Ⅰ-2
古臭い公共集合住宅の合間を一台の高級車が走り去る。
放置された洗濯籠を踏み潰し、車体が傷つくことも厭わずに木の机を撥ね飛ばして進む高級車の中には、高級車が似合わない薄汚れた男と集合住宅地には場違いな高級スーツで着飾った女、そして運転手の三人しか存在しない。
「くそっ、何処から情報が漏れたんだ!」
薄汚れた男は乱暴に椅子を蹴り、自らに振り掛かった理不尽に対する苛立ちを和らげる。役人には多すぎず少なすぎない適切な額の賄賂を渡し、浮浪者を中心に集めた作業員を武装させた戦闘員に四六時中見張らせ、情報が外部に漏れる可能性は万に一つもなかった筈だ。
英国中国米国を初めとした多くの国や企業がその港に集い、押し付けがましい秩序を撥ね退け、善悪を混ぜ合わせた様々な人の行いにより混沌を極めた無法者たちの楽園――それが魔都香港。
「原料密輸に係わったイラン人かヤクの売人、もしくは兵隊寄越した仲介人辺りか……、くそがっ! くそっ! くそっ!!」
何度も何度も男は椅子を蹴るが、僅か数分で齎された損失は返ってこない。男は元々インドネシアに拠点を置く華僑系マフィアのボスで、TPTOの締め付けから逃れるように香港に辿り着き、今の職を手にしたのだ。
「麻薬は資金調達に過ぎません。ホァンさん、我々の本来の目的は」
「分かってるよ、アンタらが望んでるのは闘争で革命だ。世界各地の犯罪シンジゲートを集めて束ねて支配者たちをぶっ潰そうってんだろ」
それがホァンの取り込まれた組織――東アジア武装戦線の目的である。武力を背中に隠した人影が最上層から最下層まで均等に叩き壊して作り上げた今の安定と平和――悪人に住み難い世界を、同じようにして壊してやろうとする集まりだ。
暴力で世界は変わる。
理想の世界を作るのに、暴力は有効な手段だと彼らは知らされた。
「みーぃつけたの!」
そして暴力はより強大な暴力によって平らげられる、と今まさに教えられていた。
走行中の車のボンネットに少女が飛び乗る。小さな体は車体を揺らし、着地音は車内の三人に異様なプレッシャーを与える。時速七十キロで狭い路地を進む車を狙い、ピンポイントに飛び乗ってくるなど規格外もいい所だ。
「狼どもめ!」
少女は白茶黒の三色の髪を肩口に揃え、五月の温かい香港ではまず見掛けない黒いコートを羽織っている。その隙間から幼い体には不釣り合いな黒皮のボディコンスーツと首輪のようなチョーカーが覗いている。顔立ちから東洋人であるとは分かるが、休日に友人と繁華街を練り歩く類の人間とは一線を画している物騒な眼差しを輝かせる少女だ。
着飾った女が懐から拳銃を取り出すと、フロントガラスの半分を占拠する少女に向ける。撒いたと思った矢先の襲撃に彼女の我慢は限界を超えていたのだ。
ホァンは着飾った女の拳銃を押さえ、運転手に向けて叫ぶ。
「馬鹿……防弾だ、撃つな! トンク、そいつを振り落とせ!」
この高級車は硬く、そして速い。その気になれば装甲車と鉢合わせても五分で逃げ切れる程度の性能は持っている。外に何人張りつこうと、対車両ミサイルを持ち出しでもしない限り鉄壁の守りは破れない。
但しその前提は、常識の範囲内に限る。
運転手がハンドルを切る直前、少女のコートの袖から飛び出した右腕――その先端に備え付けられた機器が鈍く光り、フロントガラスに叩き付けられる。ライフル弾を数発なら防ぎ切れるガラスは、少女の拳に負けて罅割れ、少女の拳の先から飛び出した杭がその罅割れを襲う。
