政略結婚の条件に「厩舎は私に任せること」を入れたら、辺境伯が対等な婚約にしてくれた
「意見など言うな。頷いておけば、お前は辺境伯夫人になれるんだ」
義兄のコンラートは、そう言って婚約の通知を食卓に置いた。
私、ミレイア・ヴェル、十九歳。相手は北の国境を預かるオルブラン辺境伯ガレス・オルブラン、三十七歳。年の差、十八。会ったことも、話したこともない。
(頷け、と。馬の売買じゃあるまいし)
父が病に倒れてから、ヴェル男爵家の采配は姉の婿である義兄が握っている。彼は私の結婚を「家の再建策」と呼んだ。王都の社交界では踊りも弾み話もできない私だけれど、辺境伯夫人という肩書きなら、家同士の格は釣り合うのだそうだ。
頷かなかった理由は、年の差でも、怖さでもない。厩舎だ。
ヴェル家の厩舎には、父の代から働く厩務員が六人と、馬が十一頭いる。義兄は常々「馬は金食い虫だ」と言い、私が嫁いだら厩舎を畳んで人を減らすつもりでいた。私一人が頷けば済む話の裏で、行き場をなくす人と馬がいる。それを知っていて頷くのは、裏切りだと思った。
厩務頭のマティアスは、もう四十年もヴェル家に仕えている。老馬のベラは十六歳で、若い頃に私を何度も背に乗せてくれた。義兄の言う「経費の整理」が始まれば、真っ先に切られるのはこの二人だ。マティアスは先月、さりげなく私に言った。
「お嬢様が幸せになるなら、儂らのことはお気になさらず」
(気にするに決まっている。私の結婚で、どうしてこの人たちが路頭に迷わなきゃいけないの)
だから婚約を受ける前に、私は馬に乗って国境の城へ行った。条件くらい、自分の口で言わせてもらう。断られるなら、そのとき頷くのをやめればいい。
*
城の厩舎は、想像よりずっと立派だった。馬房は広く、藁は乾いていて、馬たちの毛艶がいい。私は通された応接間を辞退して、厩舎の前で待たせてもらった。婚約者と初対面の場所としてはどうかと思うけれど、話す内容が厩舎のことなのだから、ここでいい。
現れた辺境伯は、噂通りの大男だった。灰色の混じった黒髪、軍人そのものの姿勢。怖い顔、と言われるのも分かる。
「ヴェル嬢。わざわざ厩舎を指定するとは思わなかった」
「ここでなければ、言いにくい話なのです」
私は背筋を伸ばした。社交の台詞は下手でも、条件を並べることならできる。
「婚約を受けるにあたり、条件が三つあります。一つ、嫁いだ後、厩舎と馬の管理は私に任せていただくこと。厩務員の採用も解雇も、私の承諾なしには決めないでください。二つ、厩舎で働く人々の待遇を、今より落とさないこと。給金、休み、怪我をしたときの手当てを保証してください。三つ、私を飾りの夫人として扱わないこと。厩舎着で馬房に入ることも、領地の仕事に意見を言うことも、許してください」
言い終えて、内心で顔を覆った。
(初対面で条件三つ。図々しいにも程がある)
嫁ぐ側の、それも格下の男爵家の娘が、辺境伯に条件を突きつける。これで破談なら、それまでだ。義兄には怒鳴られるだろうけれど、言うだけ言った、と厩舎のみんなには胸を張れる。
辺境伯は、しばらく黙って私を見ていた。それから、思いがけないことを聞いてきた。
「一つ目。管理を任せる範囲は、餌の仕入れや当番の編成まで含むか」
「……含みます。むしろ、そこまで任せていただかないと意味がありません」
「二つ目。待遇の基準は、ここの現行でいいか。それともヴェル家の方式を持ち込むか」
「良い方に合わせてください。……あの、質問ばかりでなく、結論を」
