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A/Rights 変質した世界で  作者: 千果空北
第三章:許されざる者
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Ⅲ-1 死者の影



 あれは十五年前、燦々と太陽が照り付ける真夏日に父が一人の少年の手を引いて帰って来た時のことだった。少年の鳶色の瞳は頭上から降り注ぐ日光により翳り、周りにいた同年代の友達よりもずっと大人びた印象を出迎えた少女に与えた。


「この子は、今日から家族の一員となる」


 父が少年を紹介する。伯谷玄輝と言う名の少年は今日から自分と同じ黒田の姓を名乗るのだと。年齢は自分と同じで、背丈は同程度か自分の方が少し高いくらいだと少女は知る。快活で負けず嫌いな自分の後ろを付いてこれるのかと訝しみながら少女は少年を睨み付ける。


 人に慣れていないのだろうか、少年には愛想がなくピクリとも笑わない。けれど初対面の自分に物怖じすることなく一言放つ。


「今日からお前の兄になる。よろしく……お願いします……」


 その一言で蟀谷辺りがピクリと動き、負けず嫌いの少女は我慢出来ずに口を開く。


「ねえクロ、あなた何月何日生まれ?」

「クロ?」

「あなたの呼び名よ。クロキよりは呼び易いでしょ……それで、誕生日は?」

「五月十二日だ」


 自分と同じ誕生日だと知り、少女はギリッと噛み締める。それならば尚更兄を名乗らせる訳にはいかない。兄弟間の序列がどうであれ、同じ年齢同じ誕生日なのだから然したる問題はない。問題は少女のプライドだ。主導権を握られたまま黙っているのは、気の強い少女には我慢できないのだ。


「私が姉! 同じ誕生日だけど、私が姉よ!」


 思わず叫んでしまった少女を、少年は呆れた顔で見つめていた。それならそれで構わないと呟いた少年を見て、少女はカッと頭に血が上る。少年の襟首をガッと掴み、顔を近づける。


「勝負よ、クロ」


 真っ白な肌に浮かんだ紅玉の瞳が熱を帯び、少年を睨む。


「いいぞ、シロ」


 少年は少しだけ困った表情を浮かべる。けれど思う所があったのか、少女の提案を二つ返事で受け入れた。






 畳の上、二人の男女を相手に胴着を着込んだ女性が立ち回る。


 仕掛ける側は容赦なく女性に攻撃を繰り出す。突き、蹴り、掴みからの投げ――その全てを女性は紙一重で躱し、逆に隙を見せた相手を投げ飛ばす。同僚が宙を舞う姿に注意を引かれたもう片方も、女性の拳を顎に受けて昏倒する。


「次っ!!」


 投げ飛ばされた男の代わりに別の男が二人立ち上がり、威勢よく女性に向かっていく。


 女性がのしたのは、今の二人で十人目である。二対一のハンディマッチで、たった一人の女性を相手に鍛えた同僚五組が打ち負かされている。最初に提案を受けた時点で存在した、相手が自分たちを侮っていると憤る気持ちや美人相手に組手を行えるという疚しい感情は完全に消え失せ、今は危機感と焦燥感に駆られ、精鋭部隊としてのプライドを守る為に我武者羅に向かっている。そして打ち負かされた多くの者たちは道場の壁に背を預け、汗を拭い、戦う三人をジッと眺めていた。


「…………」


 誰一人、何も口にしない。戦う女性の姿は口を塞ぐ程に美しかった。


 細い線に出る所は出た体躯は甘い蜜を蓄えた花のように男たちを誘い、触れようと手を伸ばすとその女性らしさに見合わない機敏さで躱され、叩き伏せられる。その強さと美しさの両立が対峙する男たちを惹き付け、凛とした鋭い瞳に吸い寄せられるように男たちは向かっていき、返り討ちにされていた。


「次はっ!」

「もう一度、お願いしますっ!!」


 汗が飛び散り、男たちが舞う。体格は女性にしては恵まれているが成人男性を圧倒出来る程ではなく、身体能力は寧ろ手も足も出ないと言っても過言ではない。それどころかこの話を持って来た士官の話では、ほんの三か月前まで女性は寝たきりで、戦闘の勘を取り戻すリハビリの一環として依頼して来たらしい。


