Ⅱ-9
ツンと鼻に突く酸っぱさが鉄錆の臭いに混ざって届いたのは、クロが<安全地帯>を回収して戻ってからのことであった。ぐじゅぐじゅに溶けた男の死体の中心に立ったソニアは、笑っているのか泣いているのか、どちらとも言えない表情で何もない天井を見上げていた。
笑っているのだと思う根拠はソニアの口角が吊り上がり、今も半開きの口から笑い声が届いているからだ。
泣いていると判断した理由は、隠そうともせず彼女が瞳から頬に垂れ流している涙の軌跡だ。
クロは無駄だと分かっていながらも淀んだ空気と異臭を手で振り払う。吸ってもこれと言って体調不良を感じることもないだろうが、やはり不快な臭いは取り込まないに越したことはない。
「耳まであるのか……?」
顔を上向けにしている所為でソニアの頭に掛かっていたフードが外れ、黒髪と同じ色をした獣耳が露わになる。髭と同じくピクピクと微かに動くそれはとても作り物とは思えず、本来は人間にない部位が付いていたとしても、紅緒の翅を知っているクロを特別驚かせはしなかった。
けれどクロの視線に気付いたソニアは慌ててフードを被り直し、平静を取り戻す第一歩として涙を拭う。ティムが紅緒に伝えた特徴から鑑みても、あの獣耳は髭よりも余程コンプレックスがあるのだろう。折角目元を拭ったが、次第に涙が溜まり始めている。
「……見た?」
他の男なら、こういう場面では見ていないと答えるとクロは知っていた。「……見た?」と尋ねる相手の心理など推察するまでもない。見られても構わないモノを見られたとして、相手がそれを尋ねるだろうか? 普通は見られたくないモノを見られた時こそ尋ねる。そしてソニアは先の狂気を完全に振り払い、ただの女性に戻っていた。選ぶべき答えは、「見ていない」が無難で間違いもない。あちらの期待に沿った返答をすることで相手は安堵して、男たちは下心を差し込む隙間を見つける機会を得るのだから。
だがクロは、別にソニアに対して女の部分を求めていない。
上目遣いで尋ねるソニアに、クロは「見た。耳が四つだな」と即答する。
「うぅ……」
「気にするな。俺は背中に翅の生えた相棒もいれば、喋る鳥の友人に、輝く義妹までいる。獣耳や髭程度で扱いは変えない」
クロとソニアの関係は偶然出会い、共通の知人を持ち、同じ敵を前に共闘しただけだ。
クロは既にAF掃討と言う与えられた任務の大部分を終え、ティムの私事を手伝っているに過ぎない。もう一人(?)のクラゲとティムを見つけ出し、ティムを追っていった敵を一人残らず始末、そしてラスコーと紅緒を回収してカルグーリーに帰還して報告を済ませば今回の任務は終わりを迎える。
ソニアもソニアで、ティムやクラゲと合流したら後はクロを頼る必要もない筈だ。仮に頼ったとしても、クロは首を縦に振らないことにしている。可能ならティムと一緒に居る筈のラスコーの回収を手早く済ませ、ソニアと会わせることなく立ち去りたい気持ちすらある。それはティムがラスコーを殺そうとしたように、ソニアもラスコーを殺そうとする可能性は高いからだ。まだ話が通じたティムと違い、あの状態のソニアに意思の疎通は端から期待するだけ無駄だ。
そんな軽い関係なら敢て社交辞令など吐かず、普段の無骨な振る舞いでいい。
率直な意見は反感を買うこともあるが、それ以上に誠実さを感じさせるのだ。嘘を吐かない人間、裏表のない人間とは信用を得る為の必要条件だ。
ソニアは顔を上げ、「ふっ、なにそれ」と噴き出した。
クロもそれに釣られて気を緩めそうになるが、寸前の所で持ち堪える。顔を引き締め、口を閉じ、小銃を抱え直すとソニアにハンドサインで指示を出す。
