残り時間が少ない令嬢の話
「私にはあまり残り時間がないから……」
はあはあと息を切らしながら、ほろりと涙を流す妹。
「駄目よマリエ! そんな悲しいことを言わないで」
「そうだ! 気をしっかり持って、病に打ち勝つんだ!」
「ごめんなさい……お母様、お父様。でも私……ううっ!」
はあはあコホコホと喘ぎながら、ベッドに倒れ込み身体を震わせる。
……そんなに苦しいなら喋らなければいいのにと思うが、口が裂けても言えない。
両親と家中のメイドが、わらわらとベッド周りに集まるのを、私は部屋の隅で冷ややかに観察していた。
「ラーナ! 何をボーッとしているんだ! 医者を呼んで来い!」
父に怒鳴られ、やれやれと肩を竦める。
午前中に診てもらって、何も異常はないと言われたばかりではないか……なんて言えない。
「はい」と部屋を出ると、静かに馬小屋へ向かった。
古ぼけたドレスをたくし上げ、馬を走らせる女。これが伯爵家の令嬢であるなど、一体誰が思うだろうか。
生まれた時から病弱で、二十歳までは生きられないと宣告された妹のマリエ。
可憐で華奢な容姿は、天使のように愛らしく、大人達の庇護欲を掻き立てる。
その瞳に涙を浮かべるだけで、その白い頬が儚げに微笑むだけで、皆、魔法で魅了されたように愛を注ぐのだった。
対して私は、地味な容姿に加え、風邪すらほとんど引かない健康優良児。
怪我をしても、たまに具合が悪くても、何だそんなこととあしらわれる為、早くから泣くことを諦めた。
肥沃な土地に恵まれ、農業で栄えた我が伯爵領。
ところがここ数年の悪天候により、収穫量が激減し、財政難が続いていた。
おまけにマリエが少し発作を起こす度に医者を呼び、気休め程度の高価な薬だの、神官の祈祷だのに散財する為、家財を売りながら何とか食い繋いでいる状況だ。
もう二十歳だというのに、一度しか社交界に顔を出していない私。金銭的な理由だけではなく、マリエが可哀想だからお前も我慢しろという、両親の理不尽な配慮があった為だ。同じ理由で学校にも通えず、マリエと共に泣く泣く家で勉強した。
そのくせマリエは、たまたま体調が良いからと参加した夜会で、母のお下がりを着た私の何倍も派手に着飾り、多くの青年を崇拝者に変えた。
熱烈な手紙や贈り物を貢がせては、『私にはあまり残り時間はありませんから。お気持ちは受け取れません』と、美しいドレスの袖で目尻を拭う。
『そんなことを言ってはいけない!』
『いいえ、自分の身体のことは、自分が一番よく分かっていますから』
『希望を捨てないでください。貴女を脅かす病魔から、私が一生お守りしますから』
何が楽しいのか……お茶を運んでは、決まってメイドだと勘違いされる私の前で、そんな茶番劇を繰り返していた。
生憎主治医は不在だった為、隣町まで走り、別の医師と往診の約束を取り付けた。
汗だくで馬から降りると、夕方には医師が来る旨を伝える為、水も飲まずに真っ直ぐ執務室へ向かう。すると薄く開いた扉から、凍りつくような会話が聞こえてきた。
「マリエはたった一度の夜会で、沢山の青年を射止めたというのに。跡を取らなければいけないラーナには、まだ一つも良い話がないとは」
「地味なだけでなく、何の取り柄も愛想もありませんからね」
「マリエとラーナの残り時間が逆ならいいのに。何故神はこんなにも残酷なのだろう」
乾いた笑いが、ふっと込み上げる。
もう何も感じないと思っていた心がひび割れ、音もなく底が抜けてしまった。
次の日も、みすぼらしいドレスを纏い馬に乗る。
マリエの医療費を捻出する為に、片道四時間かかる王都まで、祖母の形見の指輪を売りに行くのだ。
宝石店の前で、ふと足を止める。
どうせ残り時間がないなら、治療しても無駄じゃないか? 無駄な治療費を生活費に当てれば、家計はもっと楽になるのにと。
伯爵家の長女が受け継ぐ予定だったこの指輪。つまりは私の指輪。歪に光るダイヤモンドを左手の人差し指に嵌めると、私はくるりと踵を返した。
妹を少しも可哀想だと思わない、むしろ幸せじゃないかとさえ思う自分は、冷たい人間なのだろうか。
両親の愛を一身に受け、いつも女王然と君臨している。寝巻き一着だって私のドレスより上等だし、不憫だからと、望む物は何だって買い与えられる。
挙げ句に、私が譲り受ける予定の財産まで……
重い左手を、ぐっと握り締める。
大体、『残り時間が少ない』って何だろう。みんなみんな、いつ死ぬかなんて分からないじゃないか。
いつの間にか立っていた高い橋の上。
遥か下には、浅い河面が手招きしている。
……ここから飛び降りたら、頭を強く打ち付けて死ぬかもしれない。
もし上手く死ねたら、私の残り時間の方が少なかったと、後悔してくれるかもしれない。
どんどん前のめりになる身体。重心が傾こうとしたその時、ハッと後ろへ引き戻された。
そうだ、どうせ死ぬなら……
王室御用達の高級焼菓子店に入ると、マリエの為にと渡された金で、一番高いケーキと紅茶を頼む。
華やかな令嬢達に嫌な視線を向けられながらも、見晴らしの良いテラス席に堂々と座り、大きな一口でフォークを迎え入れた。
美味しい……すっごく美味しい。
久しぶりの甘い菓子に、胸がときめく。
マリエへ行くはずだった栄養を奪っても、少しも罪悪感が湧かない。だって、私の方が残り時間が短いんだもの。私の方が可哀想でしょ?
