既視感
放課後の空気は、うっすら湿っていた。ここ、リュクスベル公国、カレル峠町の春先は、毎年こうだ。乾ききらない地面と、少しだけ土の匂いを含んだ風。いつも通りの道を歩いていたはずだった。なのに、今日の道は、ほんの少しだけ“違って”見えた。
角を曲がる瞬間、通りの先かすれた街灯の光の下を、誰かが歩いているのを見た。黒いコート。季節外れの生地。足の運びがどこか重い。顔は見えなかった。でも、その背中には見覚えがあった。
見たことがある。けれど、いつ、どこで、とは思い出せない。知らないはずなのに、知っていた。だから俺は、追いかけていた。声もかけず、理由もなく。
その背中は、町の外れへ向かっていた。学校でも、家でも、「あそこには近づくな」と言われてきた区域──パララックス渓谷。地図には載っていない。けれど名前だけは、妙にくっきりと記憶に残っていた。かつて100人以上が行方不明になり、国の調査が入って、立入禁止になったと聞いた。でも、俺の中にはもうひとつの感覚があった。あの名前は知っている。けれど、これから向かう場所がそれなのかは、確信できなかった。ただ、“そこ”に行かなきゃいけない気がした。
渓谷を囲うフェンスは壊れかけていた。「立入禁止」の標識は錆びて読み取れず、草の中で倒れていた。背中の男はもう見えなかったけれど、足は止まらなかった。中に入ると、すぐに風が変わった。湿り気を含んで、重たく、耳を圧迫するような空気。歩くたびに足音が強調され、周囲の音がすべて引いていく。道は細く、土と石が混じっていた。崩れかけの木橋を越えたあたりで、ふと気づいた。
「ここを歩くのは初めてじゃない」
そう思った。根拠はない。けれど、足が迷いなく進んでいた。やがて視界が開けた。崖だった。眼下には霧が広がっている。濃くて、白くて、底が見えない。中央だけ、黒い影のようなものがぽっかりと浮かんでいた。風はないのに、霧はゆっくりと動いていた。吸い込まれるように、俺は崖の縁に立った。
そのとき、後ろで音がした。誰かが、小枝を踏み折る音。振り向く。誰もいない。風すら吹いていない。……違う、“誰もいない”んじゃない。ここには、何かがいる。言葉にはできない。姿もない。でも、確かに“それ”がいた。
足元が崩れた。地面が斜めに沈んだ。身体が浮いて、視界がぐるりと反転する。
次の瞬間、俺は立っていた。落ちる途中の記憶は、なかった。ただ、立っていた。赤土の地面に、まっすぐに。
音がなかった。風もなかった。時間すらも動いていなかった。立ち尽くす俺の周りにあるのは、霧と影と静けさだけだった。ここは知っている。でも、来たことはない。名前だけを知っていたあの場所と、俺が今、立っているこの場所は、きっと、同じで、同じじゃない。
俺は、もう外にはいなかった。
立っているはずの足元に、地面の感触がなかった。あったのは、重さだけだった。地に吸われるような、無音の存在感。湿った赤い土。足が沈む。冷たさが靴の底から肌に触れてくる。霧が濃い。空も太陽もない。ただ白。境界が失われた風景。まっすぐ見ても、すぐに奥行きをなくす。距離と時間の区別が曖昧になるような空間だった。音がなかった。自分の呼吸も、衣擦れも、遅れて届く。耳ではなく、骨で拾っているような感覚。それでも、なぜか誰かの気配だけはあった。
振り返っても、来た道はなかった。崖も、フェンスも、町の空気も、すべて霧の中に沈んでいた。あらゆる“外”が、ここには存在していなかった。
周囲の地面に、小さなへこみがいくつかあった。足跡のようにも見えたが、どこか不自然に途切れている。土の上で、形だけが“忘れられた”ような、置き去りの影。
歩こうとした瞬間、背中が冷えた。誰かに見られている。そう思ったのに、視線はなかった。ただ、皮膚の裏にだけ、何かが触れていた。風が一度、抜けた。空気が乾く音がした気がした。そして、遠くから、犬の声がした。
一度。
間を置いて、もう一度。
低いわけでもなく、高いわけでもない。警戒とも呼びかけともつかない、ひとつの鳴き声だった。俺は、その音の方へ、足を向けた。
足を動かすたび、土がじわりと沈む。靴の底が濡れた葉を踏む感触。風は吹いていないのに、霧の向こうから“何かの気配”がこちらに向かっていた。
もう一度、鳴き声がした。
今度は少し近い。間近というほどではないが、もう“どこか”ではなく“この空間の中”だとわかる距離。その声は、誰かに対するものだった。
