表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
すってん小町  作者: 奈良松 陽二
4/5

静かに忍び寄る陰謀の影、有無も言わさず晴明と小町は渦に巻き込まれてゆく。

  十四


 晴明が去ったあと、藤壺には二人の客人が来た。

 二人とも、客人とはいえ使いの人間である。

 一人は、道長の使いで来た藤原保昌だった。

 小町の様子を見に来たという。対応したのは赤染衛門だった。


「・・・なんとも、間の悪い時に来てしまいましたな」


 保昌は、庭先で赤染衛門と話していたが、「間の悪い時」というのも、もう一人の客人が中宮定子の使いとして来た小兵衛という女房だったからだ。

 先ほどの登華殿での出来事の礼として使わされたようだ。

 そちらの方は、当事者である小町と紫式部が対応している。

 被ってしまった以上、事情は説明しなければならない。そこで、赤染衛門が保昌の対応をしている。


「ご報告なさっていただいても差し支えは無いと思いますよ。なにせ、あの天女殿ですから」

「・・・確かに」

「それに・・・」

 赤染衛門は、笑いながら続ける。

「使いというのも半ば方便でございましょ」


「恐れ入ります」

 保昌は、これに対して特に驚くことも、慌てることもしない。

 それもそのはずで、保昌がこうして藤壺を訪れることは初めてではなかった。道長に命じられて定期的に藤壺の様子を見に来てるというのは本当だが、道長は道長で、ちょくちょく藤壺には来ている。特に、帝がお渡りの時には必ずいる。

 まして保昌は、官位も従五位で、昇殿も許されていない中流貴族だ。道長の使いだから、とりあえず庭先くらいには足を踏み入れられる。そうでなければ、敷地にすら入れない。

 それでも、彼がこうして藤壺に来るのには彼なりの理由がある。

 その理由の一つが、目の前にいる赤染衛門だった。

「尾州殿はご息災であられますか?」

 ここで言う尾州殿とは、尾張守である赤染衛門の夫、大江匡衡のことである。

「・・・もう何年も前の事ですから、いい加減お気を使われなくても良いのですよ」

「そうもいきません。指が無ければ字もおぼつかんでしょう。大江殿は学士でもあられる。決して許されるものではない」

「とは申せ、左手の指ですから、字を書くに特に差支えも・・」


「そういうことではないのですっ」


 語気が強くなってしまった。

 これ以上、この話を続けても仕方がないと赤染衛門は思った。

 保昌が道長の御堂関白家の家司となったのも赤染衛門がいたからというのが、大きな理由の一つである。

 ただ、誤解の無いようにしておきたい。彼自身が赤染衛門に気があるとか、そういう話ではない。

 そうではなく、その夫、大江匡衡、ひいては大江家に大きな負い目があるからだ。

 

 藤原保昌。

 彼のことに少し触れねばならない。

 今は従五位という低い官位であるが、彼の祖父である藤原元方までは正三位で参議や中納言の地位にあった。元は藤原南家巨勢麻呂流の流れをくむ名家であったが、元方の頃、道長たち藤原北家との政争に敗れて、その地位を追われて以降、没落の一途を辿ることになる。

 家はすさみ、保昌の兄は刃傷事件を起こして捕まり、その兄と共謀して事件を起こした弟の保輔は逃亡。その後、盗賊に身をやつし、悪行の限りを尽くすようになる。朝廷はそんな保輔に追捕令を出し、今でいう懸賞金まで懸けて行方を追い、ついには父・致忠を監禁して出頭を呼びかけた。保輔は出家して知人宅に匿われたが、その知人からの密告により捕まるが、その際、自らの腹を切って臓物まで引き出した。結局それがもとで翌日に獄中死したという。ちなみに、日本で初めて切腹したのが、この藤原保輔だとする説があるらしい。


 さらに、父までも殺人事件で訴えられ、佐渡に流された。

 要するに、保昌以外全員犯罪者という極めて特異な家庭環境だった。

 絵に描いたような政争に敗れた家の末路と言える。


 その中で唯一まともだったのが保昌と言える。いや、異常な家族であるが故に冷静な常識人にならざる得なかったかもしれない。 

 まともであるが故に、世間の目は彼に容赦なく厳しく、そして冷たい視線を常に向けていたことだろう。なんとかどん底から抜け出そうと必死で努力し、一廉の貴族として見てもらえるように勉学を勤しみ、詩歌音曲も極めた。

 しかし、それでも、朝廷での出世は望めない。殿上人など夢のまた夢。

 そこで血反吐吐く程に鍛え上げ武芸も極めた。

 結果、源頼光に組して、「土蜘蛛」退治など、それなりの武功も挙げたが、当然、それも大将である頼光の手柄であって、郎党でもない自分には「手伝った」という程度の声しか聞こえて来ない。

 だが、保昌はそれでも良かった。

 彼としては、自分に注がれた一家の汚名を少しでも拭えれば良かった。自分はその為にこの身を全て投げうって世の為に尽くさねばならない。

 そう思っている。

 貴族でありながら、いや、貴族であろうとしていたが、今や武名だけが先走り、さらに彼の一族の汚名もあって、彼の武名に集まり武士団が形成されようものなら、何をしでかすかわかったものではないと世間に恐れられもした。

 しかし、そもそも没落した家に郎党を率いる財力もない。まして、武名の前に汚名がある。犯罪者に集まるのは犯罪者だけだ。

 当然、保昌がそれを受け入れるはずもなく、彼は「武者」としては常に一人だった。悲しいかな、そんな保昌を人は「一人武者」と揶揄した。

 そんな彼に声をかけたのが道長だった。

 任じられた役職に対しても常に誠実に勤めて、それなりに実績も挙げていたし、実務能力も高い。

 また、学識もあり、詩歌音曲にも精通している。加えて世にも聞こえた武芸もある。実際、家族の汚名が無ければもっと出世してもおかしくない逸材かもしれない。

 道長もそこに目をつけたのだろう。

 家の執事として迎え入れた。

 そこには、実務能力以上の思惑もあっただろう。

 赤染衛門しかり、紫式部しかり、常に一流の人間を自分や彰子の周りを固める道長からすれば、本人の能力以外は特に気にしない実力主義の考えがあったのかもしれない。


 保昌の持つポテンシャルは期待通りで、道長は保昌を引き上げ、右馬権頭になった。道長の懐刀であるあの頼光と肩を並べるようにまでなったのだ。時の権力者である道長の下になると、世間からの誹謗中傷もいつしか無くなった。


 ただ、保昌の心には常に家族の犯した罪が深く突き刺さっている。どれだけの地位と名声を得ようとも、忘れられないトラウマであり、また、保昌自身も己を律する為に忘れまいと思っていた。

(自分の中にも同じ血が流れている。それがいつ如何なるきっかけで暴走するか分からない。)

 彼の中には常に自分の中にもあるであろう狂気を抑えるために贖罪の心を持ち続けなければならなかった。

 