 額に溜まった汗を拭う女性は、シロだ。


 短くなった髪も幾分か伸び、リハビリと言う名目で苛立ちをぶつけていた。


「あっ……!」


 十五、十六人目の組でシロの両足は畳を離れ、その背は派手な音を立てて打ち付けられた。ダンッとシロの固めた拳が畳を叩く。特別な訓練で身体を鍛え、格闘技の修練を積んだ自分たち相手に二対一で、それを何組も抜いておきながら不満があるのかと眉を寄せる者はいた。けれど隊員たちの大多数が恐れたのは、シロがまるで対戦相手である自分たちを見ていないことであった。


 バンバンと手を打ち付けながら目を瞑る姿は駄々っ子のようであり、その駄々っ子が欲しているのはここにはないのだとはっきり伝わってくる。


 シロは起き上がり、隊員たちの視線に気付くと深々と頭を下げる。


「ありがとうございました。また明日、お願いします」


 汗で濡れた白い項が短い髪の隙間から覗き、男たちをドキリとさせる。


「…………」


 自分に向けられた好色な視線に気付き、シロは早足で道場から出て行った。





 シャワーを借り胴着からホットパンツとシャツという簡素な私服に着替え終わったシロは、これと言って中身は入っていないにも拘わらず習慣で持ち歩くハンドバックを手にして目的地に向かう。硬い底のブーツがカツカツと音を立ててアスファルトを叩き、シロの漏れ出す存在感を一層強固なモノにしていた。


 駐車場に辿り着き自分の車に乗り込むと、シロは助手席のファイルを引き寄せて中を捲る。ペラペラと流れていく情報が今のシロにとっての支えであり、未来の自分を補完する為に必要なモノだと知っていた。


「クロは生きてる」


 退院してからすぐにシロはクロの墓を暴いた。冒涜だと罵られようと、ジッとしてはいられなかったのだ。墓荒らしは相応の勇気を要する蛮行であったが骨壺に骨はなく、シロの予感はより現実的な期待に傾き始めた。


 次にシロは大学事務に連絡を取り、クロの記録を取り寄せた。AF討伐に出掛けたのは二人が大学四年の秋のことだ。元来真面目で秀才気質のクロは三年終了時で全ての単位を取り終え、卒論も書き終え教授の手元に渡っていた。クロは卒業扱いに特別異を唱える者はおらず、結果としてクロは大学を卒業済みとの返信をシロは受け取った。


 そしてクロと事件に関する報道が徐々に減り、クロに関する情報の一切が途絶えたこともシロの確信の背中を押した。顔写真を晒すのは人権侵害だと騒ぐ者もいなければ、クロがどういった存在なのかを邪推するコメンテイターもいない。動画サイトにアップロードされていたクロの乱闘動画は消され、シロは未だに見れていない。


 その辺りからシロの直感はクロの生存を嗅ぎ取り始め、遠回しに自分を付け回す監視――もしくは護衛の存在を知り、確信に至った。


「クロは生きている」


 その事実を最初にぶつけたのは父でも親友たち(ケイジと之江)でもなく、鏡の中の自分であった。見る見るうちに活力を取り戻す自分を感じ、シロの行動は加速した。


 クロの存在には何らかの規制が掛かっている。それもかなり大掛かりな規制で、国家規模の仕掛け人が存在するに違いないと決めつけたシロは、友情と命令の狭間で揺れかねないケイジではなく、右京と左門の持つ負い目を強請る方法を選んだ。


 シロは義体の交換まで満足に動けない右京と左門をリハビリ相手の斡旋の名目で呼び出し、内密に、けれど無理をしない程度に、を条件にクロの消息を探ってくれと頼み込んだ。診療所を守れなかった負い目のある二人は熟考の末に承諾し、徐々にシロの視界にクロの影が表れるようになったのだ。


 けれど、それも手詰まりだ。


 カフェテラスに座った三人は手元に何枚もの資料を広げて意見を交わす。飛び切りの美人と中性的で整った顔の二人に通行人の視線が集まる。張り切る太陽に照らされながら、この三人がどんな集まりなのかを妄想しながら通り抜けていく。


