遥かなる宵闇の芳香
コーヒーがだんだん穫れなくなって、2050年くらいには滅多に口に入らないようになるかもというニュースを読んだのと、燃え殻氏の本を立ち読みしたのとが混ざりました。
夜の帳が降りるころ、都市のネオンが雨粒に滲むようにぼやけていた。
ここは名ばかりの自由が行き交う喧騒の中で、ひそかに命を燃やす者たちの影が潜む場所。
表通りに数多立つ看板は、どれも華やかな光を放ち、人々を誘惑する。
しかし、私の行くべき場所はそれらの中にはない。
路地裏に滑り込むと、空気が急に重くなった。
湿ったコンクリートの匂い、グラフィティだらけの古びた壁、そして遠くで聞こえる犬の遠吠え。
細い路地の奥にある、ペンキの剥げた木製の扉が私を待っていた。
そこには何の印もない。ただ、知っている者だけが、その先に何があるかを知っている。
ノックのリズムは、志を同じくする者にしか知らされない。
三回、間を置いて一回。そして再び二回。
扉が軋む音と共に、目だけを覗かせた男の視線が私を鋭く貫く。
「合言葉は?」
低い声が響く。私は静かに答える。
「琥珀の楽園の鍵をくれ」
扉が音もなく開かれると、地下への階段が現れた。
薄暗いランプが僅かな光を投げかけ、その光は、石造りの階段を照らしては消える。
重たい空気が肺に入り込む。
古いレコードのジャズがどこからともなく流れ、懐かしい香りが漂う中を、私は一歩一歩進んでいく。
階下に広がるその空間は、まさにスピークイージー。
人々が密かに集い、もはや手に入らなくなった一杯を求める。
金銭ではなく、信頼と引き換えに与えられる飲み物。それが天然のコーヒーだった。
私はカウンターに座り、マスターの鋭い目と視線を交わす。
彼の手には、古びたセラミックのドリッパー。
「ブラックで」
注文は簡潔だが、意味は深い。
彼は無言で頷き、ドリッパーとカップを温め、豆を慎重に計量し始める。その手際は熟練の技であり、神聖な儀式のように見えた。
湯が滴り、コーヒーの香りが空間を満たしていく。
懐かしさと、心の奥底に沈んだ渇望が同時に蘇る。
小さなカップが目の前に置かれる。
琥珀色の液体が、わずかに揺れた。
私はその香りを胸いっぱいに吸い込む。
そして、ゆっくりと口に含む。
――その瞬間、時が止まった。
完熟したフルーツを思わせる複雑な風味が舌の上で踊る。蜂蜜のような甘さを伴った花のような酸味。立体的で滑らかな質感。
人工物では絶対に再現できない、深淵の味。
これこそが、人々が命を賭けて追い求める理由。
「どうだ?」
マスターが静かに問う。私はカップを置き、彼に視線を戻す。
「完璧だ」
その一言で全てが伝わった。
私たちの間には、言葉を超えた理解が生まれた。
再び味わうことは叶わぬかもしれない、一瞬の真実。それでも、今夜はこの一杯で充分だ。