【短編版】理想の冷遇生活だと思ったら
「またこんなものを作ったの? 本当に趣味が悪いわね」
上の姉である第一王女アンナが吐き捨てるように言い、その隣で第二王女エリザも鼻で笑っている。
離宮で静かに刺繍をしているレティシアのところに急に現れた姉たちは酷く楽しげだ。
「そんなものをいくら作っても誰も喜ばないわよ。あんたが王族でなければ、ただの取るに足らない女だったでしょうね」
「……申し訳ありません、お姉さまがた」
第三王女のレティシアは自分が丹精込めて作り上げた刺繍の作品を手に取って、隠すように抱きしめた。
「申し訳ないと思うなら、その腕をもう少し役に立つことに使ったらどうなの? せめて私たちのためにドレスの裾でも縫うとかさ」
「ふふっ、アンナお姉さまったら名案だわ! 今度の夜会のドレスはレティシアに刺繍をさせましょう」
アンナの言葉にエリザが同調するように笑っている。異母姉妹である二人の冷たい態度は、幼いころからずっと変わらない。
第二妃の娘であるレティシアは、十七になるまで何をしても認められることはなく、常に姉たちの陰にいた。
流行りのドレスに豪華な装飾品を身につけた姉たちは、離宮に追いやられているレティシアのところに定期的に現れては、こうしてひとしきり蔑んで帰っていく。
数着しかないドレスをなんとか繕いながら過ごしているレティシアのことなど捨て置けばいいのに、だ。
嵐が過ぎるのを待つように、ただ早く帰って欲しいと心で願う。
絹糸のような白金の髪、伏せられた長い睫毛の隙間からは湖面のような澄んだ青色の瞳がのぞく。
(お姉さまたち、お暇なのでしょうか)
その儚げな外見とは裏腹に、レティシアの肝はわりとどっしりと座っていた。
「でもまあ、もうすぐこの国を出て行くんだから、そんなことも関係なくなるわね」
姉アンナの言葉に、俯いて床のシミの数を数えてやり過ごそうとしていたレティシアはハッと顔を上げた。レモンの皮で擦れば取れるかしらなどと考えている場合ではないかもしれない。
「わたしが……この国を出るのですか?」
レティシアが眉を顰めると、珍しく反応したことが嬉しいのか姉のアンナがほくそ笑む。
「ええ。父上が決めたのよ。あなたは隣国の公爵家に嫁ぐことになったわ」
「隣国の、公爵家……?」
レティシアの胸が大きく波立つ。隣国への政略結婚――しかも、公爵家とは。どういう縁談なのか分からないけれど、それが何を意味するのかは、彼女にも分かっていた。
「まあ、私たちにとっては都合がいいわね。隣国の皇太子も苛烈で恐ろしい人だっていうし、公爵家も似たようなものだわ。きっと誰もあんたみたいなみすぼらしい姫なんかには期待しないでしょう」
「まあこわ〜い! 盗っ人の娘のあんたが、隣国でふさわしい扱いを受けることを祈っているわね」
エリザが薄ら笑いを浮かべながら言って、二人の姉は満足そうに部屋を去っていった。
(やっぱりお姉さま方はただお暇だっただけなのね。それにしても、隣国ですか……)
部屋に一人取り残されたレティシアは、手の中の刺繍を見つめながら小さくため息をつく。
自分の存在は誰かの都合で決められる――それがレティシアのこれまでの人生だった。
国王である父は、吹けば飛ぶような小国の美姫だったレティシアの母に異常なほど執着し、半ば監禁するように傍に置いていると聞いた。
だからレティシアは、物心がついたときからずっとひとりだ。
それを元々身分の高い侯爵令嬢だった第一妃がよく思わない気持ちも分かるし、その矛先が寄る辺のないレティシアに向くのも……まあ分かるような気がしなくもない。許しはしないけれど。
「隣国は今、皇帝が代替わりして改革を推進しているのでしたね。……公爵家に他国の姫を嫁がせることで、何か得られるものでもあるのでしょうか?」
レティシアはそう考えて首をひねる。
相手に利のある縁談とはとても思えない。後ろ盾なんてないし、母の出身地である小国も数年前に北の大国に取り込まれてしまった。
(一体どうしてなのでしょう。わたしでは先方に何のつながりも与えられないのに)
勉強嫌いの姉たちは、レティシアもそうだと思ったらしく、嫌がらせの一環でレティシアに勉強漬けの生活をさせたりしてきた。
本が大好きなレティシアにはもちろん苦痛でもなんでもなかったので、ありがたく享受する。
