Ⅱ-1 猛毒と空の器
南半球の八月上旬はとても肌寒く、所々雪もチラついている。曇り空の合間から夕焼けが覗き、暗く疎らな人通りを白と赤の斑に彩っている。いつもは観光客で賑わいをみせているこの場所も、暗鬱なニュースが続く情勢に引き摺られて些か活気がない。
「ハウマッチ?」
そんな陰鬱さを吹き飛ばすような快活な声が、中央広場のベンチに座っている女性に向けて投げ掛けられる。女性は透き通る綺麗な長髪を一本に纏め、ブーツにコートといった在り来たりな装いで寒空の下、何をする訳でもなく一人でジッとしていた。遠目に見ても充分美人だと分かる顔立ちをしている。
「…………」
彼女は侮蔑を孕んだ視線で声の主を見返す。彼女の顔に生気は薄いが、敵意は剥き出しにしている。その相手の全てを否定する眼差しに気圧され、今まで「遊びに行こうよ」などと声を掛けた男たちは皆一様に退いていった。
だが今回声を掛け、ニッコリと笑みを浮かべて立っていたのは男性ではなく女性――それも子供と言っても差し支えがない程に未成熟な少女である。丈の長い黒いコートを着ているのに少しも大人びて見えないのは哀れであったが、それでも侮蔑は消え去らない。その対象は、少女にこんな声のかけ方を教えた背後に向けて変わってしまったが。
「そんな目で見ないで欲しいの。私、お姉さんの体を買う気なんてないの」
少女の焦げ茶色の瞳が周囲を確認するかのようにくるくると動く。少女が何故自分に声を掛けたのか、その理由を話すまで彼女は無言で待ち続けた。
「私の名前は紅緒、怪しいけど、悪い方面に怪しい者じゃないの。お姉さんに声を掛けた理由は色々あるけど、一番は声を掛けて欲しそうにしてたからなの」
彼女の様子を察した紅緒が、簡潔に理由を告げる。その無邪気な装いに彼女の警戒心は少しだけ解れ、言葉を返そうと口を開くが、止まる。パクパクと口を動かし言葉を紡ぎ出そうとして、そこで止まっているのだ。
「――……、……っ!」
意を決して声を出すが出てきたのは掠れた音だけで、言葉ではない。彼女は俯き、膝を抱える。目元を拭い、声を出す意思を捨て去ろうとする。
「わたしは、……何なの?」
その矢先、紅緒が彼女の"声"に応える。彼女が出そうとした言葉を聞き取り、紅緒は首を傾げる。
「先を言ってくれないと分からないの」
「――――!?」
「私は他人より耳が良いの。遠くの音が聞こえるとかじゃなくて、音域の方向に敏感なの。こう、……まあいいの。会話が出来るなら、詳しい説明なんて野暮なだけなの。それで、どうしたの?」
彼女は唖然とする紅緒に抱き着き、声にならない叫び声を上げながら涙を流していた。抱き継がれた紅緒は無理矢理引き剥がすことも出来ず、ただ困惑するしかなかった。
「それで、連れ帰ったと?」
クロは溜息と共に紅緒の頭を小突く。そして頭をわしゃわしゃと掻き回しながら、紅緒の連れてきたアレッサンドラに椅子を勧める。
「連れて来てどうする。巻き込むことになるぞ」
「でも、でもご主人、アレッサンドラを放っておけなかったの」
「……それで」
アレッサンドラはクロを警戒する。クロが半ば諦め気味に紅緒に与えたのは、二百万の人口を誇るこの街から権利者を探し出せという無理難題であった。
権利者を探し出す方法は、未だに確立していない。
「アレッサンドラは、多分権利者で間違いないの」
だが、紅緒は断言する。クロは訝しみながらも紅緒に根拠を尋ねる。同じ強化型の権利者であっても、クロと紅緒の底上げされた箇所は違う。クロは『加速』に耐え得る強靭な身体能力と治癒力が、紅緒は敏捷性と動体視力を中心に幅広い分野で常人を越えている。常人には発現していない感覚器官が発達している可能性も考えられる。
「根拠? 直感なの」
何も悪びれることなく紅緒は口にする。クロも初めは眉を顰めていたが、アレッサンドラの境遇を聞かされて思い悩む。