足音が近づいてくる。物陰に隠ろ、と。
クロの意思を受け取ったソニアは言われた通りに物陰に隠れ、クロもそれより少し離れた場所で銃を構えて足音を待つ。響く足音は下から複数――かなり焦っているのか荒く、こちらの戦闘に気付いた風はなさそうであった。
誰かに追われていると考えるのが道理であるが、足音同士の間隔は驚くほど短い。
逃げる者はいても、それを追う者の影が掴めない。
それでもクロは容赦なく引き金を引く。階下から飛び出してきたのは、今し方始末した三人と同じボディアーマーと小銃を持った四人の男たちだ。皆前しか見ておらず、周囲への警戒はまるでない。
ダダダッ! ダダダッ! と銃火が煌めき、先頭の男の足に被弾する。一瞬で被弾した腿の肉が千切れて吹き飛び、男は倒れる。
「くそがっ、ここにも居やがるぞ!」
足を止めて叫んだ男の顔は、叫び終えるのを待って撃ち出したクロの銃弾でズタズタに裂ける。先の体験から、クロが狙い易い胴体を撃つことはなくなった。多少命中率が落ちたとしても確実にダメージを与えられる足の付け根や顔――ボディアーマーでは覆い切れない箇所に狙いを絞っていた。
残った二人はクロのいる方向へ闇雲ではあるが牽制射撃を行い、態勢を低して物陰に飛び込む。クロが何を狙っているのかを瞬時に理解しての行動だ。その一連の動作に一切の無駄はなく、それだけで良く訓練された戦闘員であることが知れた。
だが今のクロは、隠れた相手への解答を持っている。
クロは銃火の途絶えた隙を突き、『FN F2000』を手放し拾い上げた<安全地帯>を投げつける。回転しながら高速で迫る<安全地帯>は最早戦車砲の一撃と言っても差し支えがなく、障害物を難なく貫通してその先の男を両断する。
その衝撃に煽られて障害物と、その中に紛れて血飛沫と男の手が宙を舞う。
「――――ッ、ざけんじゃねぇ!!」
最後の一人が悪態を吐き飛び出す。牽制射撃はせず、援護してくれる仲間も残っていない。銃弾はそう簡単に当たらないと信じての行動だ。現代の銃撃戦で膠着状態に陥った場合には牽制を続けながら慎重に引き、離脱した一人が足を調達して全員が離脱する。それが定石で、定石だからこそ崩すのは難しい。早々に二人の仲間を失いはしたが、今回もその手が通用すると思い込み二人は物陰に飛び込んだのだ。
だがそれも悪手だ。
ならば後は走って逃げに徹するしか、生き残る可能性はない。
「あいつらに追いつかれたら――――」
そう考えた男の頭が握られた風船のように歪み、破裂する。胸から上が床や天井に飛び散り、一拍遅れて下半身がドッと音を立てて倒れる。男の半身から血が漏れ出し、半密室状態の空間に一層鉄錆の臭いが広がる。
「…………」
クロはそれをした相手に目を向ける。その男はクロが<安全地帯>を投げた直後にこの階に現れ、ストロボの輝きと共に逃げる相手を仕留めていた。クロとソニアが作った血溜まりをピチャピチャと踏み越えて、二人に声が届く場所までやってくる。
「すみません、手間取らせてしまって」
丁寧な口調を携えて、右手でカメラを掴んだティムが口を開く。
鉄錆の臭いに煙草が混ざり、暗闇にティムのアイスブルーの瞳と口元に咥えた煙草の火が浮かび上がる。青く輝く瞳の半分を眼帯で隠し、煙草を吹き捨てて血溜まりに落とすと途端にティムの影が薄くなる。
クロは何か答えようと口を開けたが、それより早くティムの意識が埋まる。
「ティム、ティム! 寂しかった!」