 それが、今もこうして赤染衛門のもとを訪れる理由である。

 彼女の夫である大江匡衡の左手の指が失われた原因は、弟の保輔だったからだ。


 当然、保輔の被害者は匡衡だけではない。当時に被害者や遺族に定期的にお詫びに回っていた。父や兄の被害者にもである。


 もう十年以上にもなるのに、未だに続けている。

「もう十分だろう。いい加減に辞めたらどうだ」

 と道長も言う。

 相手側もさすがに「もういい」と言っているが、当の本人が辞めないので、主である道長に言って来ているからだ。

 しかし、こればかりは主の言う事でも聞かなかった。

 道長としても、これ以上言うことはできない。

 保昌にとって、これはもはや一種の〝呪い〟である。〝呪い〟を抑えるためにお詫び行脚は続けなければならない。

 では、完全に〝呪い〟を断ち切る方法があるのだろうか。

 原因となる父も兄も弟も、もういないのだ。

 道長は、一度、晴明にも相談してみたが、本物でもない唯物論者の晴明に解決できるわけもなく、今に至る。


 赤染衛門もそのことをわかっている。だからもう話題を切り替えた。


「そういえば、和泉式部とはお会いに?」

「ああ、いえ」

「あらそうですか。・・あの方も大江の出ですよ」

「では、式部というのは、大江の式部卿の御息女と」

「はい。珍しいですね。殿方は皆あの方に心を奪われるというのに、関心はありませんか?」

「式部卿の御息女であれば、多少は・・」


 断ち切りようもない〝呪い〟に振り回されてるこの哀れな男をどうにかしてあげたい。これは、救済という気持ちによるものではない。正直、本人すらも忘れたい過去に付きまとわれ、辛気臭い顔して逢われるのもいい加減嫌なのだ。

 この男には、やはり女が必要だ。

 特に、こういう純情生真面目インテリ男は、なにより和泉式部のような女性には弱い。これまで彼女を求めて破綻した男は、だいたいこういう男だった。

 かと言って、保昌に破綻してもらおうという訳ではないが、〝呪〟を断ち切るくらいにのめり込んでしまえば少しは彼も救われるのではないだろうか。程々なところで、道長に止めてもらえればいい。

 しかし、その道長が和泉式部の相手を探しているところなのは、今の所、赤染衛門も知らない。


「では、とりあえず挨拶なさいませ。今後もお越しになられるならば、猶のことです」

「・・・はぁ」

 どうやら保昌は気乗りしないようだ。

 噂程度なら当然耳にしていたのだろう。


 赤染衛門は、ちょうど慌ただしく大量の書物を抱えて渡っている伊勢大輔を捕まえて、

「これ、ダイスケ。和泉殿は?」

「ダ・・、赤染衛門様まで・・」

 泣きそうな顔をしている。

「ああ、済まぬ。少々戯れが過ぎたようで」


 保昌は、きょとんとした顔で、

「ダイスケ殿?」

と、真面目に返していた。

「ちっ、違います。伊勢大輔と申します」


(なぜ、ダイスケなどと・・?)

と生真面目な男は思いつつ、

「ああ、伊勢の神祇大丞様の御息女か。御堂公よりお話は聞いておりました」

「ありがとうございます」

「伊勢殿、ですから和泉殿は?」

「ああ、申し訳ありません。先ほど、庭先の梅の花を見ておられてましたけど。・・・あの、中宮様が本をご所望で」

「あ、そうですね。早くお持ちして差し上げて」

 伊勢大輔はまた、慌ただしく奥へと下がって行った。

 

「赤染衛門殿、またの機会で結構です。私は、もうこれにて」

 保昌はそう言って、立ち去ろうとした瞬間、庭先を横切るように一塵の風が吹き抜けた。

 風は、花びらと葉を巻き上げ、保昌の前を横切ってゆくと同時に庭に咲いた梅の香も運ぶ。その香りにまじって、なんとも形容し難いが、敢て文字にするならば〝薫〟って来たのだ。

 その〝薫り〟に誘われるように、保昌は風上に目をやると、縁側で庭に咲く梅を見ている和泉式部の姿があった。

 豊かな黒髪を風になびかせ、梅の花の美しさに瞳を潤ませつつ、ゆっくりと、口を開くと、


「梅の香を君によそへてみるからに 花のをり知る身ともなるかな」


 風の流れに逆らうことなく、まるで風が歌っているかのように颯爽として美しい声に心を持って行かれそうになった。


「まぁ、これはまた、よい歌ですね」

と赤染衛門が感嘆してくれたおかげで、保昌も我に返った。

 と同時に、和泉式部もまた、二人に気づいた。


「ありがとうございます。・・・・そちらの方は・・?」


 急に目が合ったからか、それとも既に歌の段階で心を奪われてしまったのか。保昌はおよそ武人とは思えない程、体が硬直してしまって動けない、それどころか、頭も口も回らない。


「はっ!・・・いやその・・。これは、和泉式部殿」

「あら、私をご存じで?」

 赤染衛門がたまらず助け舟を出す。

「御堂のおとどの家司を勤めておいでの、藤原右馬頭殿です」

「藤原保昌と申しまする」

 うっかり名乗ってしまった。

「あらそうですか、保昌様」

 少し笑って、そう和泉式部も返した。続けて、

「お噂はかねがね。とてもお強いんですってね?それに和歌もお上手だとか?」

「いや、和泉殿に申されると誠にお恥ずかしいばかり」


(これはもう蜘蛛の巣にかかったも同然ね)

 赤染衛門はすでに確信した。この場は和泉式部に任せて、何も言わずにゆっくりと場を去った。おそらく何か言ったとしても、保昌には聞こえていなかっただろう。

 そんな保昌をまるで弄ぶかのように、ここから和泉式部の恋のテクニックが炸裂する。

「それで、あなた様も天女殿に?」


「は・・?」


 全く予期せぬ切り返しだった。

 確かに、道長からの使いで小町の様子を見に来たという体でここに来たのだが、この女性は、小町に言い寄る他の公卿たちと同じように思っているのか?

(あれ、さっき、御堂公の家司と紹介されたはずだが・・)

 頭がうまく回らない。

 意味としては違うが、当たらずとも遠からずだから、

「ええ、まぁ」

と、曖昧に返事をしてしまった。

 すると、もはや、それ前提に、

「あの方はあれこれ無理難題を言います。お聞き及びでしょう?であれば、言われる前に貴方様の心を形で示してしまわねば」


(完全に勘違いされてる)

 保昌はそう思ったが、そもそもその前に勘違いをしていたのは、保昌の方だった。本人にその自覚が無いのだが、

(俺にあんな歌を送っておいて、なぜ天女に気があると思うのだ?)

 そう思っていたからだ。


 先述したと思うが、和泉式部の歌は男に勘違いをさせる。

 保昌も、もはやその術中にはまっていた。

 赤染衛門も「蜘蛛の巣にかかっている。」と表現して、それをわかっていた。


「・・・はあ、と申しますと」


 心にも無く、そう無意識に保昌は返した。

 和泉式部は、いたずらにまた少し微笑むと、

「その思いに値する物。そうですね。私であれば、帝の御座所の庭に咲く右近の梅を一枝手折って来て頂ければ、思いが伝わりまする」

「ご・・御座所の右近の梅・・知れれば、命はもとより、一族にまで類が及ぶは必定ですぞ。たかが女子の為に全てを捨てろと申されるわけか」

「無理なら、あきらめなさいませ。私から見たら、あの天女殿は、貴方様程の方が全てを賭けるような女子とも思えませぬ」


(魔性め・・・)

 そう思った。

 背筋がぞくっとする恐怖を、まさか女性から味わうとは夢にも思わなかっただろう。

 半面、自分に贈られたと勘違いした歌の意味を同時に理解してしまい、余計寒くなった。


 先ほどの歌とは、現代語に訳すとこういう意味である。

「あなたは梅の香を袖に焚き染めていたから、梅が咲くとその香をあなたにかこつけて見てしまう。それゆえいつしか、梅の香を嗅いだだけで誰より早く花を手折り楽しむ時節に気づく私になってしま

