Ⅰ-1 車輪の少年、走る男
遠い記憶――父を知らず、母は帰らず、曽祖父が死に、一人残された閑散とした家。
時間が過ぎるのは、異様に早かった。
曽祖父が居なくなったのは初夏だが、季節はもうすぐ秋になる。
太陽が昇り空が高くなったと思えば、咽返るほど暑さが周囲に染み渡り、落陽に合わせて家を囲う緑の海に消えていく。あまりに早い気温の変遷は、まるで自分を囲う人間関係のように思えた。だが、たとえ自分が人の波に飲まれたとしても、緑に飲まれた暑さのように消えることはないと、少年には分かっていた。
夕日を眺める少年は、まだ六年しか生きていない。
早々に文字を覚えて、両親の集めた蔵書を読み漁った。活力に満ち、広大な自然を独りで駆け回り、曽祖父を道場で稽古と言う名の遊びに付き合わせた。そんな蔵書も道場も、今は自分と同じで所有者を失っている。忘れ去られ、朽ち果てる。親を失った子の末路と同じだ。
親族の殆どが急逝する悲運の一族の生き残り――誰もが麒麟児と持て囃し、誰もが持て余す少年を、迎え入れる余裕を持つ人は少ない。少年もそれを理解しているからこそ、訪ねてくる大人たちを積極的に頼ろうとしなかった。
半ばまで読み進めた本を枕にして、縁側で横になる。
赤い夕日を浴びながら夏の余韻に浸っていると、不意に影が生まれる。
「随分と浮かない顔をしておるな、少年。縁側で日光浴なぞ、老人みたいじゃな」
「アンタも十分少年だろ……、喋り方は爺さんみたいだけど」
影は快活に笑い、少年の言葉を肯定する。曽祖父の門下生かと顔を上げてみると、逆光の顔に光が宿る。どうやら門下生ではない――外国人の少年だ。曽祖父の門下に、外国人の少年はいなかった筈だ。浅黒い肌に灰色の瞳と髪、十代前半の少年――アジア系の顔立ちであるが、少年にとっては色彩が珍しいこと以外、これといった感想はなかった。
「爺さんの知り合いか? なら結構前に死んだぜ。この家には俺一人しかいないぞ」
「僕はお主と、お主の母親の知り合いじゃ」
「俺の? 俺はアンタなんか知らない」
その反論が可笑しいのか再び笑い声が生まれ、収束するとともに外国人の少年は首から下げたカメラを手に尋ねる。
「撮っても良いか?」
尋ねはしたが、返事を待たずに古いが頑強な造りのポラロイドカメラのシャッターを押す。撮影直後に自動的に現像を行う写真フィルムを使ったカメラは、早くも一枚の写真を吐き出した。そして憮然とした少年を無視し、写真を軽く振って、少年に見せる。
「俺の写真……」
少年は耐熱紙に写し出された自分の顔を眺める。ストロボの閃光に驚き、目を見開いているただの子供の顔だった。外国人の少年は、唐突に写真を取り上げる。
「大切なのは、裏の方じゃぞ」と、少年に改めて示す。
なら最初からそっちを見せればいいのに、と不満を抑えて少年は写真に目を向ける。
写真の裏に現れた奇妙な絵――円を中心に夜を思わせる青黒白といった色で神秘的な彩られた絵が浮かび上がっていた。細部は若干の違いがあるものの、少し前に本で見た絵柄に違いなかった。
「タロット?」
「大アルカナじゃな、それがお主の本質を示しておる」
呆然とする少年を置いて、外国人の少年は写真をまじまじと見つめる。
「ふむ、やはり『運命の輪』か……」
写真の裏と少年本人を比べ、やがて一人で納得し、少年を写した写真を鞄にしまう。代わりに取り出した一枚の写真――壮年の男性が笑みを浮かべ写っている。その裏に何かを書き込み、少年に手渡す。
「運命的な出会いが欲しければ、この男を頼るといい」
十個の数字の羅列――それが電話番号だと察した時には、外国人の少年の姿は消えていた。慌てて首を振り珍しい色彩の少年を探すが、視界が捉える範囲内にはいなかった。
「狐に化かされた……?」
最近読んだ本の内容と似たような事柄に、少年は首を傾げ、受け取った写真を放り出して体を倒す。
夕日はまだ、遠い地平から頭を覗かせていた。
あの夕日が落ちたら、”運命的な出会い”に電話してみよう。
読みかけの本を枕に、少年は目を閉じた。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
