ない危ない場面はあったの。使ってたナイフが重要な局面で折れたり、日本刀でさっくりと腹を裂かれたりしたの。詰めが甘いと言えばそれまでだけど、どうにも私にはそれだけだとは思えないの」
紅緒は右肘を左腕で抱え、右手を顎に当てる、所謂考える人が良くそうするポーズを取る。
「ご主人は次から行動する時には、何よりまず自分の悪運を考慮するべきなの。任務を回す人たちは現場に出ないから知らないけど、危険な任務はそれだけ運の振れ幅は大きくなると私は思うの」
紅緒の言葉を例えるなら、それは銃弾の雨を突っ切る兵士を考えればいい。同じような銃撃を浴びても倒れる者と無事に当たらず通り抜ける者がいる。先頭を走る兵士が一番危ない。二番目を進む兵士が敵に狙われ易い。そんな俗説は多々あるが、結局生死を分けるのは運なのだ。当たる兵士は当たるべくして当たり、当たらない兵士は余程無茶をしない限りは当たらない。
クロはただ、本来は当たる筈の弾丸を無理矢理躱しているのだ。それでも何時か当たる時が来るからと紅緒は用心を呼び掛けているのだが、やはりクロとしては釈然としない。
「なら、任務から降りるのか?」
憮然とするクロに紅緒はやれやれと首を振る。
「そうじゃないの。任務はご主人の介在する余地が充分にあるから問題ないの。私が心配なのは、それがなくなった場面に直面した場合なの。半か丁か、表か裏か、右か左か、……少しでも運が絡んだ場合には、絶対に他人に意見を求めて欲しいの。一か八かなんて、ご主人には自殺と同義なの」
紅緒は手を伸ばし、呆然としたクロの手の平に乗っていたコインを回収する。
「それでもそんな局面に遭遇したら、最終手段を使えばいいの」
紅緒はそう言うと、軽く腕を振りコインを放り投げる。日光を浴びながら銀色に煌めくコインは数秒空中を進み、ぽちゃんと水面に落ちて波紋を生み出す。
「コインがなければ、右も左もないの。自分に分の良い勝負が現れるまで、ルールを壊し続ければいいの」
座った左右の拳を交互に突き出す紅緒を見て、クロは思わず頭を抱えたくなる。現実はコインを弾くように分かり易くはない。紅緒の言うような局面など、そうないだろうとクロは思う。
けれど出立前にニキが『洞観』で写し出した紅緒の写真の裏には、『愚者』のアルカナが浮かび上がっていた。『愚者』が意味するのは無意識や自由、そして無知に出発――愚か者と銘打つ割には愚か者らしくない言葉が並ぶのだ。
そして『愚者』が示す意味の中にある直感――それこそが、紅緒の言葉を蔑ろに出来ない要因だ。
ニキの『洞観』は、自分以外には馬鹿に出来ないほど正確に当て嵌まるとクロは認識している。
紅緒の『愚者』は言うまでもなく、ローザの『女教皇』は知性、理解、聡明と言った意味を持つ。ティムの『法王』――慈悲、援助、親切も表の顔である戦場カメラマンと擦り合わせれば概ね納得がいく。ソニアの『死神』も、死を毒や最近という形態でばら撒くソニアにはぴったりだ。
いや……、とクロは考えを改める。
『運命の輪』が示す意味は新しい局面、進歩、そして運気の向上だ。初めから最高の幸運を手にした人間に、運気の向上などあり得るのだろうか? アルカナの辻褄合わせに運気が落ちているとしたら閉口するしかないが、そうでないならどん底の運気もいつか上向く希望が持てる。
だが、それは一先ず後で良い。
「お前の言いたいことは良く分かった」
クロはそう言って立ち上がると懐中時計を取り出し、仕立て屋に注文した二人の衣装や小物を受け取る時間が近づいていると紅緒に示す。
「要するに、俺はもっと、積極的に、お前を頼ればいい。そういうことだな?」
「そうなの」
紅緒は頻りに頷く。クロは懐中時計を懐にしまい、代わりに一枚の紙を差し出す。
「なら、これを受け取って来てくれ」
「……」
「冗談だ。当初の予定通りに二人で取りに行くぞ」
クロはムッとした表情の紅緒の目の前から受け取り伝票を除けると、代わりに一枚のコインを手渡す。
「コイン?」
「目的地に着くまで、さっきの続きだ。確率は試行回数を重ねると収束するとお前に教えてやる」
「えぇ……」
赤道色のコインを渡された紅緒はコインとクロを見比べ、心底嫌そうな顔を浮かべる。自覚はあれど、一方的に運の悪さを指摘されるのは我慢ならなかったのだろう。クロの瞳には、やる気と根拠のない自信で満ちていた。
そして正答率は、五割に達することはなかった。