「――――は?!」
気づけば互いを分ける頑丈なガラスは砕け散り、三人はしたり顔で微笑む少女と同じ空気を共有する。
フロントガラスの砕ける音は、割れた窓から吹き込んだ風に掻き消され、雪崩れ込む硝子の雨が三人を無差別に襲っていた。切り傷擦り傷は少女のインパクトに覆い隠され、痛みを感じ始めた頃には次の衝撃に見舞われた。
頑丈な高級車は公共住宅の壁に大穴を開け、止まる。
「トンク、何してやがる!」
展開したエアバッグを押し退け、身を乗り出したホァンは後部座席からトンクの肩を掴む。ボンネットに飛び乗った少女を押し潰す為にそうしたのかとも思ったが、ホァンはその考えが間違いだと一目で悟る。
「……ホァンさん?」
「降りて、走るぞ。狼は絶対に一人じゃ動かねぇ。もう一人、近くにいる筈だ」
トンクはフロントガラスを砕いた杭に貫かれ、驚き顔のまま絶命していた。フロントガラスを砕いた少女は見当たらない。壁の向こうまで飛ばされたのか、はたまたギリギリの所で脱したのかは分からない。だが、奴を探してトンクの仇を取る余裕がないのは確かである。
ホァンは着飾った女の手を取り走り出す。右手に拳銃、左手に女の手――そこだけ切り出せばラブロマンスかアクション映画の一場面に見えるシチュエーションだが、彼と彼女の関係は麻薬売買を担う武装組織の中堅幹部と武装組織の出資者だ。
物騒で、とても主役とヒロインに当て嵌めていい肩書ではない。
「ヒールを脱げ!」
ホァンは苛立ち気に怒鳴る。工場の作業員や売人、兵隊や仲介業者、まして麻薬畑のイラン人などでは絶対ない。薄々と察していても口に出さなかったが、TPTOの執行官がマークしていたのは、この愚鈍で場違いな日本人の女に違いない。
「くそっ!」
三十年代の半ばから、闘争の形態が変わった。銃や角材を振り回して徒党を組む戦い方は既に時代遅れの戦法と化し、次にやってきた情報と金の流れを抑える凌ぎも廃れた。最先端は個々の武力を高めて情報の優位を含めて一方的に制圧する執行官のような戦い方だ。ここは戦車や砲弾が行き交い長い塹壕が掘られた平原の戦場ではないのだ。街に溶け込み、多対一に特化した狼にはまず勝てない。
「銃を捨て、両手を上に上げろ」
だが、諦める訳にはいかない。
抑揚のない声の男が路地から飛び出してくる。まるで警官のような言葉を垂れ流す男の顔など確認せず、ホァンは銃を向けて引き金を引く。常識的に考えて、この状況で現れる警官など居る筈もなく、仮に警官だとしても殺した後で各所に金を渡して――前時代的なやり方で黙らせればいい。
銃声が集合住宅に反響する。
「銃を捨て、両手を上に上げろ。……俺はそう言ったが」
「……っ、ぐぁ!」
途轍もない早撃ちでホァンは手にした拳銃を撃ち落とされ、相手の放った弾丸は右肘と肩をも抉っていた。
銃声は一発分ではない。少なくとも六発、圧縮された銃声が痛みを伴って体の芯に伝わった。
ボンネットの少女とお揃いの黒いコートを羽織った男は、小さなリボルバーを手にしている。装弾数は回転弾倉に収まる六発――その全てを吐き出す間、銃口はピクリとも動かずに止まっていた。世界の常識に当て嵌まらない光景だ。技能以前の問題だ。発砲時の反動を片手で受け切るなど、ゴリラ並の筋力があっても為せるか分からない。
「TPTOの執行官だ。お前の身柄を拘束する」
執行官の男は役目を終えたリボルバーを懐に納め、静かに宣告する。