ったのね」


 歌の時点で既に要求されていたのだ。

 しかも、普通に読めば、「あなた」=保昌、「私」=和泉式部と思う。しかし、風に乗った梅の香とともに聞こえた歌により、「あなた」=和泉式部、「私」=保昌に変換され、暗示にかかったかの

ように、まるで自分が和泉式部に歌を贈ったような勘違いを引き起こしていた。このまま術中に落ちていけば、迷わず危険も顧みることなく右近の梅を手折りに行ってただろう。

(危険だ・・・)

 背筋の凍りつく感覚で、ようやく冷静な我に返った。

(何を勘違いしているのだ。俺は・・)

 

「いや、違うのですっ!」

 そう、振り切るように大声で言った。

 和泉式部は少し驚いた。

「・・その、おとどから様子を見てくるように申しつけられて・・。拙者、おとどの家司ですので・・」

 なぜか、和泉式部を驚かしたことを申し訳なさそうに言った。

 すると和泉式部は、意外そうな顔をして、

「・・・誠に?おとどが?・・・その割には、私の言った戯言を真に受けられたように食ってかかられてましたけど・・」

と言うと、また、いじわるな微笑みを浮かべる。

「いや、その・・、それはその・・」

(その顔はやめてくれ)

 自分が今、どんな顔をしているのか、わからない。

 おそらく、今まで人に見せたこともないような顔をしているに違いない。誰にも見られたくないし、何なら一番見られたくない相手に見られてると思うと、とてつもなく恥ずかしくて仕方がない。

 すると、和泉式部は、そんな保昌の心を知ってか知らずか、急に声にして笑い出すと、

「本当に誠実なお人柄なんですね。歌をたしなむ御仁には珍しい程。・・・ふふふ、戯言です。お気を悪くなさらないで下さい。でも、もしかしたら、天女殿じゃなく、私の監視でも申し付けられま

した?」

 と言うと、またあの微笑みを容赦なく保昌に向けて来た。

「いえっ!・・そのようなことは・・ありませぬ」

 もう真正面から、その顔を見られない、いや、自分の顔を見せられない。必死にその視線から逃れようとした。

 それがまた和泉式部には堪らないらしい。

「うふふふふ・・。これも戯言・・。では、これにて・・」


 そんな保昌を一人ほっといて、笑いながらさっさと奥に下がって行ってしまった。


(なんだ、この感じは?)

 今まで、自分の中に起こったこともない感情だった。

 保昌も、いい歳である。当然、女を知らないうぶな童貞ではない。

 なんなら妻もいたし、子もいる。ただ、妻の例の一族の不祥事で離婚したから、今は独り身ではある。あれ以来、そういう気持ちは絶って、ただ只管に滅私奉公に勤めて来た。

 それだけに、今自分に襲い掛かってくる感情に狼狽し、動揺していた。


 それにしても恐ろしいのは、和泉式部である。彼女がこれを意図的にしているとすれば、保昌もこうはならない。

 何よりも恐ろしいと思うのが、彼女がこれらのやりとりを〝素〟でやっているということだ。

 無意識にやっている。

 天性の才能、いわゆる〝天然〟なのだ。

 彼女の中では、おそらく普通の会話のつもりなのかもしれない。

 しかし、相手は絶対にそうとは思わない。完全に、

「自分に気があるに違いない。」

と思い込んでしまう。

 無意識に相手を術に落とし、ついには破滅的行動も厭わないほど狂わせてしまう。まさに、〝小悪魔〟、〝魔性の女〟だった。

 そうして、ここにまた一人、彼女によって狂っってしまう男が出来上がってしまった。

 

 保昌は、しばらくずっとそこに立っていたが、ふと気が付いて、ぼそっと、

「右近の梅・・・か・・。」

と小さくつぶやくと、藤壺の庭を退出した。



    十五

 

 小町と紫式部は、お礼としてやって来た小兵衛という定子付きの女房に対応していた。

 が、形式的なお礼の言葉が伝えられてから、特に何も話さない。小兵衛がどうしてもと言うので「源氏物語」を読んでもらっていたからで、紫式部も小町も、ただ黙って読んでいる小兵衛を眺めるだけの時間を随分長いこと過ごしていた。

 ようやく読了すると、ふぅーと深く息を吐き、

「なんとも続きが気になりますね」

と言うだけで、感想と言うか、どこのなにがいいとか、登場人物の誰がいいとかは無かった。

「早く続きが読みたいものです。帝もそうおっしゃられてます」

と続けた。


「読みに来たらええんちゃうん」

「小町殿っ、不敬です」

「あ、すみません」

「帝はこう仰せになられてます」

と、小兵衛は続けた。

 天女・小町は非常に面白いが、楽しみにしていた「源氏物語」の筆の進みが遅いことが非常に残念に思っている、と。

 誰のせいかは明らかである。

 そもそも源氏物語も誰の娯楽の為に書かれているのかは、無知の小町ですらよくよく理解している。

 筆者の個人的事情で人気作品の連載が滞り、休載が相次ぐことになると、固定した読者が離れてしまい連載した雑誌の売り上げが落ちることは大問題だろう。

 小町の問題行動で、紫式部の執筆活動が阻害され、それにより藤壺から帝の足が遠のくことになれば、本末転倒である。


 そもそも小町を藤壺に招いたのは道長だが、過剰とも思える帝を呼び込むためのサービスが裏目に出た。

 これが道長の耳に入れば、小町の処遇は大きく変わることにもなるだろう。

 小町と同様に、紫式部も危機感を感じた。

 ここ藤壺での自分の役割を考えると、今、自分が役に立つことと言えば、正直「源氏物語」だけなのだ。彰子の身の回りや、お渡りになられた帝の対応などの様々なことは、赤染衛門という極めて優秀な上司がさばいている。その他の雑用は伊勢大輔が一手に引き受けている。和泉式部に至っては、ホステスとしての能力もあり、歌以外にも恋愛指南もできる。コミュ障の自分には到底真似できない。

 つまり、「源氏物語」なくして存在意義が無いのだ。


 この小兵衛という女房は、お礼と言いつつ、自慢しに来たのか。

 いや、揺さぶりを掛けに来たのだ。

(あんないい人そうなのに、こんなことするんか?)

 定子のことだ。

 小町自身、あの定子がこんなことをしてくるなんて想像つかない。


 小兵衛は続けた。

「帝も今は我が君のお体を殊の外ご案じなされておいでです。長年仲睦まじくお過ごしになられておいでです。何よりも大事に、大切になされておられるのです」

 小兵衛は、多少声を詰まらせて、

「・・・もはや、我が君も長くはないでしょう。帝もそれは重々わかっておいでです。ならば、せめてひと時でも長くお側にいたいと思し召しです。それについては中宮様にもわかってほしいと、そうおっしゃっておられました」


(ほな、自分で言いに来いや)

と帝に対して不敬とわかりながらも思った。

 小兵衛は、と言えば、溜まらずそのあと泣き出した。

(なんや、芝居がかっとんな)


 要するに、定子が亡くなるまでの間はここに帝がお渡りになることはないと、それを了承し、文句を言うな。と、こう言っている。なるほど、人情からすればわからないでもない。定子崩御の後、帝の悲しみを精一杯お慰みできるよう専念してほしい。ということなのだろう。

「しかし、それは中宮様に申されるより、帝からおとどにお話になれることかと存じます。おとどが納得されたことなら、この藤壺はそれに従いまする」


「なるほど、御尤もです。ただ、勘違いをされても困ります。私は、あくまで帝の御意向を伝えたのではなく、その意を汲み取られた皇后宮様が中宮様に配慮されて、事情もわからずお寂しい思いをされないようにとお伝えに参っただけです」

(ああ、そうかいな)

「これはご丁寧なこと。重ね重ね皇后宮様のご配慮には恐れ入ります。この藤壺の主に成り代わり、厚く御礼申し上げます。皇后宮様にもそうお伝えください」

「そうですね。思うに、ご自身の命が尽きようとされる中でも、こうして中宮様にもご配慮なされるとは、なんとお心根のお優しいお方でしょう。・・・そ、それが、なんとも御労しくて・・」


 また泣き出した。

(なんや、これ。もうええっちゅうねん)


 小町は、ここに来てようやく、政局と直結した「伏魔殿」ともいえる後宮に潜む〝魔〟の正体を見た気がした。

 自分が生きて来た世界とは全く違う世界、と実感した。

 なるほど、この藤壺のメンバーにして、強烈な個性の人間がそろっているのも納得だ。皆、自分の武器を頼りにしてなければ、たちまち〝魔〟に飲み込まれてしまうだろう。


(ほな、うちの武器って、何?)

