表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

遥かなる宵闇の芳香

作者: fmn

コーヒーがだんだん穫れなくなって、2050年くらいには滅多に口に入らないようになるかもというニュースを読んだのと、燃え殻氏の本を立ち読みしたのとが混ざりました。

夜の帳が降りるころ、都市のネオンが雨粒に滲むようにぼやけていた。


ここは名ばかりの自由が行き交う喧騒の中で、ひそかに命を燃やす者たちの影が潜む場所。

表通りに数多立つ看板は、どれも華やかな光を放ち、人々を誘惑する。

しかし、私の行くべき場所はそれらの中にはない。


路地裏に滑り込むと、空気が急に重くなった。

湿ったコンクリートの匂い、グラフィティだらけの古びた壁、そして遠くで聞こえる犬の遠吠え。

細い路地の奥にある、ペンキの剥げた木製の扉が私を待っていた。

そこには何の印もない。ただ、知っている者だけが、その先に何があるかを知っている。


ノックのリズムは、志を同じくする者にしか知らされない。

三回、間を置いて一回。そして再び二回。

扉が軋む音と共に、目だけを覗かせた男の視線が私を鋭く貫く。


「合言葉は?」


低い声が響く。私は静かに答える。


「琥珀の楽園の鍵をくれ」


扉が音もなく開かれると、地下への階段が現れた。

薄暗いランプが僅かな光を投げかけ、その光は、石造りの階段を照らしては消える。

重たい空気が肺に入り込む。

古いレコードのジャズがどこからともなく流れ、懐かしい香りが漂う中を、私は一歩一歩進んでいく。


階下に広がるその空間は、まさにスピークイージー。

人々が密かに集い、もはや手に入らなくなった一杯を求める。

金銭ではなく、信頼と引き換えに与えられる飲み物。それが天然のコーヒーだった。

私はカウンターに座り、マスターの鋭い目と視線を交わす。

彼の手には、古びたセラミックのドリッパー。


「ブラックで」


注文は簡潔だが、意味は深い。

彼は無言で頷き、ドリッパーとカップを温め、豆を慎重に計量し始める。その手際は熟練の技であり、神聖な儀式のように見えた。

湯が滴り、コーヒーの香りが空間を満たしていく。

懐かしさと、心の奥底に沈んだ渇望が同時に蘇る。


小さなカップが目の前に置かれる。

琥珀色の液体が、わずかに揺れた。

私はその香りを胸いっぱいに吸い込む。

そして、ゆっくりと口に含む。


――その瞬間、時が止まった。


完熟したフルーツを思わせる複雑な風味が舌の上で踊る。蜂蜜のような甘さを伴った花のような酸味。立体的で滑らかな質感。

人工物では絶対に再現できない、深淵の味。

これこそが、人々が命を賭けて追い求める理由。


「どうだ?」


マスターが静かに問う。私はカップを置き、彼に視線を戻す。


「完璧だ」


その一言で全てが伝わった。

私たちの間には、言葉を超えた理解が生まれた。

再び味わうことは叶わぬかもしれない、一瞬の真実。それでも、今夜はこの一杯で充分だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