第69章 〜休息の日〜
朝、俺は誰にも鼻をつままれずに目を覚ました。
進歩だ。いや、もしかすると、みんな疲れていてそれどころではなかっただけかもしれない。シルフィーとヴァエリスが帰還した翌日、塔全体が深い休息の中にあった。ヴァエリスはまだ眠っていた。精霊は眠らなくても平気なはずだが、あれだけのマナを使い、孤独な守護者を解放したのだから、当然だろう。シルフィーは翼を休めるためにセラの作業場の簡易寝台に横たわり、ゴルンは鍛冶場の火を落としていた。市場も静かだった。ミリが「休息日」を宣言し、常設店以外は臨時休業にしたのだ。
俺は居間でアルテアと二人、朝の茶を飲んでいた。彼女は例の峡谷の芽を観察しながら、ノートに何かを書き込んでいた。
「相変わらず早起きだな」俺は言った。
「治癒師は早起きです。患者がいつ起きるかわからないから」
「今は患者がいないだろ」
「あなたがいます。私の患者です」
「俺は怪我してない」
「でもマナはまだ回復途中です。それに、いつも無茶をするから予備軍です」
「予備軍……。治癒師ってのはみんなこんなに心配性なのか?」
「私だけです」
彼女は顔を上げて微笑んだ。その笑顔が、最近は前よりも柔らかくなっていた。頬にキスをしてから、何かが少し変わった気がする。もっと素直になったというか、遠慮が少なくなったというか。
「シン、今度の遠征で、リサンドラが行くんですよね」
「ああ。シタデラ・デ・シンザス。エルフの古い要塞だ。彼女の故郷に近い」
「私は行けない。治癒師として、ここで待つことになります」
「それで十分だ」
「十分じゃない。でも、私の役目はわかってる。戻ってきた人を癒すこと。それに、行く前に無理を止めること」
「俺は行かない。レナとリサンドラとシルフィーが行く。俺は留守番だ」
「えらい」
「子ども扱いするな」
「子ども扱いじゃありません。成長したなって思ってるんです」
「……なあ、アルテア」
「なんですか」
「お前はいつも俺の無茶を止めてくれる。感謝してる」
「どういたしまして」彼女はノートを閉じて、俺の手にそっと触れた。「私はこれからも、あなたの無茶を止め続けます」
「頼む」
「任せてください」
昼前、中庭でレナが一人で木剣を振っていた。彼女は休みの日でも訓練を欠かさない。俺はリンゴの木の下に座って、しばらく彼女の動きを眺めていた。無駄がなく、速く、正確だった。リサンドラの指導が効いているのだろう。俺とは大違いだ。
「見てないで参加しろ」彼女は振り返らずに言った。
「耳がいいな」
「耳は飾りじゃない」
「今日は休息日だぞ」
「休息は弱くなる。私は弱くなりたくない」
「お前は十分強い」
「まだ足りない。シタデラには何がいるかわからない。私はリサンドラを守る。シルフィーも守る」
「誰がお前を守るんだ」
「自分で守る」
「俺も守りたい」
彼女は手を止め、振り返った。汗が銀色の髪を伝っていた。
「お前はここで待ってる。それで十分だ」
「十分か」
「十分だ。お前が待ってるから、私は戻ってくる」
彼女の耳がわずかに赤くなった。訓練のせいか、それとも別の理由か。俺は立ち上がり、彼女に近づいた。
「約束しろ」
「何を」
「戻ってくるって」
「……約束する」
「よし」
「お前も約束しろ」
「何を」
「無茶をするな」
「善処する」
「善処じゃない。約束だ」
「……約束する」
彼女は小さくうなずき、それから俺の頬に軽く拳を当てた。痛くはなかった。むしろ、彼女なりの愛情表現だった。
午後、俺はリサンドラを探した。彼女は第四階層の庭園にいて、銀葉樹の下で瞑想していた。エルフは瞑想で体力を回復できるらしい。彼女の銀色の髪が、木の光を反射して輝いていた。
「邪魔していいか」
「ああ」
「シタデラのことを聞きたい」
「そうか」
彼女は目を開け、俺のほうを向いた。銀の瞳はいつも通り静かだったが、奥に何かが揺れているのが見えた。
「シタデラ・デ・シンザス。かつてはエルフの誇りだった。私の祖母が若い頃、あそこはまだ栄えていた。白い石で築かれた塔が五本、空に向かって伸びていて、夜になると図書館の灯りが星のように瞬いていた」
「今は」
「廃墟だ。二百年前の戦争で、エルフはシタデラを捨てた。図書館の書物は燃やされ、塔は砕け、守護者も死んだ。私が最後に訪れたのは八十年前。カデリスと共に」
「竜と一緒にか」
「ああ。あのときも廃墟だった。でもまだ、何かが残っていた。守護者の気配のようなものが」
「それが鍵か」
「たぶん。シタデラはもともと、エルフが神の欠片を守るために建てた要塞だ。鍵が隠されているなら、中央の塔の地下だろう」
「危険は」
「廃墟にはいつも危険がある。崩れた石、野生の獣、それから――」
「それから?」
「記憶だ。シタデラには私の若い頃の記憶が染みついている。戦友の顔、祖母の声、失ったものの重み。それらが私を鈍らせるかもしれない」
