Ⅱ-3
日中――そう、確かにクロと紅緒が車を離れたのは、まだ日が昇り切っていない早朝で、そこからここまで数時間も歩いていない。その間に日が落ちて夜になる筈はなく、道中の天気も快晴だ。けれど目の前には
「暗いな……」
宵の口のような暗闇が広がっていた。
元々ここは製薬会社の施設――工場や研究所を中心に発展した街で、その従業員と家族を中心に成り立っていた。三十年代半ばに工場は次々と閉鎖して街から活気は消えていったが、それでも全てではない。一定数の住民はいる筈だ。
だが今この地域一帯は、人間ではなく数多の巨木に飲まれていた。
目印に進んだ林も、目の前にすると圧倒される。
杉科の樹木は育成環境次第で高さ50mに達するものもあるが、この地を侵した樹木はそれを遥かに凌ぐ高さを誇っていた。目算で70mから80m、冬にも拘わらず数多の葉を付けたそれらが林立して、太陽の光を奪っているのだ。密に植林された杉科の植物が広がった樹冠で光を遮り、林床の他植物の生存を許さない状態を砂漠と例えることもあるが、この木々はそれ以上だ。この暗さは、植物だけでなく人間すら寄せ付けない。
踏み込むに踏み込めない状況だ。呆然と木々の見上げるクロの横に、木々を見下ろしていた紅緒が戻ってくる。
「ご主人、これはダメなの。空中からの援護は無理、下が見えないの」
戻って早々紅緒は首を振る。銃身が冷えたままの対物狙撃銃を手にして、口元をへの字に結んでいる。日光すら通さない密集した樹冠を誇っているのだ。上空からの偵察や援護を期待する方がどうかしている。
「距離はどのくらいあった?」
「直線距離で十キロくらいなの。迂回して住宅地から入ってもいいと思うの。あの周辺には木も生えてなかったけど、……うーん」
紅緒は目にした情景を思い出しながら、首を捻る。
「何か気掛かりでもあるのか?」
「思い過ごしかもしれないけど、途中でチラッと人影が見えたの」
「AFじゃなくて人間か?」
「そこまでは分からないの。本当に一瞬の出来事だったの」
クロは少し考え、携帯端末を取り出す。この地域にAFが存在するのは、索敵の反応から確定している。問題は紅緒の目にした人影が、AFに寄生された人間なのか、それともAFを始末しに来た権利者なのか分からない点である。権利者だとするなら、次は敵味方を知らなければならない。それが分からなければ戦闘になる可能性は高く、視界の悪い深く暗い森で権利者との戦いはあまり気乗りがしない。
「繋がらん」
せめて同僚の執行官かどうかだけはオペレーターに確認しようとしたが、携帯端末に電波が入らずに連絡は取れずに終わる。そういう土地柄なのか、それとも妨害電波が出ているのかは分からないが、問題がややこしくなりそうなのは変わらない。
「紅緒、お前は一旦車に戻り、武器を変えて来い。散弾銃と盾潰しだ。俺はこのルートを真っ直ぐ進む。三十分後に目的の工場地帯に着いていなかったら、工場側から真っ直ぐこの場所に向けて進め」
盾潰しとは、本来は強化兵装用に開発され、分厚い装甲を高速射出された杭で撃ち抜く手甲のような形をした装備である。それをTPTOが小型化し、炸薬部分と杭に対物ライフルの12.7mm弾を流用出来るよう調整した謂わば紅緒専用の装備である。紅緒の力でも正面から殴り付ければ防弾ガラスを貫通出来る破壊力を引き出せる。
もっとも扱うには近接戦闘に耐え得る頑丈さと胆力、そして衝撃を逃がす柔軟さの三つを両立させなければならず、それを満たす権利者は他の武器を選ぶか武器に頼らない戦い方に秀でている場合が多い。故に非効率的で限定的な盾潰しは、狙撃銃と対物ライフルの12.7mm弾を持ち歩く紅緒専用となっているのだ。