アレッサンドラは、この街の生まれではない。出身はイタリアの片田舎で、以前は欧州を中心に活動していたソプラノ歌手だ。天使の囁きと称された澄んだ歌声は多くの聴衆を魅了して、多くの国の劇場から出演依頼が来るほどに彼女の人気は高かった。
「で、甲状腺がんを患って声を失ったと」
シドニーのオペラハウスの講演後、違和感を覚えたアレッサンドラは何かに急かされるように病院に駆け込み、そこで初めて自身の喉を蝕む病魔と対面した。見つかった病魔は開き直ったかのようにアレッサンドラの喉を侵し始め、マネージャーとスポンサーに相談して結論が出た時には、既に手術は避けられない状態にまで悪化していた。
「――、――――」
「でも、手術は失敗したの」
アレッサンドラの手術は失敗した。余所に転移する前に癌は取り除けたのだが、声は戻らなかった。歌うどころか自分の声では二度と喋れないアレッサンドラを、マネージャーとスポンサーは異国の地に置き去りにした。パスポートは手術のどさくさで紛失、多額の手術費用は今までの報酬をあっと言う間に溶かしてしまった。頼れる相手は、もういない。そして温室育ちの彼女は一人で祖国に帰る船にも乗れず、渡された手切れ金も底を尽き、やることもなく一日中街の片隅に腰を下ろしていた。
凍死と身売り――どちらにするか日が落ちる前に決めないと、そう悩んでいた時に偶然紅緒が声を掛けたのだ。
「アレッサンドラ怯えてたの。何かを感じ取って、警戒して、そわそわしていたの」
「なるほど、適任か」
「――……?」
「アレッサンドラ、私たちはこの国で、その何かを探しているの」
紅緒はアレッサンドラの目の前でくるりと回転して薄く長い翅を取り出すと、手を差し出す。今この世界で、唯一声が届く相手が手を差し伸べているのだ。
「だから、私たちに協力して欲しいの」
アレッサンドラはその手に縋った。どれだけ纏う雰囲気が奇妙でも、今この街で頼れるのはこの少女しかいないのだから。
繁華街は昼夜関係なく人が集まり、至る所で寒さを跳ねのけた人々が杯を傾けている。
「――――、――」
「そうなの? 私もご主人も一緒なの。お酒は飲まないし人混みは苦手だから、こっちの方まで来ることはなかったの」
「俺たち以外も数組が巡回しているが、どうにも上手くいかん」
クロと紅緒、そしてアレッサンドラは盛り場を練り歩いていた。どこの店にも入ろうとしない三人を訝しむ者はいない。入り口の前で立ち止まり、メニューや店の雰囲気を吟味して他の店を探す若者三人組など、特に珍しくもないのだ。
「――、――――……?」
「AF……私たちが探している化け物は確実に潜んでいるの。私たちはまだ遭遇していないけど、既に数匹は見つかってるの」
「基本的に売春婦やギャングモドキの若者たちを中心に広まる可能性は示唆されていた。事実その方面を当たったペアはAFと遭遇し残らず処理している。気配の察知から報告、執行官の集結までそれなりの時間があったが、大繁殖はしていない。恐れなくていい」
恐れなくていい、と言われはしたが、そもそもアレッサンドラの信疑の割合は二対八で、本当にAFがいるいない以前に、詳細すらあまり把握していない。街を回って違和感があれば教えてくれと頼まれただけだ。
「きっと、女王がいないからなの」
「――? ――――?」
「意図的にAFを広めようとする司令塔みないな奴なの。ここにはいないみたいだけど、いたらあっと言う間に広まるの」
紅緒は自虐的にアレッサンドラの疑問に答える。クロはその痛ましさに目を背けたくなるが、紅緒の言葉には一考の余地がある。
人類がAFと遭遇したのは、アフリカと九州の二回だけだ。そのどちらもが現地住民に甚大な被害を齎し、結果として無人の野と化してしまった。故にAFの繁殖力は凄まじく、一匹見つけたら必ず他にも潜んでいるモノだと考慮して動くべきだとTPTOの執行官は教えられていた。