「それでも行くのか」
「行く。鍵が必要だからだけじゃない。私は自分の過去と向き合う必要がある。お前が教えてくれた。失うことを恐れて、得ないまま生きるのは、もっと怖いと」
「俺はそんな大層なことは言ってない」
「言った。お前はいつも、自分がどれだけ人に影響を与えているか気づかない」
「リサンドラ……」
「感謝している」
彼女は立ち上がり、俺の肩に手を置いた。その手はいつも通り冷たかったが、指先がかすかに震えていた。
夕方、市場でミリが帳簿を閉じていた。今日は休業日だったが、彼女は帳簿の確認だけは欠かさなかった。
「シン様、次の遠征のための物資は揃いました。保存食、水、包帯、星鉄の護符。シルフィーの翼の手入れ用の油も」
「翼の手入れ用の油?」
「羽根職人にとって翼は命ですから。私が個人的に手配しました」
「お前は本当に抜け目がないな」
「商人ですから」
「……ミリ、お前はいつも冷静だな。遠征の前も、市場が忙しいときも」
「冷静じゃありません。ただ、表に出さないだけです」
「何を隠してる」
「隠してるわけじゃない。でも、商人はね、感情を表に出すのが苦手なんです。値切り交渉のときに、顔に出ると不利だから」
「今は交渉してない」
「……そうですね。今は、ただの私です」
「ただのお前は、何を考えてる」
「あなたが無事でいることを祈ってます。それから、次の遠征に行く人たちも」
「俺は行かない。留守番だ」
「知ってます。でも、あなたはここで待ってる。待つのは、行くのと同じくらい大変です」
「商人も待つのは苦手か」
「ええ。待つのは、商品の到着を待つときだけにしたい」
彼女は帳簿を閉じて、俺の手にそっと触れた。指がかすかに震えていた。表に出さない感情が、そこにだけ滲んでいた。
夜、庭園に行くと、シルフィーとヴァエリスが銀葉樹の下で何か話していた。シルフィーの翼が月明かりに照らされて青く輝き、ヴァエリスの核がそれに応えるように静かに脈打っていた。
「二人とも、もう起きてて大丈夫なのか」俺は声をかけた。
「もう十分休んだよ」シルフィーが微笑んだ。「翼も元通り」
「私はもともと眠らなくても大丈夫。でも、今日は少しだけ眠ってみた。夢を見た」
「どんな夢だ」と俺。
「守護者の夢。彼が最後に見た光の夢。怖くなかった。ただ、暖かかった」
「それはよかった」
俺は二人の隣に座った。庭園にはいつもの静かな光が満ちていて、銀葉樹がかすかにそよいでいた。
「シン、次の遠征はシタデラだよね」シルフィーが言った。
「ああ」
「私、行くよ。リサンドラとレナと三人で」
「無理はするな。翼が本調子じゃないなら、リスケジュールも考える」
「大丈夫。それに、リサンドラの故郷なんでしょ。彼女、何か抱えてるみたいだった。助けになりたい」
「お前はもう十分助けてる」
「まだまだ。私はここに来たばかりだし、まだ登録もしてないし。もっと役に立たないと」
「役に立つことと、ここにいることは別だ。お前はもう、この塔の一部だ」
シルフィーは少しだけ驚いた顔をして、それから翼で顔を半分隠した。照れているらしい。翼の羽根がほんのりとピンクがかって見えたのは、多分、月明かりのせいだ。
ヴァエリスが俺の袖を引いた。
「シン、私、次の遠征には行かない。でも、ここでみんなを見守ってる」
「お前の見守りは頼りになる」
「うん。それからね、私、決めたの」
「何を」
「正式に居住者として登録する。前からそうだったけど、今回、守護者を解放して、やっと自分の居場所がここだって確信できた」
「ヴァエリス……」
「私、ここにいる。ずっといる。それが私の選択」
彼女の青い目はまっすぐで、揺るぎなかった。かつて封鎖室で震えていた精霊は、もういなかった。
夜遅く、俺が自室に戻ろうと廊下を歩いていると、レナが壁にもたれて待っていた。
「おやすみの前に」
「なんだ」
「明日、私は出発の準備をする。明後日には出る」
「ああ」
「だから今夜は、少しだけ一緒にいろ」
俺は彼女の部屋に入った。彼女は寝台に座り、俺も隣に座った。彼女は星鉄の短剣を手に取って、それから机の上に置いた。今晩は、手入れはしないらしい。
「シタデラがどういう場所か、よくわからない」彼女は言った。
「怖いか」
「怖くはない。でも、リサンドラが心配だ。彼女は何かを抱えてる」
「お前がついてる。それで十分だ」
「……そうか」
「ああ」
彼女は俺の肩に頭を凭せかけた。尻尾がゆっくりと揺れていた。しばらくして、その動きが止まり、規則正しい寝息が聞こえてきた。俺は彼女を起こさないように、そのまま横になった。
窓の外では守護者たちが巡回し、光り草の帯が夜の森を照らしていた。遠くで、銀葉樹が新しい葉を開く音が、かすかに聞こえた気がした。明日は準備の日。明後日は出発。でも今夜は、レナの寝息だけが、この部屋を満たしていた。それで十分だった。