「三つ目。意見を言うことを許す、ではなく」彼は少しだけ口の端を上げた。「言ってもらわねば困る。国境の領地で一番足りないのは、馬の分かる人間だ」
「では、条件は」
「全部、呑む。むしろ助かる」
あっけなかった。拍子抜けするほどに。
それでも私は、その場で細部を詰めた。条件というのは、大きな言葉だけでは守れない。厩務員は今の十四人を維持すること。餌代の予算は月ごとに私が配分すること。怪我をした者は、医者に「働ける」と言われるまで休ませ、その間の給金は止めないこと。一つ言うごとに、彼は頷いた。
「ただし、私からも一つ」と彼は言った。「国境の警備馬は、領民の命を預かる。君の選定が外れたときは、理由を聞かせてくれ。馬を見る目を、領地の財産として扱いたい」
条件に、条件が返ってきた。押し付けるのでも、値切るのでもなく、私の腕を「財産」と呼んで、対価として説明を求める。それが、この人の交渉の仕方だった。
「……分かりました。その代わり、警備馬の調教には口を出さないでください」
「承知した」
私たちは厩舎の前で、そう約束を交わした。立ち会ったヨナスが、深々と頭を下げた。
「当家の厩舎長は昨年亡くなって、今は代理が回している。馬は六十頭近くいるが、目は届いていない。君の条件は、わがままではない。領地への要求書として、筋が通っている」
(要求書。……わがままじゃ、ない?)
男爵家の食卓では「図々しい」と言われた言葉が、この城では「筋が通っている」と言われた。同じ言葉なのに、置かれた場所で値段が変わる。私は戸惑って、礼を言うタイミングを逃した。
その日、私は帰り際に厩舎長の代理だというヨナスに挨拶をした。六十歳を過ぎた、背の曲がった男だった。
「お嬢様が来てくださるなら、旦那様も安心でしょうな。あの方は、馬のことで他人の言うことを聞くのは初めてです」
(大げさな。私はただ、条件を言いに来ただけなのに)
*
式典までのひと月、私は週に三度、国境の城へ通った。名目上は「顔合わせを重ねるため」。実態は、厩舎の仕事だった。
最初に任されたのは、式典用の馬四頭の調教だった。行列で旗や太鼓に驚かないよう、人混みに慣らす地味な仕事。それが二週目には、国境警備の補充馬選びが加わった。馬市の商人に混じって十二頭を検め、歩様と蹄と気性を見て、買うべき四頭を選んだ。私の選んだ馬は、ヨナスの選定と三頭まで一致した。
「若奥様の目は確かだ」とヨナスが厩務員たちに言い回ったらしく、三週目には、厩舎全体の餌の配合と当番表まで私のところへ回ってくるようになった。馬の数は五十八頭。厩務員は十四人。任される仕事は、週を追うごとに増えていった。
(増えていく。……どうして。私は社交もできない、ただの馬好きの娘なのに)
自分ではそう思う。でも、朝に厩舎へ行くと、厩務員たちが「厩舎長、おはようございます」と声をかけるようになった。正式な役職でもないのに、いつの間にかそう呼ばれている。老厩務員のトマが足を痛めたときも、私は条件通り、完治までの休みと手当てを通した。辺境伯は一言も文句を言わず、代わりの人手を当番表に足すよう指示しただけだった。
「約束ですからな」と彼は言った。「君が条件を出したとき、呑むと言った」
この人は、約束を覚えている。言葉を、重さのあるものとして扱う。少しずつ、私はそのことを知っていった。
厩務員の若手、ピーターが言った言葉も忘れられない。
「厩舎長が来てから、餌を残す馬がいなくなったんです。五十八頭、一頭ずつ配合を変えたでしょう。あんな面倒なこと、前の厩舎長でもしなかった」