だが、このシドニーにAFの気配は溢れていない。
潰した数匹は何れも寄生型で次の形態――成長型まで進んでいない。ある筋からは人ひとりを掌握するのがやっとで、広める段階まで進めないのではないかとの考察も出てきている。更にあのサイズの寄生生物が人間を意のままに操れるだけの思考回路を持っているのかも怪しい。AFの本能で片づけるには、些か謎と矛盾が多すぎる。
思考に耽ったクロの肩を、とんとんと紅緒が叩く。
「――――」
「見つけた、って言ってるの」
アレッサンドラは足を止め、二十メートルほど離れた建物を指差している。黄色い灯りが点ったそこは個人経営のバーらしく、繁盛しているのか中から笑い声も聞こえてくる。
「アレッサンドラ、あの店か?」
クロは意識して索敵を飛ばす。元が強化型の権利者だけに、発散型のように自在に索敵を使いこなせないのだ。最初は物珍しかったソナーのような力の伝播より、どうしても慣れ親しんだ強化型の感覚強化に頼ってしまう。
「少し待っていろ」
紅緒とアレッサンドラを押し止め、クロは一人で店に向かう。あの人、いつもあんな風なの? と言わんばかりの視線でアレッサンドラは紅緒を見つめる。紅緒は特に悩むことなく、飄々と答える。
「ご主人は、いつもあんな風なの」
少ししてから店から怒声が溢れ、それに追われるようにして男の襟首を掴んだクロが飛び出し、男のツレとバーテンダーが続く。ツレとバーテンダーはクロを押し止めようと激しく抵抗していたが、当の本人はされるがままの状態だ。
「紅緒、行くぞ。興味があるのならアレッサンドラ、お前も付いてこい」
クロは擦れ違い際に紅緒とアレッサンドラにそう伝える。紅緒は素直にクロの後に続き、アレッサンドラは少しだけ悩むも二人の背中を追う。
「そうそう、これなの」
アレッサンドラが続いたのを確認した紅緒は、その手を引いてクロを追い越すとクロの右の目元に浮かんだ印を指差す。
「『――――』?」
「そうなの」
『挑発』――クロの持つその『魔法権利』こそがAFを宿した男を黙らせ、抑え込んでいた。『挑発』に乗ったのはAFとAFに寄生された人間のどちらかは分からない。だが路地の奥の奥へと引き摺られる男の顔には、焦りが色濃く見て取れた。
「ここでいい」
クロは男を放り出すと懐から手袋を取り出し、両手に嵌める。後ろには紅緒とアレッサンドラが、その更に後ろには男のツレが様子を窺い、支払いを済まさずに飛び出した彼らをバーテンダーが見張っている。
誰も手を出そうとしないと知ると、クロは『挑発』を解き
「掛かって来ないのか、化け物め」
そして、再び『挑発』する。相手を煽るにしては淡々として味気ないが、その効果は折り紙付きだ。逃げようとした男の意識は無理矢理引き寄せられ、足を解れさせて転倒する。戦意は薄い。『挑発』に応じたのは体内のAFだけで、外の男はAFに逆らってまで逃げ出そうと躍起になっている。
仕方なくクロは男の襟首を掴み、壁に叩き付ける。
「アレッサンドラ、違和感は左の鎖骨から首で間違いないな?」
じたばたと抵抗する男を組み伏せたクロが、片手でコートを引っ剥がす。そこには男の肌色と、火傷跡のように肌色を侵食する灰色が浮かび上がっていた。
「ひっ! なんだよそれはっ!!」
クロの背中に飛び掛かろうと忍び寄っていたツレの一人が、その悍ましい模様を見て腰を抜かす。悪趣味だが普通の刺青のようにも見える。
但し、その模様が動くとなれば話は別だ。
模様は手を離したクロを追って鎖骨から指先、そして逃げるようにして体の奥に消えていった。生物のような模様――いや、模様のような生き物が男の体内に潜んでいるのだと、この場の全員が目にしたのだ。
クロは拳を固めると、男の腹部に突き立てる。