 言葉では三人の関係を表し難い。目的はクロを探し出すと一致しているが、シロとは別に右京と左門も雪辱を晴らす為にクロを求めていた。結果に不満があるのではなく、不本意なのは自分たちの状態だ。殺傷能力のある武器を持たなくてもいい。武人として正々堂々、クロと立ち会う機会を欲していた。


「情報部のネットワークを介さず慎重に調べましたが、影しか掴めません」

「台北、ハノイ、香港……随所でそれらしき噂は耳にしましたが出入国記録はなく、かといって全て外部からのハッキングなど、特別な方法で消されている訳ではありません。恐らく通常の出入国を終えた後に政府自体が消しているのでしょうね」


 定期的に集まり、三人は情報交換をしていた。集まりも三回目となると、当初新鮮に思えた情報が砂漠で揺れる蜃気楼のように遠く古く意味のない情報であることに気付かされ、途轍もない閉塞感に包まれることもままあった。今回もそうだ。クロの足取りが何故消えるのか、シロには適切な理由を見つけ出せない。


 シロは閉塞感に包まれていたが、情報部の二人の目の前には壁として現れていた。


「となると、やはり……」

「アレでしょうね、右京」


 同じ壁を見上げた二人は納得して頷き合う。人ひとりの足跡を消せる程の超国家的な権力が働き、尚且つ実力のある訳アリ権利者が所属するとなれば、もうあそこしかないと考えているのだ。


「アレって何?」


 蚊帳の外に置かれたシロは二人に尋ねる。右京が「恐らく……」と前置きから、自分たちの前に立ちはだかった壁の存在を教える。


「TPTOの執行官……?」

「ええ、恐らくそこに所属しています。執行官はTPTOの抱える武装組織の一つで、『魔法権利』を用いた悪質な犯罪や国際テロ組織……各国家が大手を振って処理出来ない相手の掃討に駆り出されると言われています」


 クロの足取りが掴めない理由はそれで説明が付く。


「なんでクロがそんな組織にいるの?」


 けれど、その理由がシロには分からなかった。自分を置いて執行官の肩書を手に入れてクロが何をしたいのか、何をしているのかがシロには見当も付かないのだ。


 それについても、やはり情報部の二人は思い当たる節がある。シロには話していないが足取りが掴めていないのはクロだけでなく、もう一人存在するのだ。


 八幡紅緒――診療所の地下に囚われた元女王だ。


 正確には、現在地は常に情報部の方でも押さえている。紅緒の体内に埋め込まれた内蔵無線機は健在で、発信機の役割も果たすそれは随時紅緒の現在地を教えているのだ。近くに情報部の人間が居れば交信は可能だが、紅緒の現在地だけは一般情報部員にも秘匿されている。


 右京と左門は必要な情報は全て出し終えたとカフェテラスから離れる。紅緒の情報をシロに伏せていたが、それは情報部のデータベースを盗み見て得た情報である。本人が秘密裏に活用するのはギリギリ許容範囲内で多くの隊員もそうしているが、情報の横流しはご法度だ。どんな種別の情報であれ、漏れた情報はすぐさまルートが割り出され特定される。捕えられ、裁判の末に軍監獄に収監されるのだ。


 実際に特定現場に立ち会った経験のある情報部員が多いからこそ、情報部に情報漏洩を好んで行う者はいない。






「はぁ……、しんどい……」


 二人の後姿が見えなくなると、シロは背凭れに体を預け上を向き、目を閉じ考える。生暖かい風が頬に当たり、湧き上がる気怠さと共に思考を邪魔する。春の余韻は消え去り夏の足音が聞こえる。長い入院生活で味わった倦怠感はまだ残っているが、リハビリの甲斐もあって身体も概ね快調だ。


 クロが隣にいない時間を、これほど長く経験したのは初めてであった。


 とても辛く、疲れる毎日だ。


 シロは思い出す。確かアレは、クロに完膚なきまで打ちのめされた日のことだ。



 出会ってから三年の歳月が過ぎ、クロはすっかりと黒田の家に馴染んでいた。仕事に忙しい父と学業に専念していた年の離れた兄に等しく可愛がられる二人は、競い合うようにして自らを高めていた。