ソニアがティムに飛び付く。一見優男に見えるティムだが女性の一人二人抱き止めるのは可能らしく、ソニアを受け止めるとその胸を貸していた。
クロは複雑な表情で二人を見ているしかなかった。
何も二人の関係に嫉妬していたり、ローザやシロを思い出したりしているのではない。ソニアが頑なに触らせようとしなかったことから鑑みるに、ソニアは体内に蓄えた毒を無意識に放出するのだろう。クロ自身もピリピリと手の平が痺れる感覚を覚えている程だ。
劇物とも言えるソニアに抱き着かれ、涙や鼻水を擦り付けられたティムの無事が、少しだけ気になっているのだ。顔見知りには、ぐじゅぐじゅに溶けた男と同じ末路を辿って欲しくはない。
そんなクロの色眼鏡が掛かった視界の端に、半透明な何かが紛れ込む。
「なんだ、あれは……」
クロは宙を漂う妙な生物に興味を引かれ、けれど警戒を怠らずに近づいていく。半透明で弾力のありそうなゼラチン質の体、うねうねと蠢く触手――――それは見紛う事ない立派なクラゲであった。
「…………」
目の錯覚かと何度も瞼を擦るが、やはりクラゲは視界から消えない。全長(と言ってもクロはクラゲの全長をどこからどこまでなのかを知らず、故にここでは胴体と触手を分ける)は胴体が直径四十センチの球体で、触手の長さは二十センチから一メートル程度でバラつきがある。自然界には越前クラゲのようにもっと大きな個体が存在するが、そもそも自然界のクラゲは地上では生き残れない。
髭とクラゲだ。ティムが伝えた仲間の特徴は、想像を裏切って何の捻りも持っていなかった。
クロは漂うクラゲと向き合うと、少しだけ悩んだ後の咳払いを挟み手を伸ばす。
「初めまして、俺はクロだ」
喋る鳥を知るクロはコミニュケーションを取ろうと試みた。当人たちは気付かないが、真顔でクラゲに手を伸ばす男とそれに長い触手で応えるクラゲと言う不思議な画が出来上がっていた。宇宙人とのコンタクトだと言われても信じてしまえる程にシュールな図だ。当然、傍から見ていたティムとソニアは必死に笑いを堪えていた。
「真剣な顔で……っ、ふふっ!」
「心は通じた気がした」
「やめて、笑わせないで。お腹……お腹痛くなるから……」
ひっひっと笑い声を押し殺すソニアの横で、ティムは二人の姿(半分はクラゲだが)をカメラに収め、メモに書き込んだ文字をクロに見せる。
「この写真の題名です。現像したら、焼き増ししますね」
「with ALIEN?」
クロはそこに掛かれた文字を見て、古い思い出が蘇る。
あれは確か小学生の頃だ。家族となって数年、まだシロとの衝突の多かった頃の思い出だ。確か宇宙人特集の古い動画を見た次の日、シロが一枚の紙を見せたのだ。そこには丸い頭に二つの目、沢山の触手を持った奇妙な生物が描かれ、この自分が描いた蛸型の宇宙人こそ火星人だとシロが無邪気に笑っていた。それ見て、「足が沢山ある。それだと蛸型じゃなくてクラゲ型だよ」と幼いクロは冷静に返し、取っ組み合いの喧嘩になったのだ。
「是非頼む。出来れば二枚」
クロはクラゲのふにゃふにゃとした触手を感じながら、やはりあれはクラゲ型だと十数年前の自分を擁護しようと心に決めた。
物資搬入口から顔を覗かせると、眩しい太陽が三人と一匹を出迎える。
「ご主人、待たせすぎなの」
そして紅緒と紅緒に釣られ、撃ち抜かれたAFの死体が転がっていた。どれも首に大穴を開け、無残な姿を晒している。地を這うAFたちが頭上を押さえた紅緒になす術なくやられていったのが、その死に様からはっきりと伝わってくる。
「そっちが髭とクラゲのお仲間さん? どうも、初めましてなの」