 武器かどうかはともかく、明るく、物怖じせず、常に後先も考えず行動第一で人の懐に嫌な顔されても土足で踏み込める稀有な能力は、まさに人徳と言える。

 しかし、今の話でそれを封じ込まれたら、天女とは言え普通の人、逆に口の利き方を知らないただの下品な女でしかない。

 そうなると、これもまた道長にとって利用価値が無い、置いとくだけ無駄な存在になる。

(あれ?もしかして、うち、八方塞がりなんちゃうん?)

 悠長に、晴明から太郎の情報を待っていたり、紫式部と頼光をくっつけたいなんて下世話なことをやっている場合じゃない。

(どないしよう・・)

 途端に不安に感じて来たが、頼りの晴明とは連絡がつかない。



   十六

 

 その頃、同時に様々な事が起こっていた。

 晴明は、早速大江山の酒呑童子討伐に自分も同行する許しを取り付けるべく、土御門邸に向かった。

 しかし、いざ来てみると、屋敷は物々しい雰囲気に包まれていた。

 門から中庭、邸内に至るまで、武装した武士が慌ただしく立ち回っている。

 そこに兵たちを指揮している頼光もいた。

「左馬頭殿、これはいったい何事ですか?」

 頼光は、待っていたとばかりに事情を話した。


「田鶴様が?」


 聞けば、田鶴、つまり道長の長男、頼通が役所からの帰り道、白昼堂々何者かにさらわれたというのだ。


「まさか。御堂様のご子息と知ってのことですか?」

「わかりませぬ」

「御堂様は?」

「すぐに知らせて、朝議も切り上げて、こちらへお戻りになられてる所です。おとどにも我らの兵を付けておりますれば、もうじきこちらに」


(こりゃ、許しをもらうどころじゃないな)


 日もだいぶ傾いてきている。犯人グループから何か要求があるわけでもない。この時代の夜ともなれば、捜索といえど困難を極める。

 かと言って、一晩でも放置はできない。

 何らかの政治的目的があって攫ったとすればまだ人質として扱われるからまだいいとして、この時代における盗賊や人攫いの犯行ともなれば、道長の子と知っていても、他の貴族の子息と同様にぞんざいに扱われて命も保証できない。事態は一刻も争う。


 そうこうしているうちに、道長が血相変えて帰って来た。

 あの終始、不敵に落ち着き払っていた道長が、とにかくひどく狼狽している。


 それもそうだろう。これまでも、これからも、道長の野心の先にあるものの全ては、息子の頼通が引き継ぐものだからだ。つまり、頼通の為に道長は権力を求めていると言ってもいい。

 その頼通に何かあれば、彼は野心の先の道を失ってしまう。

(驕りによる油断か)

 晴明は思った。

 おそらく、頼光もそう思ったに違いない。

 道長にも再三護衛の数を増やすよう進言してたらしい。

 しかし、権力を完全に掌握したと思っていた道長は、今となって自分や子供を狙ってくるような奴はいないとこれを断った。

 過去においては、命を狙われたり、呪詛をかけられたり、と結構危険な目に逢うこともあった。こういったことは、「大鏡」などの歴史書、「栄花物語」や「御堂関白記」にも記載されている。

 しかし、この今になっては、物々しい警備に守られて洛中を行き来すれば、豪胆で知られた自分が臆病者に見られる。

 これ見よがしに武威を示して周囲を恐れさせ、権力を保つような時代でもまだない。

 「平安」という言葉通り、表面上はいつも通り穏やかな日常を演出する方が受けはいいと思っていた。


 しかし、頼光の懸念は、そうではない。

 今が一番危険なのだ。

 宮中において、皆、道長の手前口にすることないものの、定子への同情は多い。強引に自分の娘を入内させ、中宮に据えたことも見え見えの野心で、正直気分が悪い。しかし、体制は決しており、誰もそれに真正面から異を唱えることもできない。

 火は見えないところで、まだくすぶっている。

 それに、国内に目を向ければ、数年前に猛威を奮った天然痘の影響は今も大きい。数十万もの死者を出し、朝廷でも多数の犠牲者を出した。これにより、政治的空白が生じたばかりか、政争にまで発展した。そんなことで、肝心の甚大な被害を出した流行病に対する対策も、その後の復興策も、ほぼおざなりになってしまっていた。

 地方では、労働者が減り、生産高が極端に減少、当然、税収も下がる。救済措置でも取っていればよいのだが、政争の最中で全くの無策の上、こともあろうに税収確保を優先したせいで、増税し、土地を手放し逃亡するものが続出する。

 その者たちの一部は暴徒化し、賊に身をやつし、さらに集まって組織化される。思えば大江山の酒呑童子もその一例でしかない。これらの賊に対抗する為に自警団が組織され、それが武士団へと変貌を遂げている。今はまさに、その過渡期ともいえる。

 都は都で、地方の難民が職や食料を求めて大挙して流入して来るが、都も例外ではなく、街には路上生活者があふれ、治安は悪化の一途をたどっている。

 民衆の朝廷の無策への不満もたまりにたまっていた。

 そんな中、我平安と、自分たちだけ我が世の春を謳歌し、雅な空気を出してのほほんと牛車にのって市内を巡っていれば、石の一つでも投げたくなる気持ちは理解できる。

 歴史的に見れば、まだ平安を維持できているかもしれないが、この後に起こる様々な戦乱の兆しはもうそこかしこに見えていたのかもしれない。


 余談が過ぎた。

 今はそんなことをグダグダ言っている場合ではない。


「晴明っ!頼むっ、田鶴をっ」

 なりふり構わず、晴明に懇願する。

「かしこまりました。すぐに占いましょう」

 占う。というより、探知した、というのが正解だ。

 晴明は、まず田鶴に持たせたお守りと称した発信機を探索した。

 当然、衛星など飛んでいないので、G Sなどないから、正確な位置の特定はできない。

 それを補うために、都中に張り巡らせたお札センサーを使って、居場所を特定させる。

 およその特定ができたら、都の地図と位置情報を重ねて、今度は「式神」と称した複数の小型ドローンを飛ばす。


「ヒットした」

と、同時に晴明は、その場所に驚いた。


「どうした?居場所がわかったのであろう?申せっ!田鶴はどこじゃっ?」


 ちょうど、そこへ家司の保昌が帰って来た。

 