でも、講義が終わったあとはヘロヘロと困った顔をして、わざと勉強も出来ないように見せるようにした。そうすると、アンナたちは「なんて愚かなの、レティシアは」と醜悪な顔で笑うのだ。
泣きそうな顔を浮かべつつ、レティシアは内心ペロッと舌を出していた。
熱心に教えてくれた先生も黙認してくれたので、勉強の機会だけはまんまと手に入れた。
(ま、分からないことは考えても仕方ないですね! まずはこのハンカチを仕上げましょう)
レティシアは考えるのをやめて、刺繍を再開することにした。刺繍をしている時は、他に何も考えなくて済む。
それから数日後。
珍しく国王に呼び出されたレティシアは、アンナたちが言っていた内容をそのまま告げられることとなった。隣国の公爵との婚姻は、どうやら事実だったらしい。
「いいな、レティシア。これは政略結婚だ。粗相のないように」
「……はい、お父様」
国王の横には不機嫌そうな王妃。そして母の姿はどこにもない。やはり母は、まだ外に出してもらえないようだ。
「婚姻は半年後だ。それまでに公爵の気持ちを掴むのだ。まずは手紙でも書きなさい」
「はあ……」
「学のない悪筆で公爵を困らせないようにするのですよ?」
王妃にギロリと睨まれる。何も持たないレティシアが見知らぬ公爵の心を掴めるわけも無いのに無茶を言う。
ただ、二人がこの婚姻自体に反対をしないということは、やはり隣国との繋がりはこの国にとって利益となるらしい。
レティシアは国王と王妃を胡乱な顔で見つめ、それからハッとした。
(もしかしたら、公爵様にはほかに愛する人がいて、そのカモフラージュのためによそからの妻を用意する必要があるのではないでしょうか!?)
どう見ても冷え切っている国王と第一妃の関係性を目の当たりにしたレティシアは、ようやくその可能性に行きついた。
後ろ盾がある妻だと関係の悪化が国政に影響を与えるだろうから、その点レティシアなら安心だ。
レティシアが冷遇されようとも、この国は痛くもかゆくもない。憤ることもない。
(きっとそうです。公爵さまはお父様と同じように愛する人を隠してしまうおつもりでしょう。そしてわたしは表向きの妻……!)
謁見を終えたレティシアは、行き着いた答えに納得しながら寂しい離宮に戻って、ひとまず言いつけどおりに手紙をしたためる。
嫌がらせの一環でレティシアには専属の侍女がいないので、炊事洗濯もお手のもの。自給自足もどんとこいだ。
「あちらで冷遇されたとしても、自由になってみせます……というか、むしろ冷遇された方がいいまでありますね。どちらかといえば、お母様みたいに監禁されることだけは避けたいですもの」
レティシアの胸に浮かんだのは、ほんの少しの希望だった。この結婚がどう転ぶかは分からない。
それでも、もうここでの暮らしはうんざりだ。
助けてくれない父母も、かしましい姉たちも、母に向けたいであろう嫉妬と憎しみのこもった視線を向けてくる王妃も。
「ええと……""拝啓、アルベルト様――""」
手紙には形式的な挨拶と、会える日を楽しみにしているなどという美辞麗句を並べる。
文面は慎ましくも、未来の夫への誠実な思いを込めた。
あとはこれを送ってもらえるように頼むだけ。
「アルベルト様、どんな方なのでしょうか……」
果たして監禁なのか冷遇なのか――
レティシアの中では偏った二択しかなかった。
あと、おいしいごはんが食べられたらいいな。
***
隣国での結婚式は思ったよりも盛大で、周囲からの祝福の声が響いていたが、レティシアの心は静かだった。
これが「白い結婚」だと知っていたからだ。
婚前に交わした手紙に記された一文を、彼女は何度も思い出していた。
『これは形式的な結婚だ。私は君を愛するつもりはない』
手紙に刻まれたその言葉を見て、「やっぱり」と思った。その言葉に、逆に安心すらした。
その手紙の最後には、『この手紙を捨てるように』指示されていた。
でもレティシアはそれには従わない。大事な証拠なのだから、燃やすわけがない。手放すことなく小さな荷物に忍ばせ、持ち込んだ。
これさえあれば、離縁もスムーズに進むはず。捨てるなんて滅相もない。
「……よし、女は度胸ですね」
どこかひんやりとした空気がある寝室の前で、レティシアは覚悟を決めて一歩を踏み出した。
レティシアを昔世話してくれていた乳母のマーサがよく言っていた言葉だ。ある日急に姿を見せなくなったけれど……まあどうせ、王妃たちがなにかしたのだろうと思っている。