面倒だとは思わなかった。馬は喋れない。残した餌が、唯一の意見表明なのに。蹄の治療が要る馬を三頭見つけ、歯の悪い老馬には飼い葉を柔らかくする。どれも特別なことじゃない。でも数にすれば、五十八頭の暮らしが、少しずつ良くなっていた。
(私は、令嬢としては落第かもしれない。でも、ここでは――役に立てている)
そう思えたのは、いつ以来だろう。
困ったのは、義兄だった。
式典の十日前、義兄は「我が家からの贈り物だ」と言って、真っ白な牡馬を一頭、城へ連れてきた。毛並みは見事だが、私は一目で分かった。脚の運びが軽すぎる。若く、気性も荒い。人混みと旗の経験がない。
「夫人の入場は白馬でなければ見栄えがせん。式典の先頭は、この馬で決まりだ」
「コンラート兄様、その馬はまだ行列の訓練をしていません。先頭は無理です」
「臆病風に吹かれたか。馬など、慣れた者が引けばどうとでもなる」
義兄は笑ったが、その目は笑っていなかった。彼は城の厩舎に「ヴェル家ゆかりの者」を何人か送り込む約束を、辺境伯側と取り付けようとしていた。自分の息のかかった人間を置いて、婚家の内側に足場を作る腹だ。式典の先頭馬は、その象徴だったのだろう。
義兄は私にも、直接言ってきた。
「城の厩舎に、ヴェル家から三人ほど人を入れてくれ。身内が奥にいれば、お前の立場も安泰だろう」
「人員については、私の承諾が要ると決まっています。今の十四人で足りていますし、式典前に知らない人を入れたら、馬も人も落ち着きません」
「お前は本当に、嫁ぐ女の分をわきまえないな」
(分はわきまえている。厩舎の分を、だけど)
私は辺境伯に相談した。彼は私の話を最後まで聞いて、こう言った。
「厩舎は君の領分だ。先頭馬の選定も、人員のことも、君が決める。……君が断ったのなら、それで終わりだ」
結局、先頭は落ち着いた芦毛の牝馬に決まり、白馬は訓練を積んでから使うことになった。義兄は引き下がった。表向きは、穏やかに。
*
事故は、式典前日の通し稽古で起きた。
行列が広場を半周したところで、先頭の横を駆け抜けるはずの伝令馬が、太鼓の音に驚いて跳ねた。……いや、違う。先頭にいたのは、芦毛ではなかった。白馬だ。義兄の贈った、あの牡馬が、旗の波に怯えて前脚を上げていた。
引いていたのは、見覚えのない若い男だった。義兄の連れてきた「慣れた者」だ。彼は手綱を力任せに引いた。馬は余計に荒れた。広場の端では、見物に来ていた領民の子どもたちが、悲鳴を上げて後ずさっていた。
(あの子たちの方へ行ったら――)
「放せ! もっと強く引け!」
義兄の怒鳴り声が、馬の耳をさらに逆立てた。
そのとき、横から低く声がした。
「厩舎の者は、全員、彼女の指示に従え」
辺境伯だった。彼は馬に近づかなかった。代わりに、広場の領民を自ら下がらせ、道を開けていた。私と目が合うと、小さく頷いた。
――厩舎は君の領分だ。
私は走りながら、声を張った。
「ヨナス、左へ! トマ、カスタを連れてきて、横に並べる! 若い人、綱を離して下がって!」
私の栗毛の牝馬カスタは、白馬と何度も一緒に放牧した仲だった。カスタを横に付けると、白馬の荒れ方が目に見えて鈍った。私は機を逃さず近寄り、鼻面に手を当て、いつもの低い声で名前を呼んだ。
「ブラン。おいで。……よし、よし」
白馬の耳が、こちらを向いた。震えが、少しずつ収まっていく。ヨナスたちが静かに取り囲み、手綱をベテランの手に渡したとき、広場にやっと、人の出す息の音が戻った。子どもたちに怪我はなかった。
「管理不足だ!」
義兄の声が割って入った。