 なんと、頼通を伴って、である。

 一同は面食らって、言葉が出ない。

 聞けば、藤壺を退出し、土御門邸に戻る最中に頼通を抱えた賊の一団と遭遇し、全員斬って捨てて、頼通を救出したという。

「使いを走らせようとも、思ったのですが。何分、私も一人でしたし、大事にもしても良いか迷いましたので、検非違使へ届け出ることせずに戻ってまいりました」


 頼通は、眠っている。聞けば、眠らされたのか、救出時も寝ていたので事件自体ほぼ覚えていないかもしれない、という。

 とにかく、頼通が無事だったことで、道長は保昌に何度も礼を言い。何か礼をしかいから、所望の物があれば、何でも言えとも言った。

 この時、保昌は、はじめ言い難そうにしていたが、道長の再三の要請に、

「ならば」

と、その所望を口にした。

「大江山の討伐に加えてほしい」

 というものだった。

 藤壺での一件もあって、てっきり和泉式部が欲しいとでも言うのかと思ったら、褒美でもなく討伐軍に加わりたいという。

「されど、それは、この頼光に下されたもので」

と、頼光が言うと、

「いや、総大将は左馬頭殿で結構」


 道長も、さすがにその要望は「そうか、そうか」と即答はできない。今回の件で道長はさすがに考えを改めずにはいられない。保昌まで出すと、自分の周囲を守る者がいなくなってしまう。

 ただ、ダメと言うわけにもいかない。一度、ダメと言ってるにも関わらず、再び要請しているのだ。何か事情があるに違いない。

 道長は、その事情を尋ねた。

 保昌は、しばらく黙って、意を決したように端的に理由を言った。


「酒呑童子は〝袴垂〟です」


 この一言で、保昌の事情を知っている者は、彼が大江山に執着する理由が十二分に分かった。


 〝袴垂〟、「今昔物語」にも「宇治拾遺物語」にも登場する。平安時代最強にして、最凶最悪の盗賊の名である。

 そして、この〝袴垂〟の正体が、保昌の弟、藤原保輔であった。

 一部の説話・講談でも袴垂保輔という名でも登場する。


「・・・しかし、袴垂は十二年前に死んだはずでは」

頼光が、指摘した。


「いかにも。だが、あの男は生きていた。・・・酒呑童子の話を訊いて、よもやと思ってましたが、今日で確信しました」

「今日?」

「私が斬り捨てた賊どもは、奴の手下でした。時折、京にまで来て幼子や女を攫っているそうです。特に貴族の子弟や姫を狙い。身代金を要求するのだとか」


「なるほどの・・。事情は分かった」


 これを聞いてしまっては、もはや止めるわけには行かない。

 保昌にとって、これは何にもましてやらねばならないことなのは、この場にいる人間なら全員知っている。


「おとど、さすれば三郎を呼びましょう。坂東より戻って、今は河内におります」

「おお、頼信か。それなら心強い」


 源頼信。頼光の弟で河内に本拠を置く後の「河内源治」の祖にして、後の世に有名な八幡太郎義家の祖父であり、直系子孫に源頼朝、義経がいる。この頃、父・満仲の勤めた鎮守府将軍の地位を引き継ぎ、また、関東各地の国司も歴任して、将門以来平家が根付いている関東一円に一大勢力を築こうとしていた。つまり、畿内の地盤は兄・頼光が、坂東の地盤は弟・頼信が継承していた。

 頼信は後に「道長四天王」として藤原保昌と共に、その名を連ねている。

(ただ、あいつ呼んでも、素直に応じて来るかな?)

 言ってはみたものの、頼光は不安だった。

 頼信は、実際京のこと、つまり朝廷のことに関わり合いを持とうとしなかった。特に摂関家には極力近づかないようにしている。

 積極的に関わりを持とうとする兄・頼光に対しても、

「あまり深入りするべきじゃない」

と窘めていた。

 彼曰く、

「ろくなことがない。例えるなら、坂東は碁を打つような物。ただ、都はすごろくだ。出る目によって変わる。運任せの博打だ」

 当たってはいる。

 今のところ、兄のすごろくはいい目が出ている。しかし、いつまで続くかわからない。

 そんな中、果たしてこのすごろくに参加してくれるか。


 そんな頼光の不安をよそに、道長は安心していた。

 しかし、ふと頼光は保昌の袖口についた血に気付いた。

「保昌、ケガをされているのでは?」

「なに、かすり傷で」

 保昌は答えた。

(矢傷か・・・)

 頼光は、その時、それくらいしか気に留めなかった。


 そんな中、困っていたのは晴明だった。

 話題が大江山の件になったのは良かったものの、保昌が加わるとなると、もうさすがに自分も行きたいとは言い出し難くなってしまったからだ。あれだけ、小町に偉そうに「俺に任せろ。」と言ってしまった手前、今更行けませんでしたとは言えない。

(偉そうに言うて、それか。使えんやっちゃな)

と、一番使えない奴に上から目線で偉そうに言われることを想像しただけで嫌になってくる。いや、それだけではない。実際、十二年前に死んだはずの〝袴垂〟藤原保輔が大江山の酒呑童子とすれば、猶更、大江山には何かあると思える。

 歴史のずれの原因が大江山に集約されていると晴明は確信していた。

(なんとかしなければ・・)

 と、思ってもこの場でなんともできるわけでもなく、日を改めるほかなかった。



   十七


 翌日、事態はさらに複雑化した。


「右府殿、これはいったい如何なることか?」

 道長は参内して、早々、右大臣、藤原実資を問い質した。

 かの「小右記」を記した人物である。

 我々の知っている歴史では、この時、まだ参議か大納言であったが、元々、年齢にしても道長より年長者で、「小右記」の「小右」とは、藤原北家小野宮流の右大臣で「小右」というもので、小野宮流とは藤原北家のまさに本流の家系であり、いわゆる本家である。政治的にも財産的にも最も力がある。

 道長が如何に力を持とうとも、疎かには扱えない人物である。

 この実資という人物、長年、道長に次ぐ右大臣の地位にあった人だが、権力欲というものは全く無く。「公明正大」という言葉がおそらく大好きな私利私欲や公私混同を絶対にしない理想的な政治家と言える。

 ただ、全てにおいて是々非々で対応し、正しいことは正しい、おかしいことはおかしいとはっきりしていて、そこに忖度も一切ない。いささか融通の利かない人物でもある。

 そんな人物だからこそ、道長一強の時代において長年、No2の座にいられたのだろう。


 道長も、実資を問い質すということは、それなりにらしくないイレギュラーが起こったことを問い質したいからなのだろう。


「隆家が中納言に復したのは、どういうことか?左大臣であり、内覧の職にある以上、この私を通さずに帝の決裁を通すなど、政をないがしろにすることですぞ。右府殿ともあろう方が、そのようなことを許されるとは如何なることか?」


 実資は道長の抗議に動じることなく、小鳥のさえずりのように聞いていた。


「で?左府殿は、何が問題と言われるので?」

と落ち着いた口調で返した。道長は、質問に質問で返されて、少し動じながら、

「それは・・」

 少し、言葉に詰まってしまった。

「そもそも・・、」

 ここから、実資の反論が始まった。


 隆家が左遷先から帰京が許された段階で、前職に当たる中納言の職に復することは決まっていた話で、正式に隆家が参内し、帝に許しを得れば、何も問題ない。


「それとも、帝のお決めになられたことですら、いちいち左府殿の許しが必要とでも?」

「いや、そういうことでは・・」

 もうここまで言われてしまうと、さすがの道長も黙るしかない。

(なんともやりづらい。面倒な男だ)

 そう思ったろう。

(これをすんなり通すわけにはいかんのだ。それでは、伊周が帰って来ても、同じように内大臣に復することになってしまう)