白い息を吐きながら短い呼吸音を漏らす男が、帰宅する学生たちの視界を通りすぎる。三年間走り続けた彼を目で追う学生はおらず、みんな風景の一部として受け入れていた。
日焼けの所為か浅黒い肌と黒い髪、精悍で整った容姿は魅力的であった。だが運動部でもないのに放課後走り続ける男に奇異の目を向ける者はいても、好き好んで声を掛ける者はいない。無駄なく整った容姿や寡黙な性格、他の学生と乖離したその習慣が他人を寄せ付けず、彼から声を掛けることも滅多にない。
だが当然、例外はいる。
「クーロー、早く帰ろうよー。すぐに暗くなるよー」
石段に座り声を張り上げる少女は例外の一人であり、クロと呼ばれた男を孤独にしている原因の一端でもある。
真っ赤な夕日を浴びているにも関わらず生糸のように流れる髪は白銀で輝き、化粧に頼る全ての女性を敵に回しかねない程のきめ細かく白い肌。髪との境界線を曖昧にするほど白い肌を持った彼女の顔には、赤茶色のくるりと丸い瞳と桜色をした形の良い唇、他のパーツも美容整形を嘲笑うかの如く完璧に整っている。これまで世界の美人が得てきた評価を一転させる潜在能力を、狭い領域内に押し込んでいた。
しかし彼女が美人によくある、触れれば崩れる儚い存在かと言えば、そうではない。
物心ついた時からあらゆる方面から向けられ続けた嫉妬と羨望の眼差しにより鍛えられた彼女はガラス細工のように儚い少女ではなく、敵意を向ける相手を砕き魅了する頑丈で美しいダイアモンドの少女だった。
クロと彼女は兄妹――戸籍上の兄妹、普通の兄妹より親密な関係を維持している。
「悪い、シロ。すぐに切り上げる」
ダイアモンドの少女――シロと呼ばれた少女は、見かけ以上に苛烈な性格をしている。
綺麗な薔薇には棘がある。
誰もが耳にしたことがある標語がシロにも適用されると知れ渡るのに、それほど時間は掛からなかった。
高校入学と同時に存在感を放つ兄妹――その妹に声を掛けてくる男は数えきれないほどにいた。あしらうごとに溜まるシロの苛立ちと眺めるごとに溜まる周囲の鬱憤が入学から数か月後、長期の休みに入ると同時に爆発した。鬱憤を溜めこんだ周囲の人々――正確には彼らの鬱憤を餌に集まった不良を含めた大勢に、早朝課外に向かうシロとクロが襲われたのだ。
だが、それだけだった。
「どうした、開始時間には間に合った筈だが」
二人は遅刻していない。時間ギリギリに教室に踏み込んだ二人を出迎えたのはクラスメートと早めにやってきた教師の小さな悲鳴であった。二人は顔を見合わせ、装いを確認し合い、悲鳴の合間を縫って短く事情を説明する。
「暴漢に襲われた」
「遅刻したくないから手加減はしなかったよ」
真面目に事情を伝えるクロとは違い、シロは笑顔で手をひらひらと振っている。その手は返り血で赤黒く染まり、魅力的な笑顔とのギャップが更なる悲鳴を引き出した。
「嘘じゃない」
クロはその証拠として不良たちの前歯を数本、足元に投げ捨てる。その後やってきた警察による事情聴取と不祥事をもみ消そうとする学校の緘口令、それを無視して湧き上がる数々の噂によって二人は千二百人の生徒が集う狭い世界で、完全に孤立してしまった。
「まあ、いいんだけどね」
汗を拭うクロの逞しい腕を眺め、シロはフッと息を吐き出す。
シロとクロ――アンバランスに釣り合った二人は浮いても存在であるからこそ、多くの学生たちを惹きつけていた。二人が望めば即座に人の輪が生まれる。それだけの潜在能力は秘めている筈だった。
だが二人は、日常に馴染むことなど望んではいない。
日常とは宵闇に侵される夕日の如く不安定な存在である。訪れる宵闇の存在を知っている二人にとって夕日に佇むことは何の意味も持たない行動であり、それを知りつつ夕日に縋り付く人々は酷く滑稽に映っていた。
夕焼けから宵闇へ――白から黒に。たとえ中身が変わっても、目に見える場所ではっきりと色を変えない限り、大衆は変化に気付けない。
世界の一部は、既に黒く染まり切っている。
誰もが皆、それを見ようとしない、ただそれだけで……。