 スポーツで、学業で、知識量で、習い事で、クロとシロは鎬を削った。


 けれど終ぞシロは、クロに及ばなかった。全て初めは対等か、もしくはシロが優っていた。しかし足の速さや身の熟しは年を重ねるごとにクロに離され、学業は同着一位はあれど今の今までクロより優れた成績を修めたことはない。どれだけ本を読み知識を溜めこんでもクロは平然と答えを言い当て、触った経験のない楽器や習字も数週間でシロを追い越した。


 悔しさを噛み締めたのは、一度や二度では済まない。


 シロがクロと出会って数年、いつしか争いの立場は対等な関係から一方が追随する関係に、シロがクロを追い掛ける関係に変わっていた。そして争えば争う程にクロの底が見えなくなり、次第に手を伸ばすのも怖くなったのだ。


 シロがクロより優れているのは絵を描く技術だけ。


 それも頑としてクロを遠ざけた結果であり、手を出されたらどうなるか明らかだ。


 十歳になったシロは何度もクロに勝つ方法を考えた。汚い手を使うのはプライドが許さず、けれど負け続けるのは死んでもごめんだ。何か一つ、正攻法で負けない何かをシロは必死に探していた。


 そして、シロは辿り着いたのだ。


 クロを惚れさせてしまえば自分の勝ちだ、と。


 幸いシロは同年代を遥かに凌ぐ整った容姿をしていた。街を歩けば誰もが振り向き、その成長を心待ちにした。芸能界やモデルへの勧誘も頻繁に訪れたが、全て蹴った。凡俗な父や年の離れた兄は心惹かれながらもシロの意思を尊重し、スカウトマンは後悔するぞとお決まりの捨て台詞を吐いて引き上げた。


 後悔する可能性は、シロの心の大部分を占めていた。けれどスカウトマンの言う後悔とは違う。自分の美貌は有象無象に見せる為ではなく、ただ一人の強敵を魅せる為に使うのだ。後悔するとしたら、それはクロを惚れさせることが出来なかった時だけだ。


 そしてシロは初めて――クロが家族に加わって初めて、クロの顔を見た。


 シロは自分の容姿に自信を持っていた。サラサラと流れる白い髪は最高級の反物に負けない手触りを蓄え、その髪が包む肌はより白く薄く、儚さや清廉さといった印象を無条件に見る者に与える。赤い瞳を前に誰もが大粒のルビーのようだと褒め、一本通った鼻筋は将来美人になることが約束された者だけが持つ特徴だと常々言われていた。


 クロを見て、シロは初めて胸の高鳴りを感じた。


 クロは不愛想だ。口元は大抵一文字に結ばれ、その不愛想は隠れ蓑であるとシロは知っていた。闇夜でも浮かび上がる黒炭の髪に鋭く鍛え上げられた体、精悍な顔立ちに多くを語らない口元、その全てクロが時折見せる愛嬌を助長させるモノだと知ってしまったのだ。


 そしてクロが愛嬌を見せるのは、ただ一人だけだ。


「私だけ……」


 シロもそのクロが愛嬌を見せるのが自分一人だと認識すると、最早クロから目が離せなくなった。今一番近くに居る余所者が、唯一自分だけに心を許しているのだ。それは勝ちだと言えなくないが、その時のシロは既に勝負のことなど頭から抜け、クロに夢中になっていた。


 クロの体を動かす姿を見るのが好きになり、クロと同じ本を読んで知識を共有したいと願った。筆を持つ楽しさをクロに教えようとした時に「シロが描くから自分はいい」と断ったクロの顔は、今でも心に残っている。


 シロは再びクロを追い始めた。勝負を挑んだ時とは違い追い抜く為ではなく、クロの隣に並ぶ為に走らなければならなかった。そこには辛さや悔しさはなく、ただ充実感に満たされていた。


 クロも満更ではないとシロは知っていた。


 その証拠にクロはシロの隣を離れたことはなく、時に助け時に足を緩めてでもシロの隣に立とうとする意思を示していた。


 そのクロが何故自分の元から離れ、未だに戻ってこないのか。


 シロは必死に考えた。クロの思考を追う内に、今までのクロが全て自分の意に沿うように動いていただけだと気付く。クロが一人の時、クロが自分といない時にどのように動いていたのかをシロは知らなかった。