 もはや、支持者もいない。復したところで、以前のように自分の前に立ち塞がることはないのはわかっている。


「それにしても、私がいない時を見計らったかのように、決めたのはさすがに異議を唱えますぞ」


「お言葉ですが、左府殿。隆家の参内は急に決まったわけではない。そもそも予定されていたことだ。それを突然私用で退出されたのは貴方の都合であって、いちいちそれに我らや帝が合わせる必要があるのかな?」


 これも黙るしかなかった。


「事情を聞けば、ご子息が大変な目に逢われたということで致し方ない事と存ずるが、それはそれ。とにかくご無事で何よりであられた。大江山の酒呑童子の件は確かに捨て置けぬ問題と心得た故、左府殿の訴え通り、即討伐の宣下を頂くように致そう」


「そ、それは有難い」

(ぐうううっ・・)

ぐうの音も出ないとはまさにこの事だった。


 実資は、隆家のいる中関白家は嫌いだったようで、道隆の頃についても概ね批判的な意見を述べている。その死後、後を継いだ伊周についても、父親の専横をそのまま引き継いだ姿勢にはあからさまに嫌悪感を示し、長徳の変で左遷された時も「当然の報い」と切り捨てた。

 しかし、そんな実資だが〝さがな者〟隆家に対しては、何故か好意的に見ていた。素行はともかく、忖度なしに誰であろうとも文句を言うところに通じるものがあったのか、わからないがこの二人の関係は長く続いていくことになる。

 道長に対しては別に否定的な姿勢をとっていたわけではない。逆に概ね肯定的でもあった。目に余るような専横をやらず、一応、大概の問題は根回し含めて議論を重視した政治姿勢は評価した。


「ああ、それと左府殿」

と、苦々しい顔をして立ち去ろうとする道長を呼び止めた。


「帝が激怒されてる?」


(昨日のうちに、いったいどれだけの事が起こっている?)


「大変な時に及び立てするのは心苦しい故、ご報告が遅れたが、実はな・・」


 実資から聞かされた報告は、実際、道長と無関係でもなかった。

「右近の梅が、折られただと?」

 そう帝の御座所である紫宸殿の庭に咲く右近の梅が昨日の夕刻に何者かによって一枝盗まれたのだった。


「バカな。北面の武士は何をしておったのだ?」

と言った瞬間、道長は「あっ!」と思っただろう。

 実資は、この言葉を待っていたかのように、

「何をしておるも何も、昨日の警護役は左馬頭殿ご配下の者ども、左府殿のご子息の捜索とのことで大半の者はそちらに駆り出され、御所の警護が非常に手薄だったのがそもそもの原因である」


 公私混同、私利私欲を許さない実資からすれば、とんでもない怠慢である。


(激怒しているのは、その事か)

 実資ほどではないものの、帝もまた、そういうところは厳しい性格で、以前の長徳の変においても、周りの制止も聞かず、手続き全部すっ飛ばして直接命令して、捕吏を伊周の屋敷に差し向け強行突入させたほど、一度キレたら暴走する人である。


 帝に拝謁した道長は只管言い訳に終始した。

 帝も事情は分かってくれたようで、頼通の安否を気にかけ、無事だったことには本心から安堵もされた。

 ただ、それはそれ。

「臣下の息子と朕を天秤にかけるのは本意ではないが、息子の大事に事もあろうか御所の警護の者すら駆り出すのは、いささか公私混同が過ぎるのではないか」

と苦言を呈された。

 盗まれたのが梅一枝なのが幸いで、仮に帝や、三種の神器に代表する皇室の宝物などであったなら、息子の命一つでは済まない。

 苦言を言われるだけで済んだのなら、良しとせねばならない。


 ただ、帝の信用を損ねるのは極めて大きな損害である。 


 道長の専横に唯一異を唱えられる人間とすれば、それは帝しかいないだろう。

 過去には、その帝すら異を唱えれば先帝花山法皇のようにどんな汚い手でも退位させられもした。

 しかし、今は道長にとって後を引き継がせる皇子がいないのだ。

 道長としては、今上帝をなんとか繋ぎとめて、ご機嫌を損ねないように身内に引き込まねばならない。

 にもかかわらず、今回の失態である。

 信用回復には、いち早く梅を盗んだ下手人を捕まえることしかない。

「で、その下手人の目星は? 」

「それが、警護の兵の話によると、夕刻時の暗がり故、顔までは見れなかったようで、ただ・・・」

「ただ?」

「ただの盗人ではないようだ。立烏帽子に直垂を着て、太刀を下げておった。どこぞの家人か、それとも」

「それとも」

「矢を数射射掛けたらしいが、どれも、避けるか太刀で払ったらしい。それなりに武芸の心得がある者のようじゃな」

「・・・武士か・・」


 道長は、とにかく下手人の捜索と、その不祥事の原因を作った大江山酒呑童子討伐の許しを受けた後、改めて帝から、

「それと、道長・・。話しておくことがある」

と切り出され、何かと思い話を訊くと、

 昨日、藤壺で小兵衛の言っていた話だった。


 道長は、帝の拝謁を終えると、その足ですぐに藤壺に向かったのは言うまでもない。

 心の中は様々な感情で渦巻いている。


 しかし、藤壺を訪ねた瞬間、さらに彼を動揺させた。

 部屋の片隅に、花瓶があり、そこに梅の一枝が挿してあった。

 声を震わせつつ、なんとか平静を保って、彰子に聞いてみた。

「・・・これは? 」


 すると、傍に侍っていた赤染衛門が、

「今朝がた、気付いたのですが、おそらく昨夜に誰かが庭先にこれを置いて行かれたみたいで、帝は梅の花がお好きですから、活けてみました」

「・・・・ほう、そうか。して、昨日に何かなかったか? 」

 その梅が、どんな梅か、道長は確認する必要もなかった。

 赤染衛門は、昨日のことを隠すことなく、ありのまま正直に話した。通常ならば、小町が登華殿に行ったことを問い質すことはあるだろう。そして、そのお礼の使いの件についても、詳しく聞きたがるだろう。しかし、そこはスルーした。

 話した赤染衛門も、てっきりそうなるだろうと思っていたが、まさか聞き流す程度で済まされるとは予想外だった。

「他は? 」

と道長が聞くので、保昌が毎度のことで来たことを伝えた。

「他は? 」

 それも聞き流した。

「・・・ああ、それと」

 赤染衛門からすれば、報告するまでもないとりとめのない話と思ってたが、特にこれ以外言うこともなかったので、ついでの話みたいに和泉式部と保昌の話をした。

 ところが、見る見るうちに道長の顔が紅潮しだした。

「え?おとど・・・? 」

 あまりにも顔が紅潮してるので、さすがに赤染衛門も気にかけた。

 傍で聞いていた彰子も、訳が分からず怯えだしている。

「良い。案ずるな。それより和泉の歌はいかような歌か? 」

 何かを必死に堪えている。

 赤染衛門は、和泉式部の歌った梅の歌を覚えている範囲で読んで聞かせた。当然、その後の二人の会話は赤染衛門も聞いていない。

 が、その歌を聞いて、道長は確信を得た。

 もはや、震えが止まらない。

 しかし、隣には彰子がいる。

 この愛する娘には何の罪もない。

 自分勝手な野心のために、まだ十代半ばにも満たない少女に、中宮という地位に無理やり就かせ、なおかつ、二后並立という前代未聞の事態の当事者という、世間の風当たりの最前線に立たせた挙句、帝の子、しかも男子を一刻も早く作るというとんでもない重圧まで掛けてしまっている。本当に申し訳ない。こんな家の娘に生まれなければ、もっと自由に育っていただろうに、それこそ和泉式部のように・・。