「了解なの。……もし、途中で出会えなかったら?」
「そのまま車まで戻れ」
クロは鍵を投げ渡す。紅緒はそれを受け取るが、飛び立とうとしない。
「ご主人の武器は持って来なくていいの? それ一本で大丈夫なの?」
「ああ」
「どう見ても鉄パイプなの」
クロの手にした武器――<安全地帯>はどこからどう見ても鉄パイプで、銃火器や刃物でないそれを武器と言い張るのは無理がある。
「……ま、私はご主人が良ければいいの」
紅緒は半透明の翅を取り出し、空に飛びあがる。紅緒と行動を共にし始めて既に半年が経過した。成長期の紅緒の身体はすくすくと育ち、その成長は翅にまで及んでいる。以前は両手を横に広げた状態で肘程度の大きさしかなかったが、今は両手の指先まで達する程に成長している。
その羽搏きは力強く、姿は見る見るうちに見えなくなってしまった。
「三十分は長かったかもしれんな」
成長に伴い、紅緒の機動力は目に見えて上がっている。障害物のない空中を進む紅緒にとって、三十分は充分過ぎる猶予である。
クロは胸を張り冷たく新鮮な空気を体内に取り込むと、紅緒とは反対方向――深い森に足を踏み入れた。
薄暗い森の中、散発的に襲い掛かってくるAFを<安全地帯>で叩き伏せながら、クロは奥へ奥へと進んでいく。足場はそれほど悪くない。背の高い樹木以外の草木が生い茂っていないのは季節の所為でなく、巨大な樹木の根が大地を覆い尽くしているからだ。
クロはAFの爪を躱し、その返しに重く鋭い一撃を叩き込む。
クロに襲い掛かってきているのは全て成長型AFだ。随所に寄生型だった時の名残――人間の衣服の切れ端が引っ掛かっている。白い布は白衣だ。プラスティックのような材質の布は防護服なのかもしれない。兎も角、ここ一帯の人間は残らずAF化していると考えて間違いないだろう。住民の総数も何百何千いるのか記録に残っておらず、そもそもAFが何人の身体を経由すれば寄生型から成長型に移行するのかも分かっていない。
何体のAFを倒せば終わりが来るのか、クロには知る由もない。
「…………」
叩き伏せること数体、周辺からAFの姿は消えていた。索敵にも反応はなく、死体は巨木の根を避けるようにして転がっている。<安全地帯>に半身を千切られて尚、AFは根から逃れる為に這いずり動いていたのだ。
この深く巨大な森林とAFには、何かしらの関連性があるのかもしれない。
「だが、関係ない」
クロは<安全地帯>にこびり付いたAFの血肉を振り払い、足を進める。
クロはAF専門の研究者ではない。どれだけ思いを巡らせ、現状を読み解こうとしても限界はある。フィールドワークの得意な学者は些細な変化に気付き、環境から多くを読み取ることも出来る。AFの調査に向いているのは本来そういった性質を持つ学者で、クロもその性質を少なからず秘めていると言えなくもない。些細な変化を読み取るのは、他者より多くの時間を与えられたクロに許された技能の一つなのだ。
だが、それもやはり関係ない。
クロは平然と森の中を、目的地目指して歩く。
例えばクロがAFの些細な行動の変化に気付いたとして、それを裏付けるだけの確証は短時間では得られない。確証を得る為の検証すら戦闘では手間でしかない。仮にAFが木の根を恐れるメカニズムが実在したとして、それを利用するよりも直接叩き伏せた方がクロにとっては単純で迅速な処置となる。紅緒にしても同じことだ。AFのデータを取り、行動パターンを解析するのは研究者たちに任せればいい。矢面に立つ者がそれを為さなければならないのは、本当に追い込まれて起死回生の打開策を探る時だけで十分だ。