警戒しているが、怯えてはいない。吠えたのは、「見ている」からだ。何かを、しっかりと。
数歩先、木々の間に黒い影が見えた。犬。
中型で、毛並みは濃く、耳はぴんと立っていた。こちらを見ていた。吠えない。ただ、じっとこちらを見ている。その目は、懐いているわけでも、威嚇しているわけでもなかった。判断を保留している──そんな目だった。
気づけば、もう一つの気配があった。犬のそば、霧の中から、人影が現れた。女の子だった。俺より少し若く見える。肩までの髪。灰色の上着。背筋を伸ばし、まっすぐこちらを見ていた。
声を出せなかった。自分の喉がどんな音を持っていたか、一瞬わからなかった。
「……誰?」
ようやく出た声は、自分のものじゃないみたいに響いた。彼女は答えなかった。ただ、犬に目をやり、それから俺に戻した。犬が、一歩だけ前に出た。その距離が、妙に重かった。
距離は十歩ほど。犬と、その背後の少女。霧の中でその輪郭だけが妙にくっきりしていた。
コーギーだった。がっしりした体躯に、短い足。けれど動きは素早く、次にどう動くかを予測させない緊張があった。耳をこちらに向けて、体はやや横にずらしていた。“俺”を完全には受け入れていない構え。吠えないまま警戒を続けるコーギーというのが、逆に不気味だった。
少女は言葉を発さなかった。黙ったまま、ただ観察していた。目は動かない。感情も浮かばない。それなのに、視線だけが妙に正確に届いてくる。俺は試しに、もう一歩だけ近づいた。犬が前足を半歩だけ踏み出し、低く唸った。でも吠えなかった。
「俺は……迷っただけで……」
何を説明したいのか、自分でもわからなかった。何も知らない。何もしていない。なのに、なぜか疑われている気がした。
少女が初めて口を開いた。
「……あなた、ここに来たの?」
質問の内容が、質問じゃなかった。どこから来たのかではなく「ここに来る人間は、来る理由がある」という前提が含まれていた。俺は答えられなかった。彼女は一度だけまばたきし、静かに言った。
「ほとんどの人は、もう戻れないのに」
空気が止まっていた。言葉のあと、誰も動かなかった。コーギーも、呼吸音すら出さなかった。
「……でも俺は、来るつもりじゃなかった」
語尾がやけに小さくなった。言えば言うほど、自分の存在が嘘になっていく気がした。少女はほんの少しだけ眉を動かした。感情とは呼べない。けれど、表情のような何かがわずかに浮かんだ。それだけで、彼女の目が“ただの無関心ではない”ことが伝わってきた。
「あなたの名前は?」
声は穏やかだった。問いそのものより、“それを聞くのが当然だと思っている”響きが強かった。
「……エイドリアン」
そう名乗った瞬間、何かが揺れた気がした。名前を口にすることが、この場所では異常なことだったみたいに。コーギーの耳がぴくりと動いた。
「その名前……」
少女が口元に手を当てる。目が一瞬だけ遠くを見た。でも、何も言わなかった。
「俺の名前が何か?」
答えを求めたわけじゃなかった。ただ、黙っていられなかった。この霧の中で、自分の名前さえも“揺れている”気がしたから。
「……こっちに来て。長くここにいると、変になる」
彼女は背を向け、歩き出した。コーギーも、彼女と同じ方向を向いた。けれど俺の足は、まだ動かなかった。
少女が振り返って、俺を催促するように手を振る。コーギーもついていく。少し遅れて、俺も足を動かした。
霧の中を歩くたび、足音が吸い込まれていく。踏んだ感触はあるのに、耳には届かない。自分が歩いているという感覚だけが、時間と地面に引き留めてくれていた。
数歩進んだところで、何かが背後で変わった。振り返る。見ていたはずの霧の向こう──そこには、もう来た道がなかった。崖の縁も、土の感触も、通ってきた小道も、全部が静かに消えていた。音もなく、痕跡も残さず。まるで、最初から何も存在していなかったように。
少女は振り返らず、歩き続けていた。コーギーも同じように前を向いたまま。誰も何も説明しないのに、すべてが“もう戻れない”と語っていた。
どこへ行くのかもわからなかった。でも、他に行ける場所もなかった。コーギーが、一度だけこちらを見た。吠えなかった。何もしなかった。ただ、こちらを確認するように目を向けた。その視線が、すでに何かを知っているように見えた。俺のことを。俺の名前を。俺が、何者かを。
霧が背後で、音もなく閉じていった。