 と、考えが巡ると、ふつふつとマグマのように湧き上がってくる感情を必死で抑え込む。

 さすがに様子がおかしいので、彰子も赤染衛門も、怒っているというよりどこか具合が悪く、激痛に耐えているかのようにも見えて、心配そうに声を掛けている。

 だが、道長はもはやその声すら聞こえない。

(落ち着け。とにかくここは落ち着け。彰子には気取られてはならん。この娘にこれ以上余計な心労はかけてはならん。元気な男子を産んでもらうためにも、健やかにいてもらわねばならぬのだ。耐えろ、耐えるのだ道長)

 

必死に耐えた。そして、感情を抑え込み。深く深呼吸した。


「おとど・・?」

「父上・・?」

「・・・うむ、大事ない。済まぬ。心配かけた」

「医者を呼びましょうか?・・・癪ですか?」

「いや、必要ない。何、攣っただけじゃ。」

「・・・はぁ・・」

 癪と言っても、癇癪だった。とは言えない。

 道長はにっこり笑って、

「左様か。あの浮かれ女が保昌と、それはなかなか思いもしなかったわ。実に面白い。できれば、夫婦になってくれれば良いの」

「・・・本当に・・」

 機嫌が直って安堵したのか、二人を引き合わせた行為が道長にも認めてもらったという安堵からなのか、赤染衛門もにっこりと笑った。


「ああ、それとな」

 道長は付け加えるように、二人に伝えた。

 一つは、和泉式部と紫式部を土御門邸に遣わすように。

 もう一つは、帝からの要請で小町は登華殿に移ってもらうこと。

 最後に、活けてあった梅の枝を持って帰ると言って、花瓶ごと持って行った。

 いずれも特に事情を言うことも無く、さっさと藤壺を後にした。



   十八


 晴明は晴明で、大江山同行の許可をもらう為のもっともらしい理由を考えついて、土御門邸を訪ねたが、なぜか道長に会ってもらえなかった。二日、三日と訪ねたが、いずれも理由をつけて会わせてもらえなかった。こんなことは初めてだった。

(何かしたか?それか、何かあったか?)

 しかも、大江山討伐は、まるで何か急かされたように兵が集められ、軍編成が組まれた。

 総大将は源頼光、副将は藤原保昌とし、頼光麾下の兵を中心に総勢2千騎。先発隊千騎を従え、保昌が出陣してしまった。

 残る千騎は翌日総大将頼光が従え出陣する。


(もう今日しかない)

 ただ、もう何もかもおかしい。

 一体、何が起こっているのかわからない。

 お札センサーで確認しようにも、藤壺に至っては、水を打ったように静まり返っていて、あのうるさい小町の声が全く聞こえて来ない。様子がおかしいので、直接行こうとすると、何故か昇殿すら許されなかった。

 情報が完全に途絶された。

 さすがに使いたくなかったが、土御門邸内のお札で音声を拾った。

 出陣を明日に控えた頼光が挨拶に来ていた。

 ありきたりの挨拶を済ませると、道長は頼光と奥の間で二人きりで何やら話した。

(ち、くそ、音声が遠い)

 感度を挙げて、必死に聞き耳を立てた。


「・・・良いか。酒呑童子、首尾よく討ち取った暁には、」

 道長の声だ。

「保昌を殺せ。」

(はぁっ?)

 聞き間違いではない。「保昌を殺せ」と言った。あの道長が、

「は」

 頼光も、即答した。

(どういうことだ?どうなっている?)

「討ち取れるか、あの保昌」

「我らの配下には、綱や貞光、季武もおりまする」

「そうか、そうであるな」

「されど・・・」

「・・・わかるであろう、捨て置けぬのだ。今、帝から信用を失うわけにいかぬ。なんとしても、下手人を挙げねばならぬ。かと言って、それが我が家中の者と知れれば、これまでの苦労が全て水泡に帰す。あの律義者じゃ、いつどこで正直に名乗り出るとも限らぬ。この討伐で、あやつの思いを果たせてやるのは、これまでの働きに報いるせめてもの恩情ぞ。先に磨を裏切ったは、あいつじゃ」

「確かに・・」

「立場が悪うなったは、そなたも同じじゃろう。保昌には死んでもらわねばならぬ」

「和泉式部殿は?」

「・・・困ったもんじゃ。あの保昌すら狂わすとは、あの浮かれ女め。彰子の女房などにするんじゃなかった」

「斬りますか」

「相手は女子ぞ。そうも行くまい。良くも悪くも、目立ち過ぎるでな。しばらくは、この屋敷で大人しくしてもらう。そのうち、地方の小役人にでも嫁にやらすわ」

「・・・おとど、されどどうにも・・」

「皆まで申すな。わかっておる。あまりにも出来すぎておる」

「帝の事と言い、明らかに誰か背後におりますぞ」

「・・・隆家か・・。いや、このやり口はあやつには不似合いすぎる。小野宮の連中か・・・、しかし、当主の実資が承知すまい」

「おとど、気がかりはむしろそちらでございます。私がいない間のこの都の方がよほど・・」

「それを言うなら、頼信は?まだ来ぬのか?」

「かなり急な出陣となりました故、さすがに間に合いませぬ。・・やはり、ここは。晴明殿しかおりませぬぞ」

「されど、そもそもおかしくなったのは、あの天女が来てからじゃ。あの小娘を最初に天女と申したのは、誰あろう晴明じゃ。世話役を買って出たのも、宮中に入れ、藤式部を世話役に推したのも」


(黙って聞いてたら、宮中に入れようとしたのはあんただろ)

と突っ込んでも、向こうには聞こえない。

(結果、全部俺のせいにされてるから、会ってもらえなかったわけか)


「あの小娘には登華殿に移ってもらって正直清々した。どうも、馴れ馴れしい。それに、あの話しようはいつ聞いても慣れん」

「ですからあの時、斬っておけば良かったのです」


 物騒な密談は続くが、聞くのはもう止めた。

 事態は最悪だった。

 と言うこと既に小町も登華殿に移っているのだろう。

(残念ですが、御堂公。完全に相手の術中にはまってますよ)

 晴明は、もはや仕掛けている相手はわかっていた。


 隆家だ。


 あの時の、あの言葉はそういう意味だったのだ。

 とすれば、小町は望んだとおり定子の下に入り、道長を支えていた頼光も保昌も大江山に出てしまう。しかも、保昌に至っては味方から殺害指令まで出る始末だ。

 さらに、自分で言うのも何だがブレーン役の俺まで遠ざけてしまった。頼光は感づいている。

 道長は完全に孤立してしまっていた。

 帝の信用すら揺らいでしまっている以上、もうあと一手で詰みだ。  


 見事なものだ、と感心している場合ではない。


 もし、最後の一手が指されれば、道長が失脚することになる。

 そうなれば、歴史が変わる。

 その場合、この世界は崩壊、消失するかもしれない。

 そうならないかもしれないが、全ては机上の空論だ。

 どうなるかなんて、正直わからない。

 しかし、絶対に、回避しなければならない。

 なぜなら、なんにしても、自分や小町、行方不明の太郎にしたところで、この時代からしたら異端者に他ならない。真っ先に抹消対象となるのは、どう転んでも間違いない。


(さて、そこで問題になるのは、最後の一手がいつになるかだ)

