聖母の涙
次に向かったのは今まで物置同然だった部屋だ。端に祖父母が使っていた家具が置いてあるだけの部屋。未だに思い出せない祖父母の使った家具を見ると胸がグッと詰まった。
「この部屋は近いうちにアトリエにしましょう。アラネペレの糸をつむぐ道具を持って来ました。取扱説明書がありますから、読んでください。……お嬢様?」
「ううん、ごめんなさい。…説明書がついてるならよかった。蜘蛛の糸の採取方法も載ってるかな?」
「イヴリース、ここでの生活は辛いですか?」
カナリアが私をイヴリースと呼んだのは数えるくらいしかない。子供の頃、キャロルと危ない遊びをして怒られた時と、熱を出した私を看病してくれた時。
『キャロルッ!イヴリースッ!怪我をしたらどうするの!痛い思いをするのは自分なのよ?』
『イヴリース、何も心配しなくて大丈夫よ。たくさん眠って早く元気になって。』
そのどちらも、カナリアの方が痛そうな、苦しそうな顔だった。なのに私はカナリアにイヴリースと呼ばれるのがすごくうれしかった。
子供の頃は分からなかったけど、今も子供だけれど、ようやくわかった。
『イヴリース、カリンのはちみつ漬けよ。これ飲んだらもう苦しいのなくなりますからね。』
遠い記憶で祖母がスプーンで飲ませてくれたカリンのはちみつ漬けを、うっすら思い出した。
イヴリースと呼ばれるとき、愛情がうんと込められている事を感じ取れたからだ。
何も言わず、グスグス泣き出した私をカナリアは抱きしめて、私が落ち着くまでずっと背中を撫でてくれた。
嗚咽でつっかえながら私は祖母の事を忘れていたことと、今断片的に思い出せそうなことを話すとカナリアは抱きしめる腕の力を強めた。
「オリーヴ様を思い出して、お辛くはありませんか?」
「分かんない。でも、愛してくれていたのは知ってるから、思い出したいの。」
「っあぁ、奥様…っ。イヴリース…っ」
カナリアの震えが伝わってくる。カナリアは息を詰めて泣くのか。散々泣いてぼんやりとする頭でそんなことを考えながら、今度は私がその背中を撫でた。
「あのね、さっき、ここでの生活が辛くないかって言ったでしょ?辛くないよ。みんな会いに来てくれるし、憎しみをぶつけられないってすごく楽。…時々寂しいけど。でも、みんなが作ってくれた家はみんなの匂いがする気がして、あの家よりずっと居心地がいいよ。」
「っ」
「カナリア、泣かないで。」
「うぅっ…、イヴ、私は、」
そう言ってカナリアはしばらく黙ってしまった。グッという息を詰める音が時々聞こえる以外は、私がカナリアの背中を撫でる衣擦れの音と、私の泣いた名残のしゃっくりだけが響く。
少し落ち着いてきたらしいカナリアが、嗚咽に邪魔されないよう抑えた声で言った。
「わたし…、私が、あなたを、産んであげたかった…っ」