せめて彼女が息災でありますように。遠いこの地から、乳母の健康を願う。
今日からこの国が自分の新しい居場所になる。
最初から愛を期待しない関係なら、気を張る必要もない。むしろ、あとあと自由を手に入れられる可能性があるのだから。
(……とはいえ、緊張はしますね)
部屋に入ったレティシアは、緊張しながらも平静を装い夫婦の寝室で待っている。
アルベルトの横顔は、婚礼の時にそっと盗み見した。
何にも染まらない濡れ羽色の髪、すっと通った鼻筋に凛とした紫紺の瞳。これまでに見たどんな人間よりも美しい人だった。
カタンと物音がして、レティシアは跳ねるように顔を上げる。寝室の奥にある扉が開き、ベルベットのガウンを着た若き公爵、アルベルトが現れた。
薄暗い中でもやはり美しい。そしてその視線はレティシアを射るように見つめている。あの手紙と同じように冷たい視線で一言告げた。
「『この部屋は君に譲る。必要があれば扉を叩くように』」
「はい……?」
「ではな」
どこか棒読みのようにそれだけ言うと、彼は寝室の扉をくぐり、自室へと戻っていった。
「……?」
寝室にしばしの静寂が訪れ、レティシアは静かにベッドに横たわり、肩の力を抜く。
よく分からないが、お飾りの妻だから初夜は必要ないということなのではないだろうか。うん。
「さすが、素晴らしい冷遇スタートですね! これでいいのです……うん……ふわあ」
ベッドに横たわれば、婚礼の疲れでグンと身体が重くなる。
広々としたベッドで、レティシアは深い眠りに落ちた。
*
翌朝、レティシアが目覚めるとすでに日が高く昇っていた。
「うん、よく眠れました!」
ぐーんと腕を上げて背中を伸ばす。
ふかふかしたベッドで、とんでもなく熟睡していたみたいだ。
移動もあったし、気疲れもあった。ひとりで大の字で寝られて満足度も高い。立派なベッドは寝心地がよいことをレティシアは再認識する。
(さて、どうしましょう?)
冷遇された女主人は、このあとどう振る舞うのがよいのだろうか。昼まで寝かせてもらえたということは、本国と同じで放置系なのかと推察する。
レティシアが考え事をしていると、寝室の扉がノックされ、数人の侍女たちが勢いよく入ってきた。
「お目覚めになられましたか、奥様。すぐに朝食の……いえ、軽食の準備を整えますのでお待ちくださいませ」
「え、ええ」
「奥様、パンケーキはフワフワしたものとしっかりしたもの、どちらがお好みですか?」
「……どちらも、食べたことはないかもしれません」
少し考えたレティシアがそう答えると、一番歳上と思われる侍女が怪訝な顔をした。
それから近くの使用人たちに何やら指示をして、彼女たちは蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「……承知いたしました。本日はお天気もよいので、庭園にご用意させていただいてもよろしいですか?」
姉たちに誘われた庭園のお茶会では、レティシアの席に虫が置かれたり、薄着で冷たいお茶を出されたりと散々だった。
最初に庭園を指定してくるあたり、そういう狙いがあるのかもしれない。なるほどなるほど。
「はい。では着替えておきます」
汚れてもいいように、持ってきた二着のドレスのうちの一着を着よう。
そう思ってベッドを降りると、侍女はクローゼットに向かおうとしたレティシアの前に立ちはだかり、台の上の大きな箱を指し示した。
「奥様、お着替えはこちらにございます」
「……ありがとう」
「お手伝いは――」
「一人で大丈夫です。エントランスに向かうので、そこからどなたかに案内していただいてもよいでしょうか?」
「……っ。はい、わかりました。失礼いたします」
この屋敷のことは、エントランスしか知らない。
レティシアがそう申し出ると、年嵩の侍女は何かをこらえるようにして部屋を出ていった。
用意された黄色のドレスは美しく、サイズもレティシアにぴったりで、まるで事前に寸法を把握していたかのようだ。
鏡の中の自分を見つめながら、レティシアは首をかしげる。
「肌ざわりもよくて、サイズもピッタリ……」
何度も洗ってゴワゴワになりかけている手持ちの服とは全てが違う。
疑問符を浮かべながら向かった庭園ではパンケーキを堪能し、お茶もちょうど良い温度で、風が吹けば年嵩の侍女がストールを掛けてくれた。
(隣国の冷遇はレベルが高いのですね……!?)