 隆家の目的がなんなのか、これが分かれば、そのタイミングがわかる。阻止できるタイムリミットがいつまでなのか。

「目的は、おのずとわかるな。おそらくは、中関白家の復権だ」

とすれば、中関白家の当主である伊周が大宰府から帰って来た時に仕掛けるはずだ。

「いつ帰って来るか。情報を集める。それと、」

 最後の一手とは何か。

 そして、これに大江山の酒呑童子がどう関わり、あの茨木堂次郎はそこにどう関わっているのか。

「課題は山積みだな。とにかく、情報を集めて、何としてもこの企てを阻止しなくては。止められるもんなら止めて見せろ?上等だ。その挑戦、この天才陰陽師にして、天才物理学者、安倍晴明が受けて立つっ!待ってろ、小町。それまで、耐えてくれ」


 ちなみに、聞くのをやめたあの二人の密談の続きはと言うと。


「ところで、おとど。和泉式部はともかく藤式部も止め置かれてるのはなぜです?」

「うん?」

 道長は、少々言い難そうにしつつも、

「あの天女の世話係にしたせいで、「源氏物語」が滞ってしもうて、それが帝の御不信の一端となった」

「・・・それは天女殿のせいで、藤式部に責任はないのでは?」

「・・・聞いておらぬのか?」

「は?」

「いや、良い。・・・まこと、あの天女は余計な事を吹聴したものよ」

「余計な事?」

「小兵衛とか申す定子の女房に、あろうことか光源氏の手本とした人物の事を漏らしての」

「・・・はぁ」

「興味ないじゃろ?」

「どちらかと言うと」

「そうじゃろ。言わんでもいいんじゃ。そんなこと」

「それを言ってしまったと?・・で、それが藤式部殿にどう関係が?」

「その手本とした人物を帝が耳にされての。・・・激怒された」

「誰でしたので?」

「いや、それがの・・・、そなたじゃ」

「・・・は?」

「光る源氏で、そなた、源頼光じゃ」

「・・・まったく違うのですけど。私の出自から何から」

「だから、それが帝のご勘気に触れてしもうた。光源氏は帝のご落胤ということであるのに、こともあろうに清和源氏、殿上人でもない位階の低い者を手本としてあのように描かれるなどあってはなら

ぬことと・・。根っから真面目なお人柄ゆえ、かなり怒っておいででな」

「おとどは、知っておいでで?」

「知らぬわっ!おかげで大恥をかいた」

「・・・まさか、ご自身と思っておられた、とか?」

「言うなっ!」

「まさか、帝もそう思っていたのでは・・?大人げない」

「言うたなっ!」

「・・・誰を手本といたそうと、「源氏物語」自体は、私から見ても大層面白き物語と心得まするが、それでこの仕打ちは、さすがに」

「おぬし、まんざらでもないのだろう?自分が手本と聞いた故」

「いや、滅相もない。・・・まさかと思いますが、帝の私への不信は、警備の一件もさることながら、それが原因ではありますまいな?」

「・・・あるかもしれぬの」

「はた迷惑な。何故、私を手本なんかに・・」

「・・・わからぬのか?」

「まったく」

「ならば良い」


 こんな話で終わって、翌日、予定通り頼光は出陣した。


 さて、その頃、小町はと言うと、話は登華殿に移らされる日にまで戻る。

 小町は清少納言に無理やり引きずられていた。

 どうやら、さんざん抵抗したようだ。

「ちょっとっ!!何すんねんっ!放せやっ!」

「その言葉使いは非常に耳障り。このわらわがそなたの教育係を勤める。言葉使いから、何から何までみっちりと宮中のしきたりを叩き込んでくれようぞ」

「そらええわ。なんで源氏物語を持って行くんや」


 暴れて抵抗した理由はどうやらこの事のようだ。

 帝の勘気に触れてしまった「源氏物語」は、紫式部が道長により宮廷から下げられたことで、藤壺に残されていたままになっていた。

 小町の異動に伴い、全て回収されることになったので、それを阻止しようとして小町が暴れたらしい。


「何度申せばよいのじゃ。この忌まわしき、はしたなき本は処分するようにとの帝よりの下知じゃ」

「処分?!源氏物語をっ?!んなアホなっ!」


「そなたには、そのかわりに、わらわの書いた随筆を進ぜよう。「枕草子」と申す。よっぽど為になるぞよ」

「枕草子?・・・・あんた、ああっ!そうや、清少納言っ!」

とまあ、こんなやり取りがあったかどうかはともかくとして、

 

「定子様が、またそなたに会えるとそれはそれはお喜びぞ。なぜ、嫌そうにする?そなたも約束しておったことであろう?」


 そう、小町が言い出したことだ。

「いや、ちゃうっ!こんなんは違うっ!うちはもっとっ・・」

 それを言われると返す言葉がない。

 しかし、小町からすると一番納得がいかないのが、

「藤式部、和泉式部さんらはどうなるんやっ!」

 突然、二人が藤壺からいなくなってしまった。理由もわからない。

 ただ、これを問い質す相手は本来、道長である。清少納言に聞くのはさすがに筋違いというものだ。

 しかし、

「ああ、あのいやらしい女子どもも中宮様より離れ、しばらく正式な沙汰あるまで謹慎の身となろうなぁ」

と、普通に答えた。

(やはり、裏で糸を引いてる)

と、思うところだが、小町はそんな意図で聞いていないから、当然そこで引っ掛かったりしない。

 それより彼女が思うのは、政治的思惑に女が振り回されている現状だ。それがどうしても許せない。

 定子に同情し、彼女の力にもなってあげたい。少しでも彼女を喜ばしたい。そう思ったゆえに約束もした。

 それがまた政治的思惑に利用される。


「それじゃぁ、今度は彰子様がかわいそうやろっ!」

 道長が気を使っても、彰子とて今回の処置に思うところは十分にある。親の期待に応えられない自分、そして、自分に尽くしてくれてる女房を守り切れない自分、そんな自分の無力さに相当打ちのめされ、ショックで食事ものどを通さずに臥せってしまっていた。

 赤染衛門も同様に、自分の責任を痛感している。一人、伊勢大輔が必死に世話をしたり、慰めたりもしているが、まだ若い彼女にはさすがに荷が重すぎる。

 そんな藤壺の状態を見て、小町なりに明るく振舞ってもみたが、焼け石に水だった。

 小町の性格上、さすがに「自分のせいだ」とは微塵も思ったりしないが、この重たすぎる空気に、何もできず流されしまう自分の無力さは感じている。それもあって、「源氏物語」だけは守ろうと、必死に抵抗もした。しかし、それも結局、無駄な足掻きに他ならない。

 そんな小町の思いを知ってか知らずか、清少納言は、

「甘いっ!これだけは言っておくぞ、天女殿。これは、そもそも誰あろうそなたが始めたことぞ。知らぬ存ぜぬでは通せぬ」


 この言葉は、さすが効いた。

 正直。弱っていた小町にはボディブローのように効いた。

 清少納言は、当然、小町の事情を知らない。知らないが故に、言っているのは定子との約束の事だろう。

 しかし、小町にとってみれば、ここに至る経過すべてにおいて、そうだったのだ。

(そうや。全部、うちが始めたことやった)

 このどうにもならない政争に巻き込まれたのも、そもそもこの時代に来てしまったからだ。しかも、必死に止めてくれた太郎まで強引に巻き込んでしまった。あとは抗うこともできずに流されるま

ま。自分には自信があった。でも、その自信には何の根拠もなかった。「自分はなんでもうまくやれる。」と思っていた。しかし、それは、単にうまくやれてただけ、または、うまくやらせてもらっていただけだった。人当たりだけで、知識も能力もない。人よりも勝った技量も技術もない。自分一人では何もできず、何も変えられない。


(確かに甘かった)


 痛感した。

 頼りの晴明も来ない。

 抗う術も見つからない。

 清少納言の一言で、ついに小町は大人しくなり、そのまま、登華殿へと移って行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