Ⅳ-1 冬の帝国
乾燥した風が山間を吹き抜け、飛ばされた木の葉が川面を跳ねて舞い上がる。風向き次第では硝煙の臭いが漂ってくるこの場所も、今は川辺に腰掛ける男の隠れ場である。
ここから前線までは百キロも離れていない。けれど男の持っているモノは銃火器ではなく釣竿で、釣れた魚を入れるバケツは数時間前から空のままだ。
「しょうさー、釣れた?」
戦場帰りの男に、あどけない少年が声を掛ける。手にした籠には果実とサンドイッチが詰め込まれ、優に五人前は下らない量を収めた籠の大きさは圧巻だ。
「全然釣れんよ。いつも通りや」
男は上体を捻り、こっちだと少年に向けて手を振る。
「こいつら俺の足は突くのに、エサと針には食い付かん。なんでやろ」
「……さぁ? しょうさの足の方が美味しいから」
「ああ、通りで……」
少佐と呼ばれた男の足首から下は流水に投げ出され、確かにその指先に何匹もの魚が群がっていた。
少し離れた場所には年季の入った軍靴と軍服が投げ出されている。軍服には少佐の戦果に報いる為に与えられた多くの勲章が付けられ、軍靴には遠くから見るだけでも臭う悪臭が染みついている。
どちらも彼が望んだモノでなく、この場所だけが彼を解放するのだろうと少年は幼心にも察していた。
「どうすりゃええんや……」
これから彼が与えられる地位もまた彼にとっては好ましくないモノであった。
「しょうさ、心配事?」
「まあ……、そうやな……」
少佐は少年に釣竿を渡して、丸まった背筋を伸ばす。その背中は熊と見紛う程に巨大で、座って尚頭の位置は少年より高い。
「シルヴィオ、戦争は嫌か?」
「うん」
少佐は伸ばした背筋を再び丸めて、足に群がる小魚を眺める。その隣ではシルヴィオと呼ばれた青年が釣竿を振り上げる。当然のように、その先には魚は付いてこない。
「そうやろな……。故郷は取り戻したけど、まだ戻れんしな……」
少年は戦災孤児だ。
一年前に少年の故郷は意図せず戦渦に巻き込まれた。森を縫って進む大隊規模の越境部隊を見逃した結果、少年の住んでいた街は燃え上がり、疎開を終える前の住民たちの多くは家と家族を失った。
少年を助け出したのは少佐の部隊で、身寄りのない少年は少佐の知人の家で世話になっている。親と友人を失い沈みはしたが、今は時折戦場から返ってくる少佐と供に山奥へ行き、誰も知らない穴場の渓流で釣り糸を垂らすのが楽しいらしい。
少佐は楽しそうに竿を振るシルヴィオを見て、覚悟を決める。
「しゃあない、やってみるか……」
「うん? しょうさ、何を?」
「それは秘密や。……それより、今は飯や飯! 魚はなくてええやろ。火を起こすのも面倒やしな」
「僕、しょうさが魚釣ってる所見たことないよ……?」
「せやな」
少佐は釣竿を持ったシルヴィオと、シルヴィオが抱えていた大きなバスケットを軽々と担ぎ上げる。そして笑いながら、いつもの岩場に歩いていった。