本国に比べると、ものすごく良い暮らしだ。
『愛するつもりはない』とは言われているが、こんな冷遇生活ならいくらでもどんと来いだ。
理想的ですらある。
庭園をウロチョロしても怒られず、遭遇した庭師に好きな色を答えたり、野菜畑を見せてもらったり。
誰にも干渉されない規則正しい生活は、これまで姉たちに縛られてきた彼女にとっては天国のようだった。
***
それらの日々の中で、レティシアが冷遇夫アルベルトが顔を合わせるのは、毎朝の食卓だけだった。
夜はなにやら仕事が忙しいらしく、レティシアは使用人のキッチンに入り込んでみんなで楽しく食事をしている。
長いテーブルでひとりで食事をするのが寂しいからと思い切って侍女長に言ってみたら、かわいそうだと思ったのかみんなでワイワイと食事をとる事になった。すごく楽しい!
とある朝。
今朝もアルベルトは剣呑な表情をしている。
「…………」
「アルベルト様、こちらのベーコンはとても美味しいですね!」
カリッとした部分と脂身のジューシーなところが口の中で合わさってとても美味しい。好きだ。
その次の日の朝。
「…………」
「アルベルト様! 卵ってこんなにふわふわに出来るのです!? お野菜もシャキシャキしていますね」
「……」
「えっ、デザートをお誕生日以外で食べてもいいんですか……? 最高です」
「……これも食べなさい」
ふわふわのオムレツとサラダ、添えられたデザートに感動していると、アルベルトがプリンをそっとレティシアに分けてくれた。優しい甘さのプリンが好きになった。
またその次の朝。
「アルベルト様! このスコーンにクロテッドクリームとやらを載せてジャムをたっぷりつけると、幸せの味がしますね!? 普段のパンも極上ですが、さらにその上を行くものがあったなんて」
「……レティシア、以前から思っていたが、君は一体どんな食事環境にいたんだ……?」
小動物のようにモッモッモッ…とほっぺたを膨らませて目を輝かせるレティシアに、アルベルトはいよいよ呆れたような声をだす。
「スコーンだけでなく、野菜もしっかり食べなさい。喉に詰まらせないようによく噛むこと」
「はひ、わかりまひた!」
口いっぱいに頬張ってしまったスコーンを咀嚼しながらなんとか返事をする。
レティシアは爽やかで濃厚なクロテッドクリームが大好きになった。
最初は無言で済ませていた朝食も、レティシアの朗らかな性格のおかげで次第に会話が増えていく。
レティシアとしては毎日三食プラスおやつの時間に最高の食事が取れて、その嬉しさを爆発させていただけではあるのだが。
(それに、なんだか食事がだんだんと豪華になっているような気がしますね……?)
しっかりと咀嚼しながら、レティシアはテーブルの上を眺める。
スコーンもさる事ながら、ベーコンを添えたふわとろのオムレツに毎日の新鮮なサラダ、香ばしいパン、フルーツにデザート。
昨晩甘いとうもろこしのグリルに驚愕していたら、今朝はコーンスープになって現れている。
毎日おいしそうに食事をするレティシアに触発され、料理人たちが張り切っているのだが、レティシアは知る由もない。
***
――そんな理想の冷遇生活が1か月ほど経った頃。
今日は珍しく、アルベルトが夕食も共にするらしい。
みんなでワイワイと食事をすることに慣れてしまったので、ちょっぴり残念だ。
それでも朝食時のアルベルトとの会話は増えているし、今日もデザートを分けてくれるかもしれない。
そう思ってアルベルトの方を見たレティシアはある異変に気が付いた。
「旦那様……顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
アルベルトの目の下にものすごいクマがある。よっぽど激務なのだろうか。
それにしては夕食を共にするなんて初めてだし、どういうことなのだろう。
レティシアが不思議に思っていると、アルベルトに胡乱な目で睨みつけられた。
「……君は、夜は何をして過ごしているんだ」
「えっ? そうですね、刺繍が趣味なのでのんびりハンカチを作ったり……あとは三日前に子猫を拾ったので、そのお世話をしています!」
アルベルトの声がずんと重いことに気付かず、レティシアは最近のことについて朗らかに告げた。
刺繍入りハンカチはいつもお世話になっている侍女や使用人たちに御礼の気持ちを込めて作った。
反応がこわかったが、恐らくみんな喜んでくれた……もしくはそういうフリをしてくれたと思うので、ひとまず安心だ。
あと仔猫に関しては、野菜作りに精を出していたら、どこからともなく現れた黒猫がかわいくて餌をあげている内に懐かれたので部屋に招いた。
「……俺はもらっていない……それに、君の部屋に……?」
アルベルトは何やらブツブツと呟いている。
(どことなくショックを受けたように見えるのは気のせいでしょうか。あっ、もしかして……!)