クリームも紅茶の一滴も、少しも残さず空にし、皿に手を合わせる。
店を出て、さっきの橋へと足を踏み出すと、誰かにトンと肩を叩かれた。
「死ぬならくれないか? それ」
振り返ったそこには、フードを目深に被った全身黒づくめの男。
私の左手を指差しながら、淡々とそう言った。
そうね。運悪く遺体の身元が判明したら、あの人達に指輪を取られてしまう。だったら、見ず知らずのこの人にあげた方がマシだわ。
指輪を抜きかけ、ふと疑問を口にした。
「……何故死ぬって分かるの?」
「残り時間が見えるから」
「どんな風に?」
男は少し間を置き答える。
「それを先にくれるなら教えてやる」
渡した途端逃げるんじゃないか。そんな考えが過るも、好奇心の方が勝る。
人差し指から重りを外すと、男の掌にそっと置いた。
「……来い」
人気のない路地裏へ向かう男。怪しい背中に黙って付いていく。やがて建物の陰へ入ると、男は辺りを見回してから、私に向かい手をかざした。
何をしているのだろうと首を傾げるのと、男が「見てみろ」と顎をしゃくるのはほぼ同時で。気付けば薄暗い宙に、砂時計らしきものがぼうっと浮かんでいた。
「これが私の?」
濁った灰色の砂。
上部のそれは、不規則に増えたり減ったりしながら、さらさらと落ち続けている。
「寿命に逆らい自ら死のうとしている奴は、こんな風に不安定なんだ」
「……貴方の目には、人の寿命がこんな風に映っているの?」
「ああ。砂の色や量、落ち方で、大体の残り時間が分かる」
「すごいわ。貴方、すごい魔力ね」
「……まあな。今日みたいに、偶然お宝にありつけることもあるし。自死する奴は、物欲も未練もない奴がほとんどだから」
へえと感心しながら、奇妙な砂時計を見つめる。私の本来の砂はどのくらいだったのだろうと考えていると、それはふっと闇に消え失せた。
「約束は果たした。じゃあ」
背を向け歩き出す男。そのマントのような黒い外套を、私は思わず掴んでいた。
「ねえ、砂時計を二つ……二人分を同時に出すことは出来る?」
「……まあ」
「なら、ぜひお願いしたいわ。その……王都から、片道四時間はかかってしまう場所なのだけど」
男は眉根を寄せる。
やっぱり無理よねと諦めていると、手をすっと差し出された。
「報酬。この指輪の三倍は必要だな」
くいと曲げられる小指。このダイヤ以上のものと言ったら……
私は男の手を引き寄せ、胸の膨らみに当てた。
「この身体ではいかがかしら。そんなに悪くはないでしょう? 気に入らないなら、娼館に売り飛ばしていただいても結構よ。歳は少しいっているけど、未婚だしまだ充分値は付くと思うわ」
「……死ぬんじゃないのか?」
「砂時計を見比べて、貴方に報酬を支払ったらね。あ、先の方がよければ、今すぐにでも」
男は首を振ると、胸から手をどかし淡々と言う。
「後でいい。案内しろ」
菓子店で財布を空にしてしまった為、ひとまず彼の金で馬を一頭借りてもらい、並んで伯爵領へと向かう。
フードに隠れた、意外と若そうな横顔。
何を考えているのかは分からないが、なかなか親切な人だと思う。最初の約束も守ってくれたし、今日会ったばかりの、しかも自死しようとしている不安定な人間に、後払いでいいだなんて。
屋敷へ着いた頃には、もう日はどっぷりと暮れ、形あるものを黒い影に浮かび上がらせていた。
オレンジ色に浮かぶ幾つかの窓。ほっとする灯りのはずが、闇より冷たく感じるのは何故だろう。
無言で馬を結び玄関へ向かう私に、彼は何も言わずに付いてきてくれた。
客を連れて帰ってきた私に、軽く会釈するだけで通り過ぎていくメイド。誰一人出迎えのない廊下を抜けると、この屋敷で一番豪華な部屋の前に立つ。
扉から漏れる温かな笑い声。みんな揃っているなら丁度いいわと、握り拳で乱暴にノックした。
「まあ、ラーナ。随分遅かったわね。マリエがずっとお菓子を待っていたのに」
「可哀想に。他の菓子で我慢させてしまったじゃないか」