クロは淀んだ空気を<安全地帯>で切り払い進む。
既に目的の工場地帯までの道程を半ば過ぎて、AFの襲撃もほぼなくなった。日光の差し込まない森はじっとりと湿り、雪山のような乾燥した寒さとは別種の冷気を溜めこんでいる。AFの襲撃が緩やかなのは、寄生生物としてのAFが寒さに弱いからなのかもしれない。元々既存の寄生生物は外界で生きられないからこそ他者の体に宿るのだ。成長して形態を変えた所でその生態の全てを一新出来る訳ではない。
「いや、違うな」
クロは思わず自嘲する。
AFが寒さに弱いとして、それに寄生生物という括りは関係ない。零度付近を行き交う環境下では、人間や他の生物の大多数が筋肉を委縮させ、その運動能力を低下させる。
例外は、自分の方だ。
血液の巡りが他者より速いクロの身体は、それだけ心臓から指先まで温かい血液が行き渡り、その結果は当然体温として表れている。クロの平熱は一般人と比べて2℃から3℃高く、出血がなければ更に高めることも出来るのだ。人間離れしているのは常々自覚していたが、改めて思い知ると少しだけ沈む。
「……ん?」
不意にクロの耳に、足音が飛び込んでくる。騒がしい足音だ。どたどたと遠慮なく木の根を蹴り、大地を踏みしめて走っている。一瞬紅緒かとクロは考え、即座に首を振る。人目を気にする必要がなく、即応体制を取った紅緒は走らない。大地から足を離し、自らの翅を震わせて走るよりも速く空中を泳ぐのだ。故に足音など生まれる筈もないし、そもそも示し合わせた方角からの足音ではない。
ならば、誰だ?
「紅緒の見つけた人影か」
クロは浮かんだ予想を八割方そうだと決めつけ、次の行動を探す。端的に言うなら、接触するかしないかだ。あの慌てようから察するに、足音の主はこちらに気付いていない。いや、クロが生み出した戦闘音に気付いて走り出した可能性は捨て切れないが、今の目的は違うと断言出来る。
チラリと遠目に逃げる人の姿と、それを追う巨大生物を見つけてしまったからだ。
逃げているのは深緑色のガウンを着た若い女性で、彼女を追うのは目を疑う程の巨体をくねらせる蛇だ。大蛇は木々の合間を縫って彼女を追い、彼女は必死の形相で駆けていた。小枝に引っ掛かったガウンは随所が破れ、泥が跳ねて斑に染まっている。だがあの牙に、あの大きな口に噛みつかれてしまったら衣服の汚れなど気にすることも出来なくなるのだから、必死に逃げるのも道理というモノだ。
クロは充分に距離を確保して、その一人と一匹に並走する。
当然追われる女の顔に見覚えはない。十中八九追われる彼女は執行官ではない。執行官ならばガウンなど着て戦場に踏み入れる筈もなく、仮に執行官であっても大蛇程度に遅れを取るなら助けても足手纏いになる。
それでもクロは、横合いから殴り付ける機会を窺っている。
あの女は貴重な生存者だ。最終的に生かして返さないにしても、この場所で何が起こり、何の影響で巨大な密林が誕生したのかを知っている可能性は充分に考えられる。任務についてTPTOから情報が殆ど渡されていない現状、身を守る情報を自力で調達したとして、誰が口を挟めるだろうか。
クロは左手に<安全地帯>を持ち替えると、空いた右手で二本の投げナイフを握る。
立ち止まり狙いを付け――投擲する。
「きゃぁっ!」
クロの投げた一本のナイフは一直線に進み、逃げる女の太腿を掠る。
「――――ッ!」