「……旦那さま、もしかして猫はお嫌いでしたでしょうか。アレルギーがあって体調が……!?」
ラヴィと名付けた猫は甘えんぼうで、夜はレティシアの隣に来て丸まって眠る。ベッドは広くて安心だし、可愛いもふもふのぬくもりと共に暮らすのも初めてで、毎晩幸せだ。
だがその分、目には見えない毛が屋敷に漂っていて、それでアルベルトが体調を崩してしまっているのかもしれない。
「……嫌いではない」
アルベルトはわずかに目を伏せたが、その仕草はどこかぎこちなく、まるで何かを隠しているようにも見えた。
「だが、夜は使用人たちに世話を任せるべきではないか? 君の負担になるだろう」
「いえ、全く問題ありません! くっついて眠ると温かいですし、ご心配には及びませんわ」
そう胸を張ると、アルベルトの表現がさらに歪んだ気がした。
「……夜は冷える。風邪を引くかもしれない」
「ラヴィと一緒だととても温かいのです」
「……寝返りを打ったときに潰してしまうかもしれない」
「大丈夫ですよ、ちゃんと避けて丸くなって眠っていますもの」
(ラヴィのことを心配してくださっているのですね。旦那さまも猫にはお優しいみたいで安心です)
レティシアはほくほくとした笑顔になる。
使用人一同、気配を消してはいるが二人の会話にハラハラとしていることにまるで気が付いていないようだ。
「……どうして」
「え?」
「どうして君は、俺のところに夜這いに来てくれないんだ!?」
どうにも我慢ならないというように、アルベルトから発せられた言葉にその場にいた全員が固まった。
レティシアの頭の中も真っ白だ。
周囲の侍女たちも、メインのお肉をサーブしにやってきた料理長までもそれを耳にしてしまい、全員が顔を真っ赤にして視線を伏せている。
「……ヨバイですか?」
復唱する。よばいとは、四倍なわけはあるまいし、よばい……よばい……?
とにかくアルベルトの顔は耳まで真っ赤なのだが、レティシアには何もピンと来ない。
「っ、こちらに来てくれ」
「えっ、お肉……」
「いいから」
首を傾げていると、アルベルトはレティシアの手を掴んで食堂を出た。
「どういうことですか?」
「……話がある」
「お肉はあとで食べられますか?」
「ああ」
向かっているのはどうやら寝室の方向だ。
レティシアはお肉が食べられることに安堵しつつ、なぜアルベルトがこんなに急いでいるのかが分からずにいる。
そのまま寝室に連れ込まれたレティシアは、アルベルトから一通の手紙を差し出された。
「これを見てくれ。君から送られてきたものだ!」
なるほど、確かに宛名はアルベルトで最後の署名はレティシアのもの……のように書かれている。
レティシアはその手紙に目を通す。
その手紙にはなんと、詳細な『夜の作法』が書かれていた。
「ええと、『初夜には妻に冷たく接し、寝室から離れること。その後、妻が夜這いをすることで夫婦の信頼が深まる。私の故郷の作法です』……こ、こんな手紙、私が書いた覚えはありません!」
なんという破廉恥な手紙だ。
故郷にそんな作法があるかどうか定かではないが、これは少なくともレティシアが書いたものではない。
「なん...だと……?」
アルベルトは目を丸くし、自室の方へといなくなる。それから美しい装飾の施された箱を持ってきて、レティシアに掲げた。
中には手紙のようなものが入っている。
(もしかして、私からの手紙……? こんなに大切に保管してくださっているの……?)