何時間も馬を走らせた私に対し、おかえりもお疲れ様も何もない上、たかが菓子ごときで責める両親。
一方マリエが座るベッドの上には、ドレスのデザイン画が何枚も広げられている。
……あの指輪を売った金で、誕生日用のドレスを仕立てるつもりだったのでしょうね。
土埃で汚れたスカートを腹立ち紛れに払うと、マリエがゴホゴホと大袈裟に咳き込む。
「ラーナ! 何をするの!?」
マリエの背を擦りながら、私をキッと睨む母。そこでようやく、私の背後に立つ彼の存在に気付いたようだ。
「あら、そちらは……」
「私が仕事を依頼した方です。私達姉妹の残り時間を確認したくて」
「残り時間?」
怪訝な目を向ける三人。
マリエを指差し、「お願い」と言う私に、彼はこくりと頷き手をかざす。
右手でマリエ、左手で私を。それぞれの砂時計を宙に出し、彼は淡々と説明する。
「あんたのはさっきとほぼ変わらない。妹のは……あと四年と言ったとこか」
四年。もうすぐ十八だから……
何だ、二十二歳近くまで生きられるじゃない。
「ラーナ! これは一体何事だ!?」
痺れを切らした父が怒鳴る。
「寿命が見える魔法です。マリエと私の残り時間を比べてみたくて」
「……何だと?」
「マリエはあと四年。私は……非常に不安定で、ほぼ時間はありません」
さっと青ざめる三人。マリエは大きな瞳を潤ませ、わあと布団に突っ伏した。
父は顔中に怒りを滲ませ立ち上がる。
「なんてことを……なんて残酷なことを言うんだ!」
カツカツとこちらへ向かい、振り上げられる手。
訪れる痛みを覚悟する間もなく、彼があっさりと掴み止めてくれた。
「……どけ! 怪しい詐欺師め!」
彼は無言で父の手首を締め上げると、乱暴に払いのける。バランスを崩した父は、床に派手な尻もちを搗いた。
こんなことは頼んでいないのに、何故庇ってくれるのだろう。
……あ、報酬だからか。傷が付いたら値が下がるものね。
心強い用心棒を手にした私は、痛みに顔を歪める父を、毅然と見下ろす。
「お父様、私の残り時間については、お訊きにならないのですか? 四年も残っているマリエに対し、私はほぼ時間がないと、そう申し上げましたのに」
すると父は、ただ不思議そうな顔で平然と問う。
「……何故だ。お前は健康だろう?」
「はい身体は健康です。ですが心は限界なので。自ら命を絶とうと思っています」
「なっ、何だと!?」
わなわなと震える父。驚きに目を瞠る母。
底のない昏い心に、もしかしたら……とほんの僅かな光が差す。
が────それはやはり、渇望が見せた幻だった。
「お前というやつは……何と身勝手なんだ! 病の妹が懸命に日々を生きているというのに、命を粗末にするなんて!」
「本当に……何て残酷な子なのでしょう! 苦しみに耐えている妹の前で、よくもそんなことを……こんな詐欺師まで使って!」
わああと、一層激しく泣き出す妹。
両親はもう私には目もくれず、華奢な背中を必死に擦り続けている。
私は真っ暗な底で息を吸うと、灰みたいな言葉を吐き出した。
「……では、あなた達が私に向けている感情は、身勝手で残酷ではないのですか? マリエと私の残り時間が逆であればいいと願う……同じ娘でありながら、マリエの生だけ願うその感情は」
両親は顔を見合わせた後、何だそんなことかと、呆れたように口を開く。
「弱いものを慈しみ、守るのは当然のことだろう。妹を想うなら、自分の命まで差し出したいと願うのが立派な姉ではないのか?」
父の言葉に母も加勢する。
「そうですよ。第一貴女は健康な身体に恵まれて、充分幸せに暮らしたじゃないの。ほとんどベッドの上でしか過ごせなかったマリエを思えば……」
ううと涙ぐむ母を、荒い呼吸で慰めるマリエ。そんな二人を、鼻を啜りながら包み込む父。
……茶番だ。とんだ茶番だ。
馬鹿げた『家族愛』に笑いが込み上げる。
あははと声を漏らす私に、三人は一斉に非難の目を向けた。
