この上の世も雨が降る。5コマ目
もはや関係ないかもしれないが、どちらから来たのかさえわからず私は駆け出した。
逃げる。逃げる?どこに。どこに?
「多分あの人、私がここに降りてきたらすぐ迷子になっちゃうと思ったから、ちょっと厳重だけど思いとどまらせてくれてたんだ。それでもうちょっとゆっくり慣れていけば良かったんだ。」
辺りは霧に視界が埋め尽くされていく。
「けどちょっと注意が弱かったかも…。」
悔いるには遅かったかも。
人は一番安全な解釈を見つけて、安心する。こう安寧を得て、精神をうまく整えて、推進力とする。しかし少女は、その軸が人とズレている、あるいはズラされているというべきか。
「あ、足が。」
地面の上に立っているという感覚が、足の裏からすっとなくなった。
腰から下が引っ張られていくみたいに体が伸びて、首に負担はかからないどこかをがっちり持ってもらって、私は少しずつ持ち上げてもらっているようだった。
ふわっと、顔が一気にヒヤッとして私は思わず目を閉じた。持ち上げられる力が一旦止まって、また目を開けてみる。
私は、最初に来た彼の家がある草原の、周りにある雲の海の上に頭だけ出していた。
「あ、上ってきたんだ。あの人いるかな。これいま私浮いてんの?」
ヒヤッときた。右の頬だ。
「え、また?これこんなに大きい痕だったっけ。この、絵の具みたいな青いの。」
私が雲の海から顔を出した波紋がゆっくりと広がっていき、首元がそれに浸かっているので少し寒くなってきた。目を凝らして彼の小屋がここから見えないか気にしていると、すごく唐突なのだが、思い出される話があるのだ。
* * *
これもきっと小学校2、3年生ごろのことだろう。
さっきも同じような話をしたな。祖父母の家の庭には白い猫がいた。
くりちゃんを家の中へ迎え入れたことはなかった。
そう言ったが、ある日をのぞいたことになるのを思い出した。
その日は太平洋側にして雪も積もる寒い日だった。勝手に名付けてから3、4回目の帰省で、その顔もしれた頃だ。
朝の遅くに起きた私は、窓の外を見たのが最後だったのにも関わらず、その不思議に白い猫の姿に最初に気づいた。ちょうど身体に積もった雪のうち、顔の上を前足でどかすところだった。
「くりちゃん!大丈夫!?」
私がとっさに開けた窓から吹き込んだ風で他のみんなも聞きつけた。
パジャマに裸足とサンダル。外は冷たかったけど、くりちゃんが視界に現れてからはあまり気にならなかった。私が近づいても逃げない。まるでずっと昔からここに住んでいて、新入りの私を受け入れてあげようという態度だった。その前でかがみ込んで、かじかんだ手でなんとか持ち上げる。
私が思い出したかったこと。私がくりちゃんを抱えて家へ戻ろうとしたときに、変だと思ったんだ。
なんだか、温度がない気がした。
冷たく震えていたが、若く繊細なこの手の表面でさえ、その生命を感じ取った覚えはないのだ。
くりちゃんを玄関の框に載せて、毛布をかけたきり一度しか触れたことがないもので。その日のお昼を過ぎた頃には出ていったらしかった。戸は自分で引いたのだろうか。
* * *
くりちゃんを思い出すのはちょっとズレてるのは分かってる。けど今の私は真っ白な雲の上に顔だけ出した微妙な見た目なのだから他に例えようがなかったのだった。あと、雲の中は暑くも寒くもない。それもくりちゃんみたいだった。
「え?」
地面だ。感覚的には全身を持ち上げられて、外見は宙吊りみたいなのだと思ってたけど。これなんだろう。傾いたりしてちょっとバランスが取りにくいな。
ちょっと待てよ、これ足ついたらあの時みたいにくぐっちゃえば…。
ふぐっ。
なんか耳がキーンてなって、気圧変わったみたいなやつ。
「あれ?見ない顔だな。おい、聞こえてるか?」
「聞こえてんのかって!」
「あ!はい今ここに…。」
「そうかい。酔ったならどっか休んどきな。」
「そりゃ冗談だよ!みんな海だろうが!」
え?どういうこと、雲の下は?
ここはどこ?
全く違う景色を見た。多分船かなにかの上だ。ちょっと揺れてるけど、薄い曇天で涼しげな海の上だった。
ああ、下の世界は別に読み込み途中だったのか。それであの橋があったのは適当に用意した一時待機場所みたいな?
全然変な解釈だけど、なんとか受け入れるのが先…。
果たして私は積み上がった設定を切り崩していけるのでしょうか。