「はぁ……」


 シロは大きく息を吐き出し、背凭れに預けた体を元に戻し背筋を伸ばす。短くなった髪の分頭は軽いが、中身は依然としてもやもやと霞が掛かっている。けれど体調不良に出番はなく、睡眠不足にも縁がない。シロはスッと背筋を伸ばして、クロがいなくても快眠が続く身体を複雑な心境で受け入れていた。


「それで、どのような御用?」


 シロは苛立ちを言葉と言う名のオブラートに包んで相手に向ける。


 何時からなのかは瞑目の甲斐あって分からないが、目の前にはカフェの店員が立っていた。その男性のハッとした面持ちや負い目のある仕草から、ナンパの類ではないとシロは断定する。声を掛けようとするにしてはオドオドと落ち着かず、手にしたオお盆の中身が零れないか逆に心配になる程だ。ナンパとは得てしてもっと自信に満ちているナルシストがやる行為だ。


「えっと、失礼しました。あなたは黒田……しろ? さんで間違いありませんか?」

「それはしろって読まないの。まあ、みんなシロって呼ぶけどね。それで?」


 訂正する必要はないと分かっていた。だがたとえそれが自信無さげに言葉を紡ぐ相手であろうと、初対面なら訂正するのが筋である。自分の姿形が白く、名前も白一文字だからと言って安易にシロと読むのは失礼だと相手に自覚させたくなったのだ。


「実は……そのですね、言伝がありまして……」


 店員はやはりオドオドとお盆の上のコーヒーカップをシロの前に置き、代わりに右京と左門と一緒に頼んだ時の空のカップを下げる。


 そしてそっと封筒を添える。気付かれないように、絡まれないようにと警戒を籠めた動作にシロはムッとする。


「言伝?」


 シロは鸚鵡のように続きを催促する意味も込めて口にしたが、ふと目の前に置かれたカップの中身に気付き、店員に向けた悪意は一気に吹き飛んだ。


 カプチーノだ。


 白いコーヒーカップの中には、薄黄色のシナモンで覆われたミルクの泡が広がっていた。ミルクの甘さの奥にはエスプレッソの苦さが潜み、白と黒が絶妙なハーモニーを紡ぎ出す。クロと喫茶店に行けば必ず頼んだシロの好物の一つだ。


「待って!」


 まさかと思い、シロはそそくさと逃げた店員を呼び止める。呼び止められた店員も予想していたのか、面倒臭そうな顔を客商売向けに作り変えることなく振り返る。


「……どうかしましたか、お客様?」


 店員の顔が更に曇る。態々呼び止められたにも拘わらず、シロは自分を無視してジッと手紙の言伝に目を通しているのだから。


「これを渡したのは……、誰?」


 シロはわなわなと震えながら、困惑とも憤怒とも言えない顔で店員に尋ねる。店員はシロのその姿を見て、美人はどんな顔をしても美人だと知り、同時に言伝が意中の相手からでないと察する。多すぎるチップを握らされた数時間前の自分を呪いたくなった。面倒事に巻き込まれると知っていたら、とても言伝の仲介など引き受けはしなかったのにと後悔するが、もう遅い。


 店員は猛るシロを前に更に委縮して、言伝の主の姿から分かり易い特徴を抜き出す。


「くすんだ金髪の……恐らく外国人の女性でした……」


 手紙の内容から差出人がクロではないと分かっていたが、それでも羅列された内容は不快を通り過ぎて目を背けたくなる程に悪趣味であった。クロと、そしてクロが大好きな自分に対する侮辱だ。


 シロは手紙を握り潰し、一口も飲んでいない暖かいカプチーノの代金を置いて席を立つ。いくら好物とは言え、あんな相手から施しを受けるのはシロのプライドが許さない。


 カフェの扉を開け、照り付ける太陽を真っ向から迎えたシロは、憎悪と共にくすんだ金髪の女と手紙に書かれた名前を心に焼き付けた。



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