「ごめんなさい。私、自分の命をマリエに差し出すくらいなら、その辺の虫にあげるわ。どうせあと四年しか生きられないのに、治療費もドレスも無駄、その分生活費に回せばいいのにって思っているくらいだし。あ、もし私がマリエなら、そう提案しますけど?」
「貴様っ…………!!」
再び怒りを露にする父。こちらへ向けられる前に、彼がさっと立ち塞がり庇ってくれる。
「それに、私から見たら、マリエの方がよっぽど恵まれているわ。残り時間なんかよりも、私がずっと欲しかったものを全部……」
暗くなった視界に涙が落ちる。彼が咄嗟に掛けてくれたらしい外套を、震える両手でぐっと握り締めた。
「出ていけ……お前のような冷酷な人間など、家族ではない。二度と帰って来るな!!」
「……はい。そのつもりです。元々家族などではなく、タダ働きの使用人でしたから」
私はそう言い捨てると、菓子店の袋をテーブルに置く。中身はあの店で一番安いクッキー。その幸福な甘さに、貴女は気付けるだろうか。
目を伏せたまま扉へ向かう私の背後で、彼の声が静かに響いた。
「残り時間は、みな平等に重い。……四年後、その意味に気付けるといいな」
勘当された私は、もう伯爵家の馬を使う訳にはいかない。申し訳ないと思いつつも歩く気力はなく、彼の馬に一緒に乗せてもらうことにした。
淡い月明かりの下、二人分の重みを乗せた蹄が、ゆっくりと屋敷から遠ざかる。
何も持たずに飛び出してしまったけれど……これからどうしたらいいのかしら。
「伯爵領を出たら、宿を探そう」
背中に掛けられた言葉にハッとする。
そうだ、報酬を支払わなければと。
「一文無しだから、宿代は貴方に払ってもらうようだけど……この馬代といい、前借りばかりで悪いわね。上手く出来るか自信はないけど、いくらでも好きにしてちょうだい」
「……報酬のことなんだが。別のことを頼んでもいいか?」
「別の?」
「ああ。あんたにとっては、身体を売るより辛い仕事かもしれないが。引き受けてくれるなら、食事も住む場所も提供する」
身体を売る以上に辛い仕事。相当過酷な……もしくは命の危険を伴う肉体労働だろうか。
あれこれ想像するが、少しも恐ろしくはない。自分はもう、死んだも同然なのだから。
「……ええ、構わないわ。報酬分、きっちり働かせていただきます」
そう答えると、彼の口からほっと息が漏れた気がした。
手綱を引いて一旦馬を止めると、彼は自分の小指から指輪を抜き取り、私の人差し指に嵌めた。
「これはあんたが持っておけ」
「……何故? 貴方にあげたものでしょう?」
「これ以上の報酬をもらうからいい。……今のあんたには、重りが必要だ」
指輪を移す一連の動作で、より密着した身体。そこに淫らな熱はなく、ただただ優しかった。
◇
四年後────
私は彼の家で、住み込みの仕事をしていた。
王都の神官として忙しく働く彼の代わりに、彼の妹の看病と世話をする、そんな仕事だった。
重い病を抱えながらも、彼女は決して残り時間など口にしない。
他愛ないことで笑い合い、美味しいおやつを分け合い、美しい空や花を見ては感動を伝えてくれる。
十五歳の今を懸命に生きる彼女を、いつしか私は実の妹のように想っていた。
生まれ育った伯爵家が、放火による火事で全焼し、両親とマリエ、婿、使用人達が命を落としたと知ったのはつい先月のこと。何でも犯人は、税金の引き上げに強い不満を抱く領民らだったとか。
悲しみは全くなく、除籍されてよかったと安堵するだけの私は、やはり冷たい人間なのかもしれない。
『残り時間は、みな平等に重い』
彼の放った言葉の意味を、あの人達は死の間際で理解しただろうか。
物干し竿へと伸ばした左手。その薬指の新たな重りに、私は今日もため息を吐く。
宝石も何も付いていないのに、何故この銀の輪は、これ程までに眩しく輝くのだろう。
全く、彼のせいで予定が狂ってしまったわ。
報酬分はとっくに働いたというのに……
砂時計を満たす愛しい枷を、そっと撫でては微笑んだ。
ありがとうございました。