「俺たちからは逃げられない。抵抗も無駄だ。死にたいなら後で殺してやる。死にたくないなら、頭を後頭部に回して両膝を付け」
武器を納めはしたが刃物のような雰囲気を纏い続ける男を前に、ホァンは抵抗の無意味さを知り指示に従う。右肩が焼けるように痛く、肩から脇腹に流れる血液の生暖かさが不快感を呼び込み、意識を揺らす。
「……ここまでか、降参だ」
勝ち目がないことを悟ったホァンは両手を挙げて負けを認める。
だが、ここには自分の他に場違いなもう一人がいたことをホァンは思い出す。
「黙りなさい、ホァン。恥知らず。臆病者。死ぬまで戦うのが貴方たちの仕事でしょう。降伏など認められないわ」
「あの男相手に、か……? 無理だぜ。奴は巷で話題の超能力者だ」
ホァンは無茶を言う場違い女を見上げて首を振る。
「戦いたいなら、あんた一人で戦いな。俺はごめんだぜ」
「そう。なら死になさい」
女は軽蔑した眼差しでホァンを見下し、その蟀谷に懐から取り出した銃を向ける。
「ちょっと待つの」
引き金を引く寸前に、二人の間に少女が割って入る。前後左右どこからでもなく、上空から割り込み銃を叩き落とす。
「勝手に殺さないでほしいの。私たちの標的は端からホァン・リー・リン、こっちの男だけなの。ヒステリックに仲間に銃を向ける恥知らずなおばさんは鬱陶しいから、隅の方で震えているといいの」
「な……っ!」
「銃を拾いたいの? ダメなの。もう私の足が使ってるの」
黒コートの少女が愉快に笑う。少女の足元には場違いな女の手から叩き落とされた拳銃が転がり、手を伸ばそうとした女の手より早く少女の足がそれを踏んでいた。場違いな女は立ち上がると少女を見下ろし、顔を真っ赤に染め上げながらも平静を装い言葉を紡ぐ。
「この、貴方……、私が誰だか分かっているの?」
「自己紹介? なら手早く済ませて欲しいの。名刺交換は必要なの?」
「黙りなさいッ!!」
怒り狂った女の手が、少女の頬を打つ。
「迂闊に手を出したら、危ないの」
平手打ちをされた少女は特に気にした風もなく口の中からペッと赤色を吐き出し、口角を釣り上げる。その余裕が気に障ったのか、女は再び手を振り上げ――そして気付く。
少女の吐き出したのは、ただの血ではない。
「ひぃっ! 私の指が……指が……」
青褪める女の右手の下半分――小指と薬指は彼女の手から離れ、少女の口内を経由して今は薄汚れた地面に転がっている。一瞬の出来事だ。彼女の手が少女の頬に触れ、振り抜いたのは一秒に満たない時間――その一瞬で食い千切られる可能性など、普通は考慮しない。
しかし現実に、それは起こった。
「私を餌付けしたいなら、ご主人並の甘い誘惑を用意しないとダメなの」
少女は親指で口元に付着した血を拭うと、脂汗を浮かべた女の頬にべっとりと塗り付ける。もう一人の男が呆れるのを余所に、少女は嗜虐を含んだ満面の笑みを浮かべている。
少女は震える女の顎を掴み、優しく、楽しそうに、大きく口を開けて問い掛ける。
「次は、何処が良いの?」
その一言で、女の意識は彼方に消え去った。
少女は脱力した女の身体を支えると、黒コートの男に親指を立てて見せる。
「ご主人直伝の交渉術、マスターしたの」
得意気な顔をした少女の指には、血の代わりに肌色のファンデーションがべっとりと付着していた。
どうにも締まらないと思いながらも、男は無言で頷いた。
最近着せ替え系フラッシュの存在を知った自分
取り敢えず登場キャラを作ってみて大満足……
女キャラしかいないのは、まあアレですね