足に傷を負った女は無惨に転倒して、端整な顔に泥とも苔とも分からない汚れを付ける。倒れた彼女は一瞬走るのを止めた自分の足に目を向け、その傷を作ったクロに気付く。その顔には恐怖と驚きを織り交ぜられ、汚れも相成ってとても歪んで見える。
そして大蛇の牙が彼女に突き立てられようかとしたその時、クロの手は止まる。
本当ならば彼女に襲い掛かる大蛇の首に二本目のナイフを投擲する手筈であったが、大蛇の首は壁に突き当たったかのように弾かれ、体は大きく曲線を描く。
「何をするの!!」
クロに対して怒声を浴びせる女と、細い舌をチロチロと動かし彼女との間合いを測る大蛇を見比べ、クロは仕方なくナイフを大蛇に向けて投擲する。その図体に似合わず敏捷な大蛇も、『加速』をたっぷり付与された投げナイフは躱せず、ずっぽりを肉厚の胴体にナイフを食い込ませる。
ナイフに身体を抉られた大蛇は身を捩らせ、クロを睨む。
大蛇は想定していたよりずっと大きい。全長は十五メートル近くあり、その口と首は大人をそのまま飲み込めるほどに太い。投擲に使っているナイフの刃は十二センチ、致命傷を与えたとは言い難い。
大蛇はクロを敵と見定め、クロも大蛇を迎え撃つ為に<安全地帯>を利き腕に持ち替える。
「それ以上近づくな」
大蛇から逃れるようにして近づいて来たガウンの女に、クロは冷たく言い放つ。
「――――ッ! ふざけないで! アンタの下手糞なナイフがうちの足をこんなにしたんだ! 責任を取るのは当然でしょ!」
「…………」
キャンキャンと喚くガウンの女は制止も聞かず、遠慮なくクロに近づいてくる。クロも仕方なく、それを打開する為の対策を打つ。
「ちょ、ちょっと! なんで動いてるの……、その位置はダメ! やめて!!」
クロが足を動かして数歩、その立ち位置を変えた途端にガウンの女は顔色を一変させる。今彼女が立っているのは、まさにクロと大蛇の一直線上だ。爬虫類特有の細い瞳も、チロチロと蠢く舌も、クロに向けられる前に自身に向いていることに彼女は気付いたのだ。
大蛇にとって、威圧感を放つクロは敵だ。
「嫌なら、目を閉じ黙って身を縮めていろ」
だが大蛇にとって、逃げるガウンの女は獲物でしかない。
クロは<安全地帯>を上下に動かし、握り心地を確かめながらガウンの女――そして大蛇との距離を詰めていく。大蛇もより首を持ち上げ威嚇するが、クロは怯まずガウンの女に歩み寄る。
そして唐突に、<安全地帯>を手近な樹木の幹に叩き付ける。
<安全地帯>により幹は抉れ、木片が飛び散る。ガウンの女が短い悲鳴を漏らし、頭上の葉がざわざわと揺れる。けれどクロは<安全地帯>を振り抜いたクロは微動だにせず、ジッと大蛇を睨んでいる。
その状態が数十秒続き、頭上から無数の葉が舞い落ち二人の間を遮るモノが増えると、大蛇はクロとの敵対を諦めて身を翻す。
「…………」
苔がびっしりと生えた緑色をした木の根に、大蛇の通り道が傷痕のように残っている。オーストラリアの生態について、クロは全く詳しくない。だが常識に考えて、あのサイズの蛇が三十年前に存在していたかと訊かれると、答えは否だ。
「た、助かった……」
この森には、何かがあるのだろう。研究所もその関連なのかもしれない。
「まだ、助かっていない」
クロは<安全地帯>をへたり込んだガウンの女に突き付ける。冷や汗が女の頬を伝う。それは<安全地帯>を突き付けられ、再び危険を背にしたからでもあるだろうが、もっと潜在的な負い目があるのだとクロは推測する。
「お前は何者だ?」
詳細は、恐らくこの女が知っている。女は間違いなく、研究所から逃げ出したのだ。
それだけの確信を、今のクロは握っていた。