「素人に厩舎など任せるから、こんなことになる! 辺境伯、この婚約の条件は考え直すべきですぞ!」
そのとき、白馬を引いていた若い男が、震える声で言った。
「……俺は、今朝、義兄様に言われて馬を替えただけです。『白馬でなければ格好がつかない、黙って替えろ』と。厩舎の人には、言うなと……」
広場の空気が、変わった。
義兄の顔から、血の気が引いていくのを見た。馬を替えたのは彼。慣れない若者を付けたのも彼。条件を――厩舎のことは私の領分だという、この家の約束を、軽んじて踏み越えたのは、彼だった。
「コンラート殿」辺境伯の声は静かだった。「式典の体裁のために、約束を破る方を、私は身内に迎えられない。ヴェル家からの人員の話は、白紙に戻す。今日の件の詫びは、後日あらためて聞こう」
義兄は、しばらく何か言いたげに口を開き、やがて、広場の全員の前で頭を下げた。彼の描いていた足場は、彼自身の手で崩れたのだった。
騒ぎが収まってから、辺境伯は私のところへ来た。私の手は、まだ少し震えていた。彼はそれを見て、私の手を取らなかった。代わりに、馬一頭分の距離を保ったまま、言った。
「三年前、国境の馬市で、暴れる軍馬を一人で鎮めた娘がいた。あれが君だ。……この婚約の話を持ちかけたのは、私の方だ。家の格ではない。君の腕と、馬を見る目に惚れた」
(……え。三年前から?)
「条件を言いに来た日、確信した。この人は、自分の領分を自分で守る人だ、と。そんな相手に、頷くだけでいてほしいと思うものか」
気づけば、厩舎の十四人全員が、私たちの前に並んでいた。ヨナスが代表して頭を下げる。
「若奥様のおかげで、誰も怪我をせずに済みました。……いえ、奥様、と呼ばせてください」
(奥様。私はまだ、式も済んでいないのに)
でも、その呼び名は肩書きではなかった。五十八頭の馬と、十四人の暮らしと、ひとつの約束を一緒に背負う人への呼び名だった。私の値は、私が思っていたより、ずっと高いところに置かれていたらしい。
*
式典の日、白馬のブランは落ち着いた先頭馬ぶりで、広場の喝采を受けた。訓練を積めば、この馬はちゃんと応える。馬は正直だ。手をかけた分だけ、返してくれる。
行列の中で私は、自分の馬カスタに乗って進んだ。辺境伯の隣、一段後ろではなく、真横に。
式の後、二人きりになった厩舎で、彼が小さな木の板を差し出した。厩舎の入口に掲げる、新しい名板だった。そこには、こう彫られていた。
――オルブラン家厩舎長 ミレイア。
「私からも、条件を一つだけ出していいか」彼は言った。「意見は、遠慮なく言ってくれ。頷くだけの妻は、要らない」
私は笑って、頷いた。今度は、自分の意志で。
「分かりました、ガレス。これからも、言います」
名前で呼ぶと、彼が初めて、目に見えて微笑んだ。
政略結婚の条件は三つだった。でも今は分かる。あれは壁ではなく、この人と並んで立つための、最初の約束だったのだ。
式の翌日、姉から手紙が届いた。義兄が、ヴェル家の厩舎の縮小を取り下げたのだという。式典の広場で、辺境伯が「夫人の条件は、我が家の約束だ」と言い切ったことが、国境の領民の間ではもう評判になっていた。その妻の実家の厩舎を、義兄の都合で畳むなどと口にすれば、今度は義兄自身の見る目が疑われる。結局、条件を軽んじた人は、自分の計算の浅さに足を取られたのだった。マティアスと老馬ベラは、今まで通りヴェル家の厩舎にいる。
(よかった。本当に、よかった)
明日からも私は、朝の厩舎に行く。五十八頭の馬と、十四人の仲間と、そして隣に立つ人と一緒に。それが、私の選んだ幸せの形だった。