紅緒が重たい対物狙撃銃に引かれるようにしてお辞儀をする。その仕草だけ見れば普通の少女だが、手にした銃はその印象を吹き飛ばすほどに強烈だ。何せ紅緒の握っている対物狙撃銃は紅緒の身長の八割に達し、AFに空けた大穴は指が数本入る程に大きい。反動だけで紅緒の細い体は砕けてしまいそうな印象すら感じさせる。
後ろに隠れたソニアを見兼ねて、ティムは代わりに紹介する。
「この子はソニア。とある事件で保護して以来、ずっと僕に付いてきています」
ティムの言葉に合わせて、ソニアはぺこりと頭を下げる。髭も合わせてぴくぴくと揺れ、きっとフードの下の獣耳も同様に動いているのだろう。
「こっちはジェノサイダー、見ての通りクラゲです。長いのでジェノと呼んであげてください。ギリシアの研究所で見つけ、僕に助けを求めていたので、海に帰してあげました」
「い、色々と突っ込み所があるの……!」
こちらも紅緒やソニアを真似て――けれど頭がない為、体を少しだけ沈めて触手を差し出した。普段あまり物怖じしない紅緒もクラゲへの接し方は分からないらしい。けれど人語を喋らずとも恐らく理解している相手を無下にはせず、戸惑いながらも「よろしくなの」と触手を握っていた。
ティムはコホンと咳払いを挟み
「ソニアとジェノは生まれが生まれだけに執行官にはなれません。ですが志は同じです。仲良くしてあげてください」
と、友達のいない人見知りの兄弟に知人を紹介する兄のような言葉を漏らす。けれどティムやソニアの本性を知るクロは曖昧に相槌を打つばかりで、その様子から何かを察した紅緒も口を噤みいつもの軽口は控えていた。
「そうそう、ご主人」
紅緒はクロに近づき、二人と一匹に気付かれないように耳打ちする。
「ラスコーは一緒じゃないの?」
その気使いにクロは心の底からホッとする。紅緒は鋭く場を読み取り、器用に気を回せる。それは最早才能と言っても差し支えがなく、クロに欠け、けれど人間社会で生きていくには必要なモノであった。
現に今、ソニアの目の前でラスコーの身を尋ねることは不信感を抱かせることになるだろう。ソニアはここに囚われ、ラスコーはここに滞在していた。一度でも顔を合わした機会があるなら、きっと気付くに違いない。
「それは後だ」
ソニアが敵に見せた憎悪はクロの目から見ても度を越え、それを向けられると躱すことは容易ではない。友好が一気に反転し、望まぬ戦闘を強いられる可能性も十分に考えられるのだ。友好的な関係を維持できている今だからこそ、少しでもその可能性は排除しておきたい。
いつしかティムたちと戦うことまで考慮に入れていることに気付き、クロは苦笑する。
起こり得ることを想定するのは必要だ。想像力を働かせて、様々なルートをシミュレートして潰していけば潜在的な危険を暴き出すことが出来るとクロは信じているのだ。慎重で猜疑心が強すぎると後ろ指を刺されようが、それが自分の性分なので今更変えることは出来ない。するつもりもない。
「二人とも、どうかしましたか?」
クロと紅緒の元にティムが近寄ってくる。片目を隠している所為か、それとも表情を造り慣れているのか表情から感情は読めず、優しい面持ちに不安げな声を添えて問い掛ける。
「紅緒、少し外せ」
クロは少し間を置き紅緒にそう告げる。一瞬だけソニアとジェノの方を向けられたクロの視線を見逃さなかった紅緒は、何も口に出さずに離れていく。そしてソニアの注意が近づいてくる紅緒に移った隙を突き、クロはティムに一言突き付ける。
「ラスコーは何処だ?」
クロは少しだけ語気を強め、ティムを睨む。
ティムは困ったように頬を掻き、短く返した。