「この手紙は……全て君からのものではないと?」
アルベルトの表情は、悲しげだった。彼の手には、美しい装飾の施された箱。その中には何通もの手紙が収められている。そのどれもが、レティシアが送ったはずのもの――だが、見覚えのないものもある。
「ええ、確かに私が送った手紙もあると思いますが……このような内容を書いた覚えはありません」
「君の筆跡だと思い込んでいた。だからこそ、私は信じたのだ」
アルベルトは難しい顔をして、レティシアをじっと見つめる。
(確かに筆跡はよく似ていたもの。仕方がないことだわ、でも……)
レティシアは、ぽかんとアルベルトを見上げた。彼は手紙の内容を本当に信じていたらしい。そして夜這いを待っていた……?
冷淡で恐ろしい人だと思っていたアルベルトが、実はずっと一人で悶々としていたのだとしたら。
レティシアは何か引っかかるものを感じ、慌てて席を立った。
「ちょっと待ってください。すぐに戻ります!」
そう言い残して寝室へと走る。
慌ただしく荷物を探り、見つけたのは、ずっと大事にしまっていたアルベルトからの手紙。
それを握りしめて再び部屋に戻ると、息を整えながらアルベルトに差し出した。
「これが、私が受け取ったあなたの手紙です」
例の証拠品だ。愛することはないと、確かに書いてある。
アルベルトはそれを受け取ると、読みながら眉をひそめた。
「こんなもの、送ってはいない」
「えっ?」
レティシアは目を丸くする。アルベルトはじっとその手紙を見つめ、静かに言った。
「これは……私の筆跡ではない。誰かが俺の名を騙って君に送った手紙だ」
「そんな……!」
レティシアは震える指で手紙をなぞる。もしそうなら、誰がこんなことを?
二人は顔を見合わせた。
「俺たちは……互いに誰かに騙されていたんだな」
「誤解があったなんて……私、旦那様に対してずっと距離を置いてしまっていました」
これ幸いとのびのびと過ごしていたけれど。
レティシアを見つめるアルベルトは、静かに微笑んだ。
「……では、ここからまた始めよう。最初から、お互いに知ることから」
「そうですね……あっでも、夜這いはいたしませんので」
「……っ!」
レティシアも微笑み、そっとアルベルトの手を握った。
きっぱりと告げるとアルベルトの顔が赤くなり、レティシアは可笑しくなってふっと笑った。
しかし、アルベルトの表情はすぐに険しくなる。
「……それにしても、誰がこんなことを……」
心当たりは存分にある。彼女たちだ、絶対に。
思い返せば、レティシアは冷遇などされていなかった。侍女たちをはじめとした使用人たちは皆優しかった。旦那様の怪しい行動も、全ては誤解だったのだ。
(安心したら、お腹がすきました)
ただ、今はそれよりも大切なことがある。
レティシアはのほほんと笑って、鋭い目つきで手紙を睨むアルベルトの袖を引いた。
「旦那様、お肉を食べてから考えましょう?」
「……は?」
「空腹では良い考えは浮かびませんもの! ローストされたお肉はきっと、じゅわっとジューシーで、口の中でとろけるはずです」
レティシアの無邪気な笑顔に、アルベルトは肩の力を抜き、思わず小さく笑った。
「……君は、本当に不思議な人だな」
「旦那さま、早く食べに行きましょう!」
「ああ。そうだな」
レティシアに手を引かれながら、アルベルトは懸命に食堂を目指す妻の後ろ姿を目を細めて見つめる。
こうして、二人の関係は、本当の意味で新たな一歩を踏み出した。
アルベルトが幼少の頃に一度だけレティシアと会った事があったこと、本国ではレティシアの母が姿を消したこと、犯人は予想どおり彼女たちだったこと──レティシアとアルベルトはそれから毎日たくさんの会話をした。
理想の冷遇生活だと思ったらそうではなかったようだが、レティシアが理想の結婚生活を送ったことは間違いない。
「レティシア、これもお食べ」
「いいのですか!? ありがとうございます、旦那さま。大好きです!」
「ぐっ……」
今日も今日とて公爵家の朝食はすばらしく、妻にデザートを譲る夫の姿があった。
おわり
お読みいただきありがとうございます。
アルベルトが不憫になってしまった…
消滅した小国で、本当にそういう風習があったと知ってレティシアは二重に驚きます(設定)
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