「あ、ああ、ああああああ!!!」
ぐちゃりぐちゃりと湿った音が路地に響き、ツレの一人が胃袋の中身を吐き出す。抉った腹部から血は殆ど出ていない。灰色の粘液と最低限の内臓系、そして店で取り込んだ酒やツマミ――残りは空洞だ。九州の時と同じ人間の抜け殻だが、その抜け殻を作ったAFはあの時よりずっとひ弱だ。
クロはAFの尻尾を掴むと、一思いに引き摺り出す。
ぶちぶちと男の体内に絡みついたAFの触手が千切れ、灰色のヒトデのような生き物が飛び出してくる。
「シャアアアアアアッッ!!」
触手をうねらせ威嚇するAFをクロは容赦なく踏み潰し、念入りにブーツの裏で磨り潰していく。路地に灰色の肉片が飛び散り、血とは違った生臭さが広がる。強いて言うなら苔のような青臭さで、動物的な獣臭さではない。
クロは下腹部を押さえて唇を噛む紅緒と、へたり込んで口をポカンと開けているアレッサンドラの前に立つ。アレッサンドラはクロのブーツにこびり付いた灰色の肉片と、壁に凭れ掛かり息絶えた男を見て目を逸らすが、クロは構わず口を開く。
「アレッサンドラ」
クロは調子が悪そうな紅緒を横目に、クロはアレッサンドラを呼ぶ。
「怖いか? 気持ち悪いか?」
「――――!」
「だろうな。ならば似たようなやつを、あと三人見つけ出せ」
「――……? ――――!!」
紅緒と違い、クロにはアレッサンドラの声は聞こえない。けれど、意思の疎通が全く出来ない訳ではない。些細な表情の変化やこちらの言葉に対する態度から、相手がどのような内容を口にしたいのかは大まかにだが把握出来るのだ。
現にクロはそれを実行し、アレッサンドラと問題なく言葉を交わしている。
「無論タダでとは言わない。俺を手伝うなら、利子なしで帰郷の船代くらい貸してやる。諸々の手配も全て俺が手配して、その旅券を渡してもいい」
その条件に、アレッサンドラは息を飲む。
航空機が社会の上澄み専用の移動手段となった現在、長距離移動に使われるのは専ら船と鉄道だ。そしてオーストラリアから故郷のイタリアまで直通の船はなく、故郷に帰るには多くの国で幾つもの乗り換えを行う必要がある。海外公演で各地を転々としていた時にはマネージャーに全てを任せていたそれを、今は自分の力でやらなければならないのだ。物心ついた時から歌い、多くの若者に必要な勉学を放棄して歌の技能を高めた世間知らずのお嬢様には、そのハードルがあまりにも高すぎる。
それを全て、クロは肩代わりすると言った。
その報酬を受け取る為の条件は、灰色の生物を宿した人間を見つけ出すこと。アレッサンドラはクロが何故AFを探しているのかは知る由もないが、AFを宿した人間の感覚だけは嫌と言う程に覚えていた。ベンチに座り何日も何百人も眺めていたアレッサンドラが時折感じた、敵意と怯えを織り交ぜた視線を放つ人間だ。個々の容姿に特徴はないが、彼らの持つ特有な波長を辿っていけば今回のように問題なく辿り着ける。
「――――……?」
「紅緒、今アレッサンドラは何て言った?」
「私の身に危険は? って言ったの。私とご主人が一緒なら問題ないの」
紅緒は不調を振り払い、薄い胸を張ってクロの代わりに答える。けれどクロは紅緒の肩を掴み、首を振る。
「紅緒、お前は連れて行かない。ホテルに帰れ」
クロは紅緒の同行を許可しない。紅緒の顔は見る見る曇り、口元を尖らせる。
「子供を連れて深夜徘徊は呼び止められた時に面倒だ」
「むぅ……」
平坦な自分の体に手を這わせ、何も言えなくなる。昼間と違い、夜間の盛り場には酒が付き纏う。若い女性、それも未成年となれば店側は敬遠し、未成年の女の子を夜遅くに連れ回す男を警戒しない人間は稀だ。
至って合理的な建前を使い、クロは紅緒を遠ざけた。
「あと五年……三年でご主人に見返してやるの!」
紅緒はクロにそう宣言すると、逃げるようにして